緩和ケア医の桜木先生はね・・・

紅牡丹

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602つぎ姉川 玲子あねがわ れいこさんですよね?」

奏の言葉に、またしても守屋師長は瞠目した。

「どうしました?」

「いえ……、よく覚えていらっしゃると思って」

――― 本当によく覚えてる。フルネームまで……。さっきだって竹内さんの痛み止めオキファストの量が増えてること、事前にちゃんと把握してたし。

「カルテは全部見たって言ったじゃないですか。若くてお綺麗なんですから忘れないで下さいよ~」

「は? いえ若くはないですが」

師長はキリっと生真面目に言って、眼鏡のツルをくぃっと上げた。

――― おっと調子に乗りすぎたな……。

「まあ凄く綺麗なのは認めますが、それは記憶力とは関係ありませんね」

今度は茶目っ気たっぷりの澄まし顔で、いけしゃあしゃあと言い放つ。目が笑っていて冗談なのは明らかだ。

二人は顔を見合わせて同時に小さく吹き出した。

――― 師長、お堅いだけの人じゃないみたいで良かった……。



順番に病室を回って行き、ちょうど半分の609号室まで終わった時には、ナースステーションを出てから優に1時間以上が経っていた。

意識もなく話ができない方も半分近くいることを考えると、一人一人にかなりの時間を使ったことになる。

――― スタートとしては合格ね。

口元に笑みを浮かべる師長を見ながら、「どうしたんですか?」と奏は少し首を傾げた。

「ちょっと思い出し笑いです……。それより先生、今日はこれからお引越しですよね? 後半は明日にしましょう。お引越しの時間、大丈夫ですか?」

「ええ、引っ越し屋さんが来るのは(午後)四時以降の予定なので」

昨日の夜まで東京で仕事だった奏は、最終の新幹線でこの地へやって来た。引っ越し荷物を事前に搬入する時間的な余裕はなく、今日やっとの予定だ。そういう事情で初日だが、午後は休みを取ると事前に病院には連絡済みである。

――― ちょっと前に院長から、後任の医者が初日に行き成り半休取るって聞いた時は、何だか前任者伊集院寄りの危険な匂いがすると思ったけど、私の勘違いだったみたいね……ふふふ。

「まあ、三時半に家に着ければ大丈夫です……って師長、また僕の顔見ながら思い出し笑いですか? それとも僕の顔、そんなに面白いですか?」

「はい、けっこう面白いです」

「うわきっつ、そこは真顔で言わないで下さい! ええとですから昼休み終わったら、あと半分の病棟回りもお願いします」

奏は、「承知しました」という声を聞きながら、609号室の奥にある白いソファーにふっと視線を向けた。

「ああ、あちらは談話室になってます」

阿吽の呼吸とでもいうべきタイミングで言って、師長はソファーの方へ歩き出した。

緩和の病室が四個は入りそうな広々とした談話室には、応接セットのようなゆったりしたソファーと木目調のテーブルが二組置いてある。カウンターもあり、コーヒーメーカーや冷蔵庫、ちょっとした食器棚まで備えつけてあり、奥には大型テレビや本棚、それに電子ピアノも置かれている。

「ここは、患者さんやご家族にゆっくり過ごして頂けるようにと考えて作られたスペースです。あと月に一回はここでお茶会をしていますし、クリスマスや夏祭りなど季節の行事も行っています。先生にも色々手伝って頂きますので、よろしくお願いしますね」

「ええ、もちろんです」

――― 守屋師長、凄く優しい目をしてる。さっき院長秋葉先生が、師長は緩和ケアが最もやりたい仕事で、緩和ケア病棟ここに一生懸命尽くされてるとおっしゃっていたけど、頷ける。

「ここは眺めも良いし清潔感もある。温かみも感じられるし、ホッとできる良いスペースですね」

奏が穏やかに言った直後、師長は奏の肩越しに廊下の向こうに視線を向け、「鮫島さめじまさん、こんにちは」と、明るい声を投げかけた。

奏が振り返ると、赤ら顔をした小柄で小太りの男性がフラフラと近づいて来ていて、刹那アルコールの匂いが談話室に流れ込んだ。

――― ええと鮫島さん……、616号室の鮫島 哲也さめじま てつやさんだな。確か五十九歳で膵ガンだった。

「あら、また飲まれてるんですか?」

師長が慣れた調子でさらりと言えば、「ああ、酒だけが俺の家族だからなぁ」と、気安い感じの酔った声が返ってくる。

「それより師長さんよ~、看護師達をちゃんと教育しろよ~。俺が酒買ってこいって頼んだのに、買ってこれないとかぬかしやがんだよ!」

――― 口尖らせて、まるでお姉さんに甘える弟みたいだな。実年齢は、鮫島さんの方が上だけど。

奏は笑いそうになるのを堪えた。

「当たり前じゃないですか! 鮫島さん、いつも言っていますよね? ここは緩和ケア病棟ですから、病室でお酒を飲むこともできますし、タバコも喫煙所でならオッケーです。でも看護師達はあなたの召し使いではありません! 無茶なことばかり言うなら、出て行ってもらわないといけなくなりますよ、分かりましたね?」

――― ピシャリと言ってはいるけれど突き放すのではなく、どこか温かみを感じる言い方だ。さすが師長だけのことはあるな……。

「ちっ、本当にいけすかねぇ師長だなぁ、もっとこう患者には優しくだなぁ……。何だよそんなに睨むなよ」
最後のあたりは急に声が小さくなる。

「鮫島さん、くれぐれも他の患者さんの迷惑にだけはならないようにして下さいね!」

――― 拗ねた弟としっかり者のお姉さんて感じだな。

「分かったよ、ところで見かけない兄ちゃんだな?」

――― に、兄ちゃん!? 
行き成りふられ奏は面食らいつつも、「鮫島さん、こんにちは。今日からここを担当させて頂く桜木と申します。よろしくお願いしますね」

「少し前にお話ししましたよね? 新しい先生です」

「ああ、けどなんだ男かよ。綺麗な女医さんでも連れて来てくれれば良いのに、まったく気が利かねぇ病院だ」

奏はくすりと笑いながら、「ご期待に沿えずに申し訳ありません。ま~あきらめて僕に付き合って下さい」

「しょうがねえなぁ……。じゃあ俺は下の売店に行ってくるからよ。師長さん、なんとかって兄ちゃん、またな」

鮫島さんはちょっと片手をあげながら、二人の前を通り過ぎて行った。

――― 寂しそうな背中だ。

奏は、鼻歌まじりに去って行く背中が、徐々に階段に沈み見えなくなるまで、静かに見つめ続けた。

 

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