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日比さんのCT検査が行われている。
出棟前に打った痛み止めが効いてきたのか、苦痛は幾分和らいだように見える。
操作室にいる奏は、一枚一枚映し出されていく画像に目を凝らした。
――― やはり、腸穿孔だ。おそらく穴は腫瘍に巻き込まれた小腸だろう……。
検査を終えた日比さんは、病室を出たとき同様、奏と湯川さんが押すベッドに横たわったまま部屋に戻ってきた。
娘さん(四十代)は既に到着しており、血相変えてベッドに駆け寄ってきた。
「お母さん!!」
日比さんはうっすらと目を開け、「英子」とほとんど口を動かさず言って、目を閉じた。
娘の英子さんは病院から車で二十分ほどの街に、会社員の旦那さんと大学三年生の息子さん、高校二年生の娘さんと住んでいる。
平日は午後五時までパートで事務員をしているが、短い時間でも毎日欠かさずお見舞いには来る。平日は退社後に、土日は都合の良い時間にといった感じだ。ご家族も全面的に協力してくれているようだ。
因みに奏は、昨日も一昨日も英子さんに病室で会い、あいさつ程度だが和やかに言葉を交わしていた。
日比さんには英子さんの下にもう一人娘さんがいるが、その方は旦那さんの仕事の都合で、現在タイに住んでいる。
また、日比さんのご主人は五年前に病気で他界されている。
英子さんは会社に向かう道すがら青木さんから電話をもらい、急遽休みを取り車を飛ばして来たようだ。
「早く来ていただけて助かりました」奏の言葉に英子さんは、「先生…どうして…あの…母は…!?」と説明をせがむ。動揺しているので上手く言葉が出てこないが、根本的な覚悟はできている。
ちょうどベッドをもとの位置に戻した奏は、「そのことですが……」と英子さんに静かに言ってから、日比さんに視線を移した。
「日比さん? 日比さんにも聞いて頂きたいので、お耳を貸してくださいね」
優しく語りかける声が、ひきつった空気を少しだけ柔らかくする。日比さんは細く目を開け小さく頷いた。
英子さんは、電話で聞かされていたよりもかなり穏やかな母の姿を目の当たりにし、徐々に落ち着きを取り戻していた。
「CT検査をしましたが、腸に穴が開いたために急にお腹の痛みが出たようです」
「あ…な?」
英子さんは表情を歪めた。
「はい、おそらく骨盤の中に再発した病気の塊が浸潤していた小腸に、穴を開けたのだと思います。腹膜炎を起こしていますので、痛みをとるためには、かなりの量の痛み止めを使う必要があります」
奏の声は、母と娘の胸に比較的すんなり届いた。
腹膜炎と聞いても英子さんが取り乱さずにいられたのは、いつその時が来てもおかしくない、と覚悟していたからだろう。また奏の話し方や声質も、一助となっていたようだ。
英子さんは辛すぎる現実を必死で受け止め、お母さんが逝ってしまうまでの僅かな時を、とにかく悔いが残らぬよう心の通った温かなものにしたいと願った。
――― まず妹に連絡しなきゃ。最後に一目でも、一言だけでも……
「もう一つ、手術をするという選択肢もあります」
え? っと英子さんは目を見開いた。
その瞳には、希望を見出した輝きではなく、困惑が色濃く滲んでいる。
奏はそれに気づきつつ、穏やかに話し続けた。
「手術で穴の開いた腸を切り取り、繋ぎます。それとお腹の中に溜まった膿をとるために、チューブを何本か置いてきます。もちろん手術でお腹を切る痛みはありますが、それについても十分な痛み止めを使用させて頂きます」
「ちょっと待ってください!」英子さんが強い口調で話を遮る。
「手術って、母は何もしないと決めて緩和ケア病棟に来たんですよ!? どうして今さら手術なんて言うんですか!」
戸惑いと非難が入り混じる硬い声と表情を受け止め、奏は小さく頷いた。
「お気持ちは分かります。確かに緩和ケア病棟は、病気を治すという意味での治療はしません。ですがそれは日比さんの場合、癌に対する治療の事です」
「……」
「今、お話ししているのは、腸に穴があいた腹膜炎に対してどうするかという事です。もちろん、腸に穴が開いたのは、元の病気が原因だと思われます。その病気については、辛いお話しですが治すことはできません。しかし腹膜炎については、治せる可能性があります。ただ手術後はこの病棟で診させて頂くことはできませんから、一般床に移る必要がありますが……」
穏やかに紡がれる言葉はそっと寄り添うようで、日比さんの耳には心地良く、苦痛が和らぐように感じられた。
しかし英子さんは、ふつふつと憤りをつのらせていた。
――― この医者、元の体に戻せるわけでもないのに、手術勧めるってどういうつもりよ! 痛い思いや怖い思いをするのはお母さんだし、そもそも手術中に死んだらどう責任取るの!? さも誠実ぶって話すことで自分に酔ってんの? 丸めこもうとしているようで、こいつホントに腹が立つ!!
「手術後の経過が落ち着いたら、またこちらに戻ってきていただ…」
「先生、痛み止めでいいじゃないですか!!」
英子さんは奏をキッと睨みつけ、はねのけるように話を遮った。
出棟前に打った痛み止めが効いてきたのか、苦痛は幾分和らいだように見える。
操作室にいる奏は、一枚一枚映し出されていく画像に目を凝らした。
――― やはり、腸穿孔だ。おそらく穴は腫瘍に巻き込まれた小腸だろう……。
検査を終えた日比さんは、病室を出たとき同様、奏と湯川さんが押すベッドに横たわったまま部屋に戻ってきた。
娘さん(四十代)は既に到着しており、血相変えてベッドに駆け寄ってきた。
「お母さん!!」
日比さんはうっすらと目を開け、「英子」とほとんど口を動かさず言って、目を閉じた。
娘の英子さんは病院から車で二十分ほどの街に、会社員の旦那さんと大学三年生の息子さん、高校二年生の娘さんと住んでいる。
平日は午後五時までパートで事務員をしているが、短い時間でも毎日欠かさずお見舞いには来る。平日は退社後に、土日は都合の良い時間にといった感じだ。ご家族も全面的に協力してくれているようだ。
因みに奏は、昨日も一昨日も英子さんに病室で会い、あいさつ程度だが和やかに言葉を交わしていた。
日比さんには英子さんの下にもう一人娘さんがいるが、その方は旦那さんの仕事の都合で、現在タイに住んでいる。
また、日比さんのご主人は五年前に病気で他界されている。
英子さんは会社に向かう道すがら青木さんから電話をもらい、急遽休みを取り車を飛ばして来たようだ。
「早く来ていただけて助かりました」奏の言葉に英子さんは、「先生…どうして…あの…母は…!?」と説明をせがむ。動揺しているので上手く言葉が出てこないが、根本的な覚悟はできている。
ちょうどベッドをもとの位置に戻した奏は、「そのことですが……」と英子さんに静かに言ってから、日比さんに視線を移した。
「日比さん? 日比さんにも聞いて頂きたいので、お耳を貸してくださいね」
優しく語りかける声が、ひきつった空気を少しだけ柔らかくする。日比さんは細く目を開け小さく頷いた。
英子さんは、電話で聞かされていたよりもかなり穏やかな母の姿を目の当たりにし、徐々に落ち着きを取り戻していた。
「CT検査をしましたが、腸に穴が開いたために急にお腹の痛みが出たようです」
「あ…な?」
英子さんは表情を歪めた。
「はい、おそらく骨盤の中に再発した病気の塊が浸潤していた小腸に、穴を開けたのだと思います。腹膜炎を起こしていますので、痛みをとるためには、かなりの量の痛み止めを使う必要があります」
奏の声は、母と娘の胸に比較的すんなり届いた。
腹膜炎と聞いても英子さんが取り乱さずにいられたのは、いつその時が来てもおかしくない、と覚悟していたからだろう。また奏の話し方や声質も、一助となっていたようだ。
英子さんは辛すぎる現実を必死で受け止め、お母さんが逝ってしまうまでの僅かな時を、とにかく悔いが残らぬよう心の通った温かなものにしたいと願った。
――― まず妹に連絡しなきゃ。最後に一目でも、一言だけでも……
「もう一つ、手術をするという選択肢もあります」
え? っと英子さんは目を見開いた。
その瞳には、希望を見出した輝きではなく、困惑が色濃く滲んでいる。
奏はそれに気づきつつ、穏やかに話し続けた。
「手術で穴の開いた腸を切り取り、繋ぎます。それとお腹の中に溜まった膿をとるために、チューブを何本か置いてきます。もちろん手術でお腹を切る痛みはありますが、それについても十分な痛み止めを使用させて頂きます」
「ちょっと待ってください!」英子さんが強い口調で話を遮る。
「手術って、母は何もしないと決めて緩和ケア病棟に来たんですよ!? どうして今さら手術なんて言うんですか!」
戸惑いと非難が入り混じる硬い声と表情を受け止め、奏は小さく頷いた。
「お気持ちは分かります。確かに緩和ケア病棟は、病気を治すという意味での治療はしません。ですがそれは日比さんの場合、癌に対する治療の事です」
「……」
「今、お話ししているのは、腸に穴があいた腹膜炎に対してどうするかという事です。もちろん、腸に穴が開いたのは、元の病気が原因だと思われます。その病気については、辛いお話しですが治すことはできません。しかし腹膜炎については、治せる可能性があります。ただ手術後はこの病棟で診させて頂くことはできませんから、一般床に移る必要がありますが……」
穏やかに紡がれる言葉はそっと寄り添うようで、日比さんの耳には心地良く、苦痛が和らぐように感じられた。
しかし英子さんは、ふつふつと憤りをつのらせていた。
――― この医者、元の体に戻せるわけでもないのに、手術勧めるってどういうつもりよ! 痛い思いや怖い思いをするのはお母さんだし、そもそも手術中に死んだらどう責任取るの!? さも誠実ぶって話すことで自分に酔ってんの? 丸めこもうとしているようで、こいつホントに腹が立つ!!
「手術後の経過が落ち着いたら、またこちらに戻ってきていただ…」
「先生、痛み止めでいいじゃないですか!!」
英子さんは奏をキッと睨みつけ、はねのけるように話を遮った。
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