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奏と守屋師長は、(午後)一時から各病室を回り、途中痛みを訴える患者さんの処置等もあり、全室回り終わった時には三時近くになっていた。
――― 桜木先生、患者さんの病状が完璧に頭に入ってるし、相当頭が良いのは確か。それに一人一人にちゃんと向き合って、患者さん達も安心した顔してた。
「先生そろそろ帰らないと、暫く病院の当直室で寝る羽目になりますよ」
ん? と微妙な間を置いて、奏はハッと息を飲んだ。
「あっ忘れてました!」
――― 嘘でしょう!?
午後の病棟回りが始まると同時に、引っ越しの事は奏の頭からポロッと抜け落ちていた。
「師長、病棟回り付き合って下さって有り難うございました。僕は先にナースステーションに戻ります。何もなければそのまま帰りますので、とりあえず失礼しますっ」
言うが早いか小走りで去って行く。
――― ちょっと抜けてるわね……けど何だか可愛い。
師長は遠ざかって行く長身を見つめながら、くすりと笑った。
*
奏は急いで病院をあとにし、地図を片手に歩いて走って新居に到着した。
――― ここだな……。
建物の外観は、古くてボロいプレハブ住宅といった佇まいだが、この日初めて新居を目にした奏は、まぁこんなもんだろう、と特に驚きはしなかった。
当初の希望は、病院の目と鼻の先にある独身寮だったが、あいにく空きがなかった。
その時点で総務から、『一般の不動産屋さんが取り扱う賃貸住宅で気に入ったものがあれば、借り上げという形で対応しますよ』とも言ってもらえたが、如何せん物件回りをする時間がないため、総務からファックスで送られてきた、市内に点在する医師の世帯用住宅の中から、一番小じんまりした家を選んだ。
因みに職員住宅は人気がないようでガラガラだ。
奏が借りたのは築二十五年、病院まで急いで歩いて約二十分、平屋の2LDKで小さな庭と二台分の駐車スペースがついた家だ。家賃はひと月たったの六千円、もちろん敷金も礼金も必要ない。
――― 家の中もそれなりに古くて汚れてるけど、カビがはびこっているわけではないし、シンプルなつくりで使い勝手も良さそうだ。カーテンとか照明器具も残ってて、買いに行く手間が省けてラッキーだ。
黙って立っていれば品が良くて少し神経質そうにも見えるが、その実彼は、誰が使ったか分からないものなんて使えない……という性格ではない。
タオルや食器が残っていても、きっと普通に使ったに違いない。そういう事は全く気にしないのが奏という人間だ。
さて、引っ越し業者は四時きっかりに到着した。
荷造りから荷解きまでお任せの楽々パックを利用したため、搬入がすんだ後は、二人の女性が奏の指示に従って、テキパキと家の各場所に荷物のすべてを収めてくれた。
もちろん机の中の物などは、奏自身が整理したのだが。
電気やガス、水道などの手続きも並行して行い、引っ越し関連で必要なことは、八時近くには一応すべて終わらせることができた。
ただ愛車のプラドだけは、昨日病院の駐車場で引っ越し業者に委託したため、後日届くことになっている。
グッ、グゥゥ~
――― お腹すいたな。やっぱり引っ越しそばか? いや今は口に入れば何でもいい! 近所にコンビニは無かったよな……。
奏はとりあえず財布を持って外に出たが、さすがに田舎だけあって暗い。
――― 東京とは違うな……。これが街本来の姿なんだろうな。
少し遠くに目をやれば、デパートの灯りが浮かび上がっている。
――― デパートのレストラン街なら九時か十時頃まではやってるかな? 途中に店があったら、そこに入ればいいし。
奏はすきっ腹を抱え、灯りに吸い寄せられる蛾のように歩き出した。グゥゥ~
家から十分近く歩いて、住宅街の角を曲がった時だった。
あれ? 食堂かな? 数メートル先に、暖簾の周りからうっすら灯りが漏れている店が見え、瞬時に脳と胃袋が反応する。
ふっと顔を上げると、『なごみ庵』『そば』の文字が目に飛び込んできた。
神様のお導きか? なんて思ったそばから足が動き、ガラガラと横開きの戸を開けていた。
蕎麦やそばつゆ、油が混ざり合ったようなお蕎麦屋さんの匂いが、奏の鼻腔になだれ込む。
店内には会計をしている客が二人、テーブルには食事というよりも飲んでいる感じの客が三人いる。客はいずれも男性だ。
「すいません、まだやってますか?」
刹那、入り口の傍で会計作業を終えた従業員の女の子が顔を上げる。
――― 菜…緒……
奏は彼女を見た瞬間、心臓をぎゅっと握られたような痛みを感じた。
「すみません、ラストオーダー八時までで、ちょうどいま暖簾をしまおうと思っていたところなんです」
感じの良い声が、店内に優しく響く。
「あ…えと、そうですか」
唇だけ動かしつつ、瞳は女の子を見つめたままだ。
――― 顔も声も似てないじゃないか、落ち着け……
それが奏と美和子の出会いだった。
――― 桜木先生、患者さんの病状が完璧に頭に入ってるし、相当頭が良いのは確か。それに一人一人にちゃんと向き合って、患者さん達も安心した顔してた。
「先生そろそろ帰らないと、暫く病院の当直室で寝る羽目になりますよ」
ん? と微妙な間を置いて、奏はハッと息を飲んだ。
「あっ忘れてました!」
――― 嘘でしょう!?
午後の病棟回りが始まると同時に、引っ越しの事は奏の頭からポロッと抜け落ちていた。
「師長、病棟回り付き合って下さって有り難うございました。僕は先にナースステーションに戻ります。何もなければそのまま帰りますので、とりあえず失礼しますっ」
言うが早いか小走りで去って行く。
――― ちょっと抜けてるわね……けど何だか可愛い。
師長は遠ざかって行く長身を見つめながら、くすりと笑った。
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奏は急いで病院をあとにし、地図を片手に歩いて走って新居に到着した。
――― ここだな……。
建物の外観は、古くてボロいプレハブ住宅といった佇まいだが、この日初めて新居を目にした奏は、まぁこんなもんだろう、と特に驚きはしなかった。
当初の希望は、病院の目と鼻の先にある独身寮だったが、あいにく空きがなかった。
その時点で総務から、『一般の不動産屋さんが取り扱う賃貸住宅で気に入ったものがあれば、借り上げという形で対応しますよ』とも言ってもらえたが、如何せん物件回りをする時間がないため、総務からファックスで送られてきた、市内に点在する医師の世帯用住宅の中から、一番小じんまりした家を選んだ。
因みに職員住宅は人気がないようでガラガラだ。
奏が借りたのは築二十五年、病院まで急いで歩いて約二十分、平屋の2LDKで小さな庭と二台分の駐車スペースがついた家だ。家賃はひと月たったの六千円、もちろん敷金も礼金も必要ない。
――― 家の中もそれなりに古くて汚れてるけど、カビがはびこっているわけではないし、シンプルなつくりで使い勝手も良さそうだ。カーテンとか照明器具も残ってて、買いに行く手間が省けてラッキーだ。
黙って立っていれば品が良くて少し神経質そうにも見えるが、その実彼は、誰が使ったか分からないものなんて使えない……という性格ではない。
タオルや食器が残っていても、きっと普通に使ったに違いない。そういう事は全く気にしないのが奏という人間だ。
さて、引っ越し業者は四時きっかりに到着した。
荷造りから荷解きまでお任せの楽々パックを利用したため、搬入がすんだ後は、二人の女性が奏の指示に従って、テキパキと家の各場所に荷物のすべてを収めてくれた。
もちろん机の中の物などは、奏自身が整理したのだが。
電気やガス、水道などの手続きも並行して行い、引っ越し関連で必要なことは、八時近くには一応すべて終わらせることができた。
ただ愛車のプラドだけは、昨日病院の駐車場で引っ越し業者に委託したため、後日届くことになっている。
グッ、グゥゥ~
――― お腹すいたな。やっぱり引っ越しそばか? いや今は口に入れば何でもいい! 近所にコンビニは無かったよな……。
奏はとりあえず財布を持って外に出たが、さすがに田舎だけあって暗い。
――― 東京とは違うな……。これが街本来の姿なんだろうな。
少し遠くに目をやれば、デパートの灯りが浮かび上がっている。
――― デパートのレストラン街なら九時か十時頃まではやってるかな? 途中に店があったら、そこに入ればいいし。
奏はすきっ腹を抱え、灯りに吸い寄せられる蛾のように歩き出した。グゥゥ~
家から十分近く歩いて、住宅街の角を曲がった時だった。
あれ? 食堂かな? 数メートル先に、暖簾の周りからうっすら灯りが漏れている店が見え、瞬時に脳と胃袋が反応する。
ふっと顔を上げると、『なごみ庵』『そば』の文字が目に飛び込んできた。
神様のお導きか? なんて思ったそばから足が動き、ガラガラと横開きの戸を開けていた。
蕎麦やそばつゆ、油が混ざり合ったようなお蕎麦屋さんの匂いが、奏の鼻腔になだれ込む。
店内には会計をしている客が二人、テーブルには食事というよりも飲んでいる感じの客が三人いる。客はいずれも男性だ。
「すいません、まだやってますか?」
刹那、入り口の傍で会計作業を終えた従業員の女の子が顔を上げる。
――― 菜…緒……
奏は彼女を見た瞬間、心臓をぎゅっと握られたような痛みを感じた。
「すみません、ラストオーダー八時までで、ちょうどいま暖簾をしまおうと思っていたところなんです」
感じの良い声が、店内に優しく響く。
「あ…えと、そうですか」
唇だけ動かしつつ、瞳は女の子を見つめたままだ。
――― 顔も声も似てないじゃないか、落ち着け……
それが奏と美和子の出会いだった。
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