緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

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「お客さん、初めての顔だね」

調理場にいる七十代後半くらいの大将らしき男性が、カウンター越しに声をかけてくる。

「ええ、今日引っ越してきたばかりで」

「あらそうなの?」
と、今度は大将の隣に立っている女将おかみさんらしき女性。
「じゃぁ引っ越し早々そうそううちに来てくれたってこと?」
 
「あ、ええここの灯りが見えて吸い寄せられるように、ハハハ。また日を改めます」

言い終わるなり奏は入り口の戸を閉めかけたのだが、「お客さん入んな!」と大将の威勢の良い声が飛んだ。
「引っ越し祝いだ、ってまぁお代は頂くけどよ」

「えっ、良いんですか?」

「ああ特別だ。この街を好きになってもらいたいしな」

「ありがとうございます! 実はお腹ペコペコで、助かりました!」

築うん十年は経っているであろう店は、民芸調のしつらえだ。蕎麦屋の体を保ちつつラーメン屋のようなカウンター席が五つあり、他には四人席が四つと奥には八畳くらいの座敷が二つある。

壁には、それぞれの席から見やすい位置に、同じ内容のお品書きが何か所かに貼ってある。メニューは、蕎麦やうどんの他にも丼物や一品料理など結構多い。

奏は蕎麦を茹でる様子がよく見えるカウンター席に座り、お品書きに目をやった。

――― 色々ありそうだけど、やっぱりざるかな。血糖値下がりきっちゃって、今なら二人前くらいぺろっと食べられそうだ……。

「お客さん、決まりましたか?」

いつの間にか傍に来ていた先ほどの女性店員が、お冷を出しながら言った。

「ええと、ざるの八割蕎麦二人前お願いします」

「二人前ですか?」

「はい、お腹すいちゃって」

「じゃ、三人前いっちゃいましょうか?」
とにっこり。彼女は目をぱちくりさせる奏を見ながら、「冗談です」と、また控えめな笑顔を見せた。

――― なんかちょっと面白い子だな……。大人しそうで冗談なんて言わなそうな感じなのに。

奏はこれと言って特徴のない、彼女の顔を見つめた。

「大将、ざるの八割二人前です」

「おうっ!」

カウンターの中から大将が勢いよく返事をする。

注文を終えた奏の目は、大将が蕎麦を茹でるところに引き寄せられていた。大将はたっぷりのお湯の中で麺を泳がせ、蕎麦から目を離すことはない。

とその時、「これはお店からのサービスね。もうすぐお蕎麦できるけど、お腹すいてるんでしょう? 食べながら待っててね」

恰幅の良い女将さんがポテトサラダの入った器を奏の目の前に置いた。ちなみにポテトサラダは奏の大好物だ。

「ありがとうございます!」

「ごゆっくりね」

奏は早速箸をとり、ポテトサラダをパクリ。もぐもぐもぐ。

――― あ、うまい……。近所にあった肉屋さんのポテサラの味に似てる。なんか懐かしい味だ……。

空きっ腹も手伝って、奏があっという間にポテトサラダをを完食した時、
「はい、お待たせしました」
女将さんは奏の目の前に、つやつやの蕎麦がのったざると薬味などの脇役達を並べた。

「わあ、美味しそうだ。いただきます!」

まずは薬味を入れずに、蕎麦つゆにちょっと蕎麦をつけて一箸啜る。
次の瞬間えも言われぬ蕎麦の香りが口いっぱいに広がった。

――― つるっとした舌ざわりも、太めで若干堅めの歯ごたえも凄く良い……。そばつゆもだしが利いてて旨いなぁ。じぃぃん

「感動するくらい美味しいです。ここに入って正解でした」

奏はカウンター越しに、大将に声をかけた。

「いやぁ、そう言ってくれると嬉しいね~」

そしてこれまたあっという間に、奏は二人前の蕎麦を平らげた。空腹だったのもあるが、職業柄早食いが身についてしまっている。

――― あの子が言った通り三人前にしとけば良かったな……。

「あらもう食べちゃったの?」

ほかのテーブルを拭いていた女将さんが、目を丸くして声をかける。

「ええ、本当においしかったので。あ、ポテトサラダも滅茶苦茶おいしかったです」

「あああれは、美和ちゃん特製なのよ……、ほらあの子が美和ちゃん」

女将さんは入り口に目をやった。奏もつられてくるりと振り向くと、ちょうどさっきの女性店員が、暖簾を取り込んで店内に戻ってきたところだった。

「うちはお父さんと私が道楽でやってるような店だから、のんびり営業でいつ畳んじゃってもいいと思ってたんだけど、一年前に美和ちゃんがアルバイトで来てから、お客さん増えちゃってね……。ねぇ、美和ちゃんっ!」

「え、あ、はいっ、どうしました!?」

突然声をかけられた美和ちゃんは、訳も分からず素っ頓狂な返事をしながら、二人の傍に駆け寄った。

「美和ちゃんのお料理と笑顔目当てのお客さんが多いって言ってたの……」

「そんな違います。お客さんの目当ては大将のお蕎麦です」

美和ちゃんは、ちょっときまり悪そうに言った。

「まぁ確かにお蕎麦目当てに来てくれるお客さんもいるけど、中には週に何日も、しかも昼も夜もカレーだ唐揚げだサバみそだって、美和ちゃんの作ったものを食べに来る人もいるんですよ」

「ちょっと、女将さん」

美和ちゃんの声に被せ、女将さんは話し続ける。

「うちは一品料理はほとんど美和ちゃんが作ってくれてるんです。私が作るとどうしても味が濃くなっちゃうから」

「昼も夜もって熱烈なファンがいるんですね? 凄いな~」
奏がお気楽な声を出すと、美和ちゃんは「そんなんじゃありません」と、少し曇った表情をみせた。

「私まだやること残ってますから、むこう行きますね……」

美和ちゃんの声は穏やかだったが、奏にはこの話題を避けているように感じられた。

――― まずいこと言っちゃったかな……。

美和ちゃんが調理場に姿を消しても、女将さんは声のボリュームを搾り機嫌良さそうに続ける。
女将にとっては可愛い従業員だが、奏にとっては初対面の相手、正直それほど興味のある話題ではないが、顔には出さず話に付き合った。

「その人ね、何か月か前に東京から転勤でこっちに来たんだけど、三石銀行に勤めててカッコ良いのよ~。さっきも残業の途中に来て、肉じゃがとご飯おいしそうに食べてったの。出張の時には必ずお土産買ってきてくれるし、美和ちゃんが作ったお持ち帰り用の卵焼きもちょくちょく買って行くの。ホント美和ちゃんにぞっこんなのよ」

――― 忙しい合間を縫って来てるのか。彼女を好きなんだろうか、それとも料理に惚れ込んでるんだろうか。確かにさっきのポテサラは旨かったな……。俺も常連になりそうだ。 

なんて思っていると、「それとなく聞いたら独身だって言うじゃない」と女将さんは更に声を潜めた。

――― まだ続くのか……。

「誠実そうだし羽振りも良さそうだし、美和ちゃんに『取り持ってあげるから、お付き合いしたら?』って言ったら、『へんなこと言わないで下さい!』って怒られちゃったの。あの子、奥手なのよ」

ははは、と奏は曖昧な笑顔を作り、そのあとすぐに会計を済ませ店を後にした。



次の日の朝、ナースステーションでは八時半から申し送りが始まった。
この申し送りで、すべての患者の状態などについて夜勤の看護師が報告するとともに、患者さんの要望や家族のこと(家族関係、家族が不安に思っていることや希望)も踏まえ、今後どのようなケアを行っていくかについても話し合う。これには医師である奏も参加する。

前夜の夜勤の看護師 前田まえださんが報告する。

「615号室の井口いぐちさんですが、昨夜全然眠れなくて、二時間おきにはナースコールしてきました。時間がとられて大変で、先生から不眠時の指示を出してもらった方がいいと思います」

奏は考えるような素振りをして黙ったままだ。

「ですって桜木先生」

奏の隣に立っている中堅の青木あおきさんが声をかける。

「……」

「どうしました?」
と青木さん。

「井口さんは、なぜ眠れなったんですかね……?」
と奏はほんの少し首をかしげる。

「もともと睡眠時間が短いのは短いそうです。せん妄も少しあるかもしれませんが」
と前田さん。

「では、痛みや不安で眠れないわけではないんですね?」

「ええ、それはそうですが……」
前田さんの声がだんだん小さくなる。

「ええと、井口さんは眠れないことを苦痛に思ってみえますか?」

「いえそういう訳では……」
と、さらに小さくなる。

「眠剤を出すのは簡単ですが、それを井口さんが希望するかどうかですね。僕は、患者さんの希望をいつも第一優先にしたいと思っています。でも、もちろん夜間に一人の患者さんに時間をとられるのは、看護師さんの負担にもなりますから、あとで井口さんと話してみますね」

前任者伊集院先生なら、何も言わずにバンバン眠剤出してくれたのにね……」
看護師達のヒソヒソ声や目配せ、微妙な空気がその場に広がった。

守屋師長がパンパンと手をたたく。
「みなさん、私も桜木先生のおっしゃる通りだと思います。患者さんの気持ちが第一です。みんなでよく考えていきましょう」

看護師達は、一瞬気恥ずかしささえ感じて縮こまり、前任者との違いをつくづく感じたのだった。






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