緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

文字の大きさ
6 / 16

しおりを挟む
奏と守屋師長は、(午後)一時から各病室を回り、途中痛みを訴える患者さんの処置等もあり、全室回り終わった時には三時近くになっていた。

――― 桜木先生、患者さんの病状が完璧に頭に入ってるし、相当頭が良いのは確か。それに一人一人にちゃんと向き合って、患者さん達も安心した顔してた。

「先生そろそろ帰らないと、しばらく病院の当直室で寝る羽目になりますよ」

ん? と微妙な間を置いて、奏はハッと息を飲んだ。

「あっ忘れてました!」

――― 嘘でしょう!?

午後の病棟回りが始まると同時に、引っ越しの事は奏の頭からポロッと抜け落ちていた。

「師長、病棟回り付き合って下さって有り難うございました。僕は先にナースステーションに戻ります。何もなければそのまま帰りますので、とりあえず失礼しますっ」

言うが早いか小走りで去って行く。

――― ちょっと抜けてるわね……けど何だか可愛い。

師長は遠ざかって行く長身を見つめながら、くすりと笑った。



奏は急いで病院をあとにし、地図を片手に歩いて走って新居に到着した。

――― ここだな……。

建物の外観は、古くてボロいプレハブ住宅といった佇まいだが、この日初めて新居を目にした奏は、まぁこんなもんだろう、と特に驚きはしなかった。

当初の希望は、病院の目と鼻の先にある独身寮だったが、あいにく空きがなかった。
その時点で総務から、『一般の不動産屋さんが取り扱う賃貸住宅で気に入ったものがあれば、借り上げという形で対応しますよ』とも言ってもらえたが、如何せん物件回りをする時間がないため、総務からファックスで送られてきた、市内に点在する医師の世帯用住宅の中から、一番小じんまりした家を選んだ。
因みに職員住宅は人気がないようでガラガラだ。

奏が借りたのは築二十五年、病院まで急いで歩いて約二十分、平屋の2LDKで小さな庭と二台分の駐車スペースがついた家だ。家賃はひと月たったの六千円、もちろん敷金も礼金も必要ない。

――― 家の中もそれなりに古くて汚れてるけど、カビがはびこっているわけではないし、シンプルなつくりで使い勝手も良さそうだ。カーテンとか照明器具も残ってて、買いに行く手間が省けてラッキーだ。

黙って立っていれば品が良くて少し神経質そうにも見えるが、その実彼は、誰が使ったか分からないものなんて使えない……という性格ではない。
タオルや食器が残っていても、きっと普通に使ったに違いない。そういう事は全く気にしないのが奏という人間だ。

さて、引っ越し業者は四時きっかりに到着した。
荷造りから荷解きまでお任せの楽々パックを利用したため、搬入がすんだ後は、二人の女性が奏の指示に従って、テキパキと家の各場所に荷物のすべてを収めてくれた。
もちろん机の中の物などは、奏自身が整理したのだが。
電気やガス、水道などの手続きも並行して行い、引っ越し関連で必要なことは、八時近くには一応すべて終わらせることができた。
ただ愛車のプラドだけは、昨日病院の駐車場で引っ越し業者に委託したため、後日届くことになっている。

グッ、グゥゥ~ 

――― お腹すいたな。やっぱり引っ越しそばか? いや今は口に入れば何でもいい! 近所にコンビニは無かったよな……。

奏はとりあえず財布を持って外に出たが、さすがに田舎だけあって暗い。

――― 東京とは違うな……。これが街本来の姿なんだろうな。

少し遠くに目をやれば、デパートの灯りが浮かび上がっている。

――― デパートのレストラン街なら九時か十時頃まではやってるかな? 途中に店があったら、そこに入ればいいし。

奏はすきっ腹を抱え、灯りに吸い寄せられる蛾のように歩き出した。グゥゥ~

家から十分近く歩いて、住宅街の角を曲がった時だった。
あれ? 食堂かな? 数メートル先に、暖簾の周りからうっすら灯りが漏れている店が見え、瞬時に脳と胃袋が反応する。
ふっと顔を上げると、『なごみ庵』『そば』の文字が目に飛び込んできた。
神様のお導きか? なんて思ったそばから足が動き、ガラガラと横開きの戸を開けていた。
蕎麦やそばつゆ、油が混ざり合ったようなお蕎麦屋さんの匂いが、奏の鼻腔になだれ込む。

店内には会計をしている客が二人、テーブルには食事というよりも飲んでいる感じの客が三人いる。客はいずれも男性だ。

「すいません、まだやってますか?」

刹那、入り口の傍で会計作業を終えた従業員の女の子が顔を上げる。

――― 菜…緒な お……

奏は彼女を見た瞬間、心臓をぎゅっと握られたような痛みを感じた。

「すみません、ラストオーダー八時までで、ちょうどいま暖簾をしまおうと思っていたところなんです」

感じの良い声が、店内に優しく響く。

「あ…えと、そうですか」

唇だけ動かしつつ、瞳は女の子を見つめたままだ。

――― 顔も声も似てないじゃないか、落ち着け……


それが奏と美和子みわこの出会いだった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

貴方の幸せの為ならば

缶詰め精霊王
恋愛
主人公たちは幸せだった……あんなことが起きるまでは。 いつも通りに待ち合わせ場所にしていた所に行かなければ……彼を迎えに行ってれば。 後悔しても遅い。だって、もう過ぎたこと……

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

蝋燭

悠十
恋愛
教会の鐘が鳴る。 それは、祝福の鐘だ。 今日、世界を救った勇者と、この国の姫が結婚したのだ。 カレンは幸せそうな二人を見て、悲し気に目を伏せた。 彼女は勇者の恋人だった。 あの日、勇者が記憶を失うまでは……

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

処理中です...