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敵意を見せる英子さんに、奏は無意識に少し曇った表情を見せた。不愉快だったからではない。
奏も英子さん同様、日比さんの気持ちや尊厳、残された時間を一番大切にしたいと思っている。
だからこそ痛み止めと手術のどちらを選ぶにしても、内容をきちんと理解したうえで決めてほしいのだが、少なくとも英子さんにはその真意が伝わっていないようで、己の力不足が歯痒くてならなかった。
「ええもちろん、僕の話を聞かれて痛み止めを選ばれるのであれば、そのお気持ちを尊重します。ですが」
奏が次の言葉を言おうとした刹那、「私は話を聞いたうえで、痛み止めで良いって言いましたよね?」と、英子さんは声を荒らげる。
「気持ちを尊重する? だったらあなたは、『分かりました』って言うべきなんじゃないんですか? なのに『ですが』って、言ってること矛盾してますけど?」
カッと目を剥いて怒りをあらわにし、刺々しい疑問符を矢継ぎ早に奏に投げつける。
まだ何か言いたそうだが、弱々しい声がそれを阻んだ。
「英子…そんな言い方…しないでちょうだい」
「だけど……」
英子さんはしぶしぶ矛を収めた。
「僕の言葉が気に障ったのなら謝ります。ただ、今の日比さんの状態を考えると」
「結局また手術を勧めるつもりですか?」
先ほどとは違い静かな物言いだが、瞳には青い炎が揺らめいている。
「母は短い間ですが抗がん剤をやっていました。辛く苦しい治療に疑問を感じ、命が縮まることを覚悟したうえで緩和ケア病棟へ来たんです。穏やかに自分らしく過ごしたい、それが母の、私の願いです。なのにあなたは何の権利があって、命がけでその場しのぎの手術を受けろと、苦痛や恐怖を味わえと言うんですか?」
「分かりました。ただ、痛み止めを使うならば、おそらくはご本人の意識が落ちるくらいの量が必要になります。つまり日比さんは、こんこんと眠ったような状態になり、お話ししたりはできなくなります」
え? っと英子さんは殆ど吐息だけの声を漏らし、まるで体が硬直してしまったかのように立ち尽くした。
――― 話しもできなくなる。覚悟はしていたけど、でも……。
彼女の心臓は再び暴れ始め、思考をどんどん押しのけた。
英子さんは辛うじて動く唇を動かし、「あの…いつまでに…決めれば?」と眦を下げ、さっきまでとはうって変わった泣きそうな顔と弱い声で問いかけた。
「急かすようで申し訳ないのですが、腹膜炎は時間との勝負です。時間が経てば経つほど、命に関わる可能性が大きくなります。出来ればすぐにでも」
とその時「先…生…」日比さんが声が上げた。
「はい、日比さん、どうしました?」
奏は優しく声をかけながら、一二歩移動して日比さんの顔の真横に屈み、数センチのところまで顔を近づけた。隣には娘さんが心配そうに立っている。
日比さんは奏の方へ顔を傾け、さっきよりも大きく(と言っても薄いが)目を開けた。
「…んせい…なら…先生が私なら…ど…しますか?」
奏は少し視線を落とし考える素振りをした。
「僕が日比さんの立場だったら、おそらく手術を選択します。僕の両親であっても、僕の愛する人が日比さんと同じ状態であっても、僕は手術を希望すると思います。上手くいけばですが、痛み止めでの処置よりもずっと長く命がつながる可能性があり、穏やかな時を過ごせるかも知れないからです」
最期まで笑みを崩さず、ゆっくりと答える。
日比さんはもちろんのこと、英子さんも奏の言葉に黙って耳を傾けた。
「ですがそれは、あくまで僕の考えです。手術は危険を伴います。不測の事態が起こるかも知れませんし、命を縮める可能性も否定できません」
「痛み止め…打ったら…どのくら…生きていられる? 隠さず…はっきり教えて…」
奏は何と答えるべきか困ったが、静かに口を開く。
「難しい質問ですが長くても五日、もっと短い可能性も十分あります」
数秒間の沈黙が流れた。
「しゅ…じゅつ…します…。英子も…それでいぃね?」
その声はたどたどしいが、心を決めた潔さが感じられた。
「お母さん……ほんと? よく考えもしないで、ほんとに良いの?」
心配そうな問いに、日比さんは目を開けたまま擦れた声を絞り出した。
「良いよ…。桜木先生は…良い先生…信じる。母さん…だてに…あんたより長く生きてない」
「お母さん……」
英子さんはため息交じりの声を漏らし、「先生、母の体は本当に手術に耐えられるんですか?」と。
その声は、奏に縋るようでもある。
奏は立ち上がり、
「申し訳ありませんが、必ずしも大丈夫とは言えません。先ほども申し上げましたが、手術が命を縮める可能性も否定はできません。また、手術中に医師が予想しないようなことが起こる時もあります」と。
奏は曇った英子さんの表情を見つめながら、「でも精一杯日比さんのために全力を尽くすとお約束します」と続けた。
――― あなたが手術するわけでもないのに、軽々しく全力を尽くすとか言われても白々しいだけ……。
「まるで先生が手術するような言い方ですね?」
英子さんはふっと苦笑し、嫌味を滲ませ呟いた。
「はい、僕が責任をもって手術させて頂きます」
えっ? と英子さんは目を大きく見開き、日比さんは「先生が…やってくれ…の…?」と嬉しそうに呟いた。
*
――― 急げ!
奏は外科の医局に走った。
――― あ、カンファレンス中……ラッキーだ。
「カンファ中に申し訳ありません。緩和ケアの桜木ですが」
奏も英子さん同様、日比さんの気持ちや尊厳、残された時間を一番大切にしたいと思っている。
だからこそ痛み止めと手術のどちらを選ぶにしても、内容をきちんと理解したうえで決めてほしいのだが、少なくとも英子さんにはその真意が伝わっていないようで、己の力不足が歯痒くてならなかった。
「ええもちろん、僕の話を聞かれて痛み止めを選ばれるのであれば、そのお気持ちを尊重します。ですが」
奏が次の言葉を言おうとした刹那、「私は話を聞いたうえで、痛み止めで良いって言いましたよね?」と、英子さんは声を荒らげる。
「気持ちを尊重する? だったらあなたは、『分かりました』って言うべきなんじゃないんですか? なのに『ですが』って、言ってること矛盾してますけど?」
カッと目を剥いて怒りをあらわにし、刺々しい疑問符を矢継ぎ早に奏に投げつける。
まだ何か言いたそうだが、弱々しい声がそれを阻んだ。
「英子…そんな言い方…しないでちょうだい」
「だけど……」
英子さんはしぶしぶ矛を収めた。
「僕の言葉が気に障ったのなら謝ります。ただ、今の日比さんの状態を考えると」
「結局また手術を勧めるつもりですか?」
先ほどとは違い静かな物言いだが、瞳には青い炎が揺らめいている。
「母は短い間ですが抗がん剤をやっていました。辛く苦しい治療に疑問を感じ、命が縮まることを覚悟したうえで緩和ケア病棟へ来たんです。穏やかに自分らしく過ごしたい、それが母の、私の願いです。なのにあなたは何の権利があって、命がけでその場しのぎの手術を受けろと、苦痛や恐怖を味わえと言うんですか?」
「分かりました。ただ、痛み止めを使うならば、おそらくはご本人の意識が落ちるくらいの量が必要になります。つまり日比さんは、こんこんと眠ったような状態になり、お話ししたりはできなくなります」
え? っと英子さんは殆ど吐息だけの声を漏らし、まるで体が硬直してしまったかのように立ち尽くした。
――― 話しもできなくなる。覚悟はしていたけど、でも……。
彼女の心臓は再び暴れ始め、思考をどんどん押しのけた。
英子さんは辛うじて動く唇を動かし、「あの…いつまでに…決めれば?」と眦を下げ、さっきまでとはうって変わった泣きそうな顔と弱い声で問いかけた。
「急かすようで申し訳ないのですが、腹膜炎は時間との勝負です。時間が経てば経つほど、命に関わる可能性が大きくなります。出来ればすぐにでも」
とその時「先…生…」日比さんが声が上げた。
「はい、日比さん、どうしました?」
奏は優しく声をかけながら、一二歩移動して日比さんの顔の真横に屈み、数センチのところまで顔を近づけた。隣には娘さんが心配そうに立っている。
日比さんは奏の方へ顔を傾け、さっきよりも大きく(と言っても薄いが)目を開けた。
「…んせい…なら…先生が私なら…ど…しますか?」
奏は少し視線を落とし考える素振りをした。
「僕が日比さんの立場だったら、おそらく手術を選択します。僕の両親であっても、僕の愛する人が日比さんと同じ状態であっても、僕は手術を希望すると思います。上手くいけばですが、痛み止めでの処置よりもずっと長く命がつながる可能性があり、穏やかな時を過ごせるかも知れないからです」
最期まで笑みを崩さず、ゆっくりと答える。
日比さんはもちろんのこと、英子さんも奏の言葉に黙って耳を傾けた。
「ですがそれは、あくまで僕の考えです。手術は危険を伴います。不測の事態が起こるかも知れませんし、命を縮める可能性も否定できません」
「痛み止め…打ったら…どのくら…生きていられる? 隠さず…はっきり教えて…」
奏は何と答えるべきか困ったが、静かに口を開く。
「難しい質問ですが長くても五日、もっと短い可能性も十分あります」
数秒間の沈黙が流れた。
「しゅ…じゅつ…します…。英子も…それでいぃね?」
その声はたどたどしいが、心を決めた潔さが感じられた。
「お母さん……ほんと? よく考えもしないで、ほんとに良いの?」
心配そうな問いに、日比さんは目を開けたまま擦れた声を絞り出した。
「良いよ…。桜木先生は…良い先生…信じる。母さん…だてに…あんたより長く生きてない」
「お母さん……」
英子さんはため息交じりの声を漏らし、「先生、母の体は本当に手術に耐えられるんですか?」と。
その声は、奏に縋るようでもある。
奏は立ち上がり、
「申し訳ありませんが、必ずしも大丈夫とは言えません。先ほども申し上げましたが、手術が命を縮める可能性も否定はできません。また、手術中に医師が予想しないようなことが起こる時もあります」と。
奏は曇った英子さんの表情を見つめながら、「でも精一杯日比さんのために全力を尽くすとお約束します」と続けた。
――― あなたが手術するわけでもないのに、軽々しく全力を尽くすとか言われても白々しいだけ……。
「まるで先生が手術するような言い方ですね?」
英子さんはふっと苦笑し、嫌味を滲ませ呟いた。
「はい、僕が責任をもって手術させて頂きます」
えっ? と英子さんは目を大きく見開き、日比さんは「先生が…やってくれ…の…?」と嬉しそうに呟いた。
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――― 急げ!
奏は外科の医局に走った。
――― あ、カンファレンス中……ラッキーだ。
「カンファ中に申し訳ありません。緩和ケアの桜木ですが」
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