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珍客乱入
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美咲さんの舌と指で攻められた身体をのろのろと動かし、私はバスルームへと向かった。
いよいよ私が空っぽになりかけている事に気付いたのか、美咲さんは普通に私の身体を洗ってくれた。
美咲さんは髪を洗って乾かすつもりなのだろう。
先にバスルームの扉を開けて出ようとした私に声をかける。
「もう、寝てなさい」
「嫌です」
「…困ったわね」
身体をタオルで拭いて歯を磨く。
お湯をかけられて血流が良くなったからか、身体に溜まっていた緊張感やこわばりが一気に取れたようだった。
だから、さっきの「嫌です」は強がりではない。
着ていたワンピースはすっかり汚れてしまって着られなくなっている。
面倒になり私は裸のままベッドに寝ころんだ。
寝ないで待っているつもりだったのに急に睡魔に襲われ、うとうとしていると、髪を乾かした美咲さんが戻ってきた。
また抱かれるのだろうか、とぼんやり考えて少し目を開けてみるけど、美咲さんはそういう事をするつもりはないらしく、だが私と同じように裸のまま私の隣に横たわる。
部屋はエアコンが効いていて、肌の表面は徐々にひんやりとしていく。
美咲さんはシーツ一枚を引き寄せて、自分自身と私とを包むようにそれをかけてくれた。
このまま眠るのか…それも悪くないなあ、という思考を最後に、私は眠りに落ちた。
*-*-*-*-*-
翌日の事。
昼休み直前にほんの少し時間が余ったので、私は祝儀袋に書くための筆ペン文字の練習をしていた。
…今すぐできないと困るというものでもないけれど、筆ペン文字は綺麗に書けるにこした事はない。
もし、自分も含め綺麗に書ける人が身近にいない場合には、わざわざそれが上手な人を捕まえてお願いしなければならず、自力でそれなりの文字が書けるようになっておくのは案外と時間と労力の削減に繋がるのだ。
今日はデスクに就いている課員が多い。
この感じだと、だいたいの人は時間通りに昼休憩を取れるだろう。
昼休みの時間となり、私が練習用のノートを片付けていると、唐突にやや大きめの声が響いた。
確かめずともわかる声と、それが予想もしない事だったので、私は思わずそちらを振り返る。
「冴子、お昼行こうー」
…え?なんで?美咲さんが来てるの?!
「あら、松浦部長」
固まる私とは真逆に、秘書課メンバーはにこやかに美咲さんを歓迎している。
美咲さんは、軽い調子で「入るわよ」とだけ断りを入れた上でどんどん部屋の奥まで歩を進め、私のデスク横に立ち「ほら、行くよ」と私の腕を掴んで立ち上がらせた。
私はと言えば、瞬きも、呼吸する事さえも忘れてしまいただ固まってしまっている。
勿論その光景はその時オフィスにいる秘書課員の注目を集める事となっていた。
そこへ間が抜けたような、梢さんの声が響く。
「あ!私もご一緒したいです~」
「ダメ」
しかし美咲さんはあっさり一蹴。
動かない私に業を煮やして、美咲さんは私を引きずるようにしながら歩き始めた。
…というか何なのみんなのこの歓迎ムードと、この状況に対する落ち着きっぷりは?…
真帆さんに至ってはのんびりと「いってらっしゃい」などと送り出す言葉までかけてくる始末である。
「…あ、ちょ、歩けますから」
どうにか美咲さんの腕から逃れようとするとちょうどエレベーターホールの前にたどり着いていた。
この10階には役員室と秘書課しかないから、フロアを歩く人の数も疎らである。
今も、エレベーターホールには人の姿はなかった。
「あ、財布いらないからね」
「あの、そういう事ではなくて…」
言い終わるかどうかという頃合いでエレベーターが到着するが、中にもやはり人は乗っていない。
…美咲さんと二人きりでエレベーターに乗ったのって、いつ以来だっけ。
そんな事を一瞬考えている間に再び私の腕は取られ、またしても半ば引きずられるようにエレベーターに連れ込まれた。
もはやその感じにも慣れてきて、なぜだかどうでもいいような思考--例えば、現代ものラノベにこういうシーンがあってエレベーター内で壁ドンされる場面があったりするよなあ、なんて事を思っていたりするのは、現実を直視する事から逃げたいという気持ちの現れだろうか。
さすがに壁ドンとまでは行かないまでも、美咲さんは片腕を私の背中に回して身体を密着させてくる。
妙にドキドキするけど、期待する半面これ以上心臓に悪い事は止めて欲しいと思っている自分もいる。
「なんで…こんな事」
ようやくそれだけ言葉にすると、美咲さんは素早く「牽制したのよ」と応じてきた。
…まあ、言葉にすればそういう事なんだろうけど。
それでも私の頭はうまく回らず、ただぼーっとエレベーターの階数表示を眺めている事しかできなかった。
「でもあんまり大した効果はなさそうね、秘書課は下の名前で呼び合ってるんでしょ?」
「…はい」
なんだか、途中でエレベーターが止まって扉が開かないで欲しいような、そうではないような、何とも言えない気分だ。
企画部のある7階でだけは止まらないでくれと願ってはいたけれど。
「…すいませんちょっと混乱していて」
私が顔を伏せると、美咲さんは更に私の身体を引き寄せて、間近で顔を覗き込んでくる。
「…びっくりしちゃった?ごめんね、でも大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、根拠は知らないが、美咲さんにそう言われると本当に大丈夫なような気がしてくる。
「その…あんまりくっつかれると…その」
急に感極まって目の奥が熱くなってきた。
「…今そういう顔するのは反則でしょ」
美咲さんも何かを堪えているような、切羽詰まったような表情に変わる。何を我慢しているのだろうか。
…あ、キスされようとしてるのか、とわかった瞬間にエレベーターは1階に到着し扉が開いた。
「……」
「あら、着いちゃった」
美咲さんはほんの少し腕の力を緩めた程度で、私から離れようとはしなかった。
だからもし開いた扉の目前に誰かがいたら、きっと何か違和感を持たれたかもしれないが、1階にもやはり人は疎らで、私たちの乗るエレベーター前に人の姿はなかった。
「…お姉さまだけ、全部わかってるみたいで変な感じです」
「どこも変じゃないでしょ」
身体を離してお互いにだけ聞こえる小声でそんな言葉を交わしつつ、社のエントランスを抜けていく。
行く先は決まっているらしく、私は黙って美咲さんの後ろをついて歩いた。
歩きながら、ようやく少しずつ先ほどの状況と、それに対する秘書課メンバーの反応について考える事ができた。
多分、みんなは単に私と美咲さんが何かのきっかけで知り合い、個人的に仲が良いのだと解釈したのだろう。
だから私が思うほど、おかしなリアクションをされなかったのだ。
何だか私が一人で変態じみてるような気がしてきて、違う意味で恥ずかしくなる。
私は小走りで美咲さんの真横に並んで、そこからは美咲さんの隣を歩いた。
「…冴子、怒ってる?」
「怒ってないです、恥ずかしかっただけで」
「そう…」
連れて来られたのは、夜の食事ならちょっと高そうな感じのする中国料理の店で、店先には「日替わりランチ:油淋鶏」と書いてある。
「ここでいいよね?」
「はい」
普段美咲さんがよく利用している店らしく、古株と思われる男性の店員さんから「あ、どうも」などと声がかかった。
美咲さんは軽く応じて、その店員さんに示されたテーブルに、私を伴い歩いていく。
椅子に腰かけると、美咲さんは途端に寛いだような息を吐いたけれど、私は初めての店に少し緊張していて、どうしても静かになってしまっていた。
「お二人とも日替わりでいいですか?」
先ほどの店員さんが冷水の入ったコップを運んで来てそう尋ねてくるので、私は首を縦に振った。
「今日はすっごい冷やしラーメンが出てるんだよねぇ」
「あら、そうなんだ」
「何しろ暑いから」
思いのほかその人が話しかけてくるので、美咲さんは「早く切り上げたい」風を隠さないトーンで会話に応じている。
それでも、その店員さんは即座にその空気を読み取れてはいない感じだった。
「でも日替わりでいいです」
「はい、かしこまりました」
美咲さんがそう念押しして、ようやくその店員さんは去って行く。
そう、この店員さんだって、よくお店に来るお客である美咲さんが、今日連れて来た私の事も、単なる仲良しか息抜きに付き合わせたぐらいのただの連れと思っているに違いない。
「…あれ、そっちが良かった?」
一口、と言うにはけっこうな量の水を飲んでから美咲さんが尋ねてくる。
「いえ、大丈夫です」
「じゃ良かった」
「…どーも約一名にはさっぱり牽制と受け取られていなかったみたいだけど、まあいいわ」
「……」
今こうして美咲さんと一緒にランチする、という事があまりに自然で、これまで私が自分自身をいかに縛っていたのか、思い知らされる気がした。
社内で美咲さんとたくさん接する事を、どこかで恐れていたようにも思える。
…始終美咲さんの傍にいて頑張りたい、と思っていたはずなのに何故だろう。
「言葉にして理解する、ってのは大事な事でね」
私は、じっと冷水の入ったコップを見つめて感慨にふけっていたのだけど、ふと発せられた美咲さんの言葉に顔を上げた。
「冴子がずっと考えてる事、勝手に言葉にしちゃうと、まるでちゃんと一人前の仕事ができてみんなに認めてもらってからでないと、私と仕事なんてできない、って思ってるみたい」
断定しないように言ってくれてはいるが、それは正しい。
「…そうだと思います」
「やっぱりね、それ…誰かに言われたの?違うでしょ」
「はい」
油淋鶏定食が運ばれてきて、会話は一旦途切れる。
鶏肉の衣がぱりぱりしていて普通の唐揚げとはちょっと違う感じだが、それはそれで美味しかった。
…美咲さんの仕事について知らないうちは、怖くなかった。ただ近づきたいという気持ちだけでいっぱいだったけど、今は違う。
少し、いやけっこう怖いと思っている。
だから今の私は自分でもそうとわかるぐらいに弱気だ。
「なんだか、向いてないような気がしてしまって」
「なりたくてなったのに?」
「…そうですね」
こういう事を言うのだって甘えなのに。
黙って耐える強さがないから、いつも流されてしまう。
すると美咲さんは、あえて毅然とした空気を、それをどうやって醸し出すのかやり方はわからないけど、ある種の威厳を持った口調でこう切り出した。
「私が見せたかったのはね…」
「はい」
「ただ何もせず流されているだけで、それで手に入るものなんて、知れてるって事よ」
「……」
美咲さんは、私の行いを否定しているわけではない。
でも、今この人は隠していた自己のどこかを開示するのだ、と直感的に理解する。
「例えば今はもう誰にも話してないし知ってる人も減ったけど、ただ私がじっと待っているだけで部長のポストを得たわけじゃない、それはなんとなくわかってきたでしょ?」
「…はい」
「意図して蹴落とした人もいたし、期せずして傷付けた人だっていたかもしれないと思う、けどそうやって『絶対に欲しい、譲れない』という気持ちがなければ手に入らないものの方が、世の中には多いって事」
「冴子は忘れちゃってるかもしれないけど、今その秘書課員のポストは自分で勝ち取ったものなのよ、この間試験にも受かったでしょ」
「はい」
美咲さんは秘書検定の事を言っているのだろう。
確かに先日準1級には合格したばかりだ。
「私の担当秘書になる、って決めたんだから、それがもう目の前にまで迫ってるんだよ?そんな恵まれた状況なのに言い訳して逃げたらダメ、とにかく身体と頭が慣れるまではなんとしても堪えなさい」
「わかりました」
それは自分でも、わかっていた事だ。
環境が変わり思い通りにならない事が多くなって、少し嫌になっていたけれど、もう美咲さんを受け持つという段階はそこまで迫っている。
迫っているからあえて愚痴を言って、その幸運を素直に喜ばない事が美徳であるかのように振舞っている。
そんなの全然恰好良くない。
「そう、だから冴子の事は誰にも譲らないぞとさっきアピールしといたわけよ」
「はぁ…」
急に全然違う話になるので調子が狂ってしまう。
美咲さんは「やっぱり業務時間中だと説教臭くなっちゃってダメだわ」と自分の額を押さえている。
…だけど、美咲さんが年中こんな熱い調子で部下や関係者に話をする場面は想像できなくて、私のためにここまで熱く語ってくれているのは、特別な事のように思えたから、私には全く説教臭いだなんて思えなかった。
「いいんです」
私はそれが例え営業スマイルだとばればれだったとしても、とにかく形だけでも笑っていたくて、美咲さんに精いっぱいの笑顔を向けた。
「…冴子って、仕事だとそういう風に笑うのね」
「え…?」
「地味に間近で見たの初めてかも」
「そうでしたか」
「私も、慣れなくちゃね、そういうのに」
「そうしてください」
ランチでもやはり、美咲さんは食べるのが速くて、私は大幅に遅れを取った。
「本当はタピオカココナッツミルクもご馳走したいけど、時間がなさそうね」
「それはまた、別の機会に」
「そうね」
直接、「また一緒に来たい」とまでは言えなかったけれど、お見せの人が言っていた冷やしラーメンと、タピオカココナッツミルクを食べるという名目ができただけでも私は十分嬉しかった。
美咲さんの担当秘書は真帆さんでいいじゃないかとか、私である必要はないかもとか、そう考えていたら本当に引き継いでもらえないかもしれない。
だから美咲さんの言う事は正しい。
「…偉そうに言ったけど、早くそうなってくれないと冴子を見張るわけにもいかないし困るんだからね」
「は、はい…」
会計を済ませ二人で社に戻る途中、美咲さんはそんな感情を吐露した。
どれだけ秘書課員を危険視しているのだろう、と心配になるけれど、美咲さんからすればそれぐらいの事なのだろう。
「冴子の心というより身体が危険に晒されているような気がしてならない」などとも言う。
「ほんと嫌だわ、あのオフィスに戻すぐらいなら進藤さんの横に張り付いててもらうほうがよっぽど安心だもの」
「え…」
そこまでなのか。美咲さんが感じ取っている危険性の正体を、その渦中にある私が認識できていない。
「あ、決めた。これから当分毎日ランチに連れ出すからね」
「え、あ…わかりました」
「うんうん」
でも、毎回あんなに派手な乱入をされてしまうとそれはそれで微妙だ。
10階まで一緒に行く、と美咲さんに言われて、オフィスを出た時と同じように再び二人でエレベーターに乗った。
さすがに1階から二人きりにはならなかったが、階が上がるにつれて人が減って行き、10階に着いた時には私と美咲さん二人だけになっていた。
「じゃあね、午後も頑張って」
「はい、ありがとうございます、ご馳走さまでした」
美咲さんはわざわざエレベーターホールまで降りて見送ってくれている。
私は頭を下げて廊下へ歩き出そうとしたが、絶妙なタイミングで不意打ちのように身体を捕まえられてキスされたので、私は慌てた。
「…ここで、そういう事は…」
「誰もいないし大丈夫でしょ」
美咲さんはけろっとしている。その上余計な事まで付け足してきた。
「私なんて非常階段でパンツまで脱がされてるのよ?」
「それは…」
その件には触れないで欲しい。
だから私は急いで「失礼します」と言い逃げるようにそこから立ち去った。
美咲さんは余裕ありげに片手を振っていたけれど。
いよいよ私が空っぽになりかけている事に気付いたのか、美咲さんは普通に私の身体を洗ってくれた。
美咲さんは髪を洗って乾かすつもりなのだろう。
先にバスルームの扉を開けて出ようとした私に声をかける。
「もう、寝てなさい」
「嫌です」
「…困ったわね」
身体をタオルで拭いて歯を磨く。
お湯をかけられて血流が良くなったからか、身体に溜まっていた緊張感やこわばりが一気に取れたようだった。
だから、さっきの「嫌です」は強がりではない。
着ていたワンピースはすっかり汚れてしまって着られなくなっている。
面倒になり私は裸のままベッドに寝ころんだ。
寝ないで待っているつもりだったのに急に睡魔に襲われ、うとうとしていると、髪を乾かした美咲さんが戻ってきた。
また抱かれるのだろうか、とぼんやり考えて少し目を開けてみるけど、美咲さんはそういう事をするつもりはないらしく、だが私と同じように裸のまま私の隣に横たわる。
部屋はエアコンが効いていて、肌の表面は徐々にひんやりとしていく。
美咲さんはシーツ一枚を引き寄せて、自分自身と私とを包むようにそれをかけてくれた。
このまま眠るのか…それも悪くないなあ、という思考を最後に、私は眠りに落ちた。
*-*-*-*-*-
翌日の事。
昼休み直前にほんの少し時間が余ったので、私は祝儀袋に書くための筆ペン文字の練習をしていた。
…今すぐできないと困るというものでもないけれど、筆ペン文字は綺麗に書けるにこした事はない。
もし、自分も含め綺麗に書ける人が身近にいない場合には、わざわざそれが上手な人を捕まえてお願いしなければならず、自力でそれなりの文字が書けるようになっておくのは案外と時間と労力の削減に繋がるのだ。
今日はデスクに就いている課員が多い。
この感じだと、だいたいの人は時間通りに昼休憩を取れるだろう。
昼休みの時間となり、私が練習用のノートを片付けていると、唐突にやや大きめの声が響いた。
確かめずともわかる声と、それが予想もしない事だったので、私は思わずそちらを振り返る。
「冴子、お昼行こうー」
…え?なんで?美咲さんが来てるの?!
「あら、松浦部長」
固まる私とは真逆に、秘書課メンバーはにこやかに美咲さんを歓迎している。
美咲さんは、軽い調子で「入るわよ」とだけ断りを入れた上でどんどん部屋の奥まで歩を進め、私のデスク横に立ち「ほら、行くよ」と私の腕を掴んで立ち上がらせた。
私はと言えば、瞬きも、呼吸する事さえも忘れてしまいただ固まってしまっている。
勿論その光景はその時オフィスにいる秘書課員の注目を集める事となっていた。
そこへ間が抜けたような、梢さんの声が響く。
「あ!私もご一緒したいです~」
「ダメ」
しかし美咲さんはあっさり一蹴。
動かない私に業を煮やして、美咲さんは私を引きずるようにしながら歩き始めた。
…というか何なのみんなのこの歓迎ムードと、この状況に対する落ち着きっぷりは?…
真帆さんに至ってはのんびりと「いってらっしゃい」などと送り出す言葉までかけてくる始末である。
「…あ、ちょ、歩けますから」
どうにか美咲さんの腕から逃れようとするとちょうどエレベーターホールの前にたどり着いていた。
この10階には役員室と秘書課しかないから、フロアを歩く人の数も疎らである。
今も、エレベーターホールには人の姿はなかった。
「あ、財布いらないからね」
「あの、そういう事ではなくて…」
言い終わるかどうかという頃合いでエレベーターが到着するが、中にもやはり人は乗っていない。
…美咲さんと二人きりでエレベーターに乗ったのって、いつ以来だっけ。
そんな事を一瞬考えている間に再び私の腕は取られ、またしても半ば引きずられるようにエレベーターに連れ込まれた。
もはやその感じにも慣れてきて、なぜだかどうでもいいような思考--例えば、現代ものラノベにこういうシーンがあってエレベーター内で壁ドンされる場面があったりするよなあ、なんて事を思っていたりするのは、現実を直視する事から逃げたいという気持ちの現れだろうか。
さすがに壁ドンとまでは行かないまでも、美咲さんは片腕を私の背中に回して身体を密着させてくる。
妙にドキドキするけど、期待する半面これ以上心臓に悪い事は止めて欲しいと思っている自分もいる。
「なんで…こんな事」
ようやくそれだけ言葉にすると、美咲さんは素早く「牽制したのよ」と応じてきた。
…まあ、言葉にすればそういう事なんだろうけど。
それでも私の頭はうまく回らず、ただぼーっとエレベーターの階数表示を眺めている事しかできなかった。
「でもあんまり大した効果はなさそうね、秘書課は下の名前で呼び合ってるんでしょ?」
「…はい」
なんだか、途中でエレベーターが止まって扉が開かないで欲しいような、そうではないような、何とも言えない気分だ。
企画部のある7階でだけは止まらないでくれと願ってはいたけれど。
「…すいませんちょっと混乱していて」
私が顔を伏せると、美咲さんは更に私の身体を引き寄せて、間近で顔を覗き込んでくる。
「…びっくりしちゃった?ごめんね、でも大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、根拠は知らないが、美咲さんにそう言われると本当に大丈夫なような気がしてくる。
「その…あんまりくっつかれると…その」
急に感極まって目の奥が熱くなってきた。
「…今そういう顔するのは反則でしょ」
美咲さんも何かを堪えているような、切羽詰まったような表情に変わる。何を我慢しているのだろうか。
…あ、キスされようとしてるのか、とわかった瞬間にエレベーターは1階に到着し扉が開いた。
「……」
「あら、着いちゃった」
美咲さんはほんの少し腕の力を緩めた程度で、私から離れようとはしなかった。
だからもし開いた扉の目前に誰かがいたら、きっと何か違和感を持たれたかもしれないが、1階にもやはり人は疎らで、私たちの乗るエレベーター前に人の姿はなかった。
「…お姉さまだけ、全部わかってるみたいで変な感じです」
「どこも変じゃないでしょ」
身体を離してお互いにだけ聞こえる小声でそんな言葉を交わしつつ、社のエントランスを抜けていく。
行く先は決まっているらしく、私は黙って美咲さんの後ろをついて歩いた。
歩きながら、ようやく少しずつ先ほどの状況と、それに対する秘書課メンバーの反応について考える事ができた。
多分、みんなは単に私と美咲さんが何かのきっかけで知り合い、個人的に仲が良いのだと解釈したのだろう。
だから私が思うほど、おかしなリアクションをされなかったのだ。
何だか私が一人で変態じみてるような気がしてきて、違う意味で恥ずかしくなる。
私は小走りで美咲さんの真横に並んで、そこからは美咲さんの隣を歩いた。
「…冴子、怒ってる?」
「怒ってないです、恥ずかしかっただけで」
「そう…」
連れて来られたのは、夜の食事ならちょっと高そうな感じのする中国料理の店で、店先には「日替わりランチ:油淋鶏」と書いてある。
「ここでいいよね?」
「はい」
普段美咲さんがよく利用している店らしく、古株と思われる男性の店員さんから「あ、どうも」などと声がかかった。
美咲さんは軽く応じて、その店員さんに示されたテーブルに、私を伴い歩いていく。
椅子に腰かけると、美咲さんは途端に寛いだような息を吐いたけれど、私は初めての店に少し緊張していて、どうしても静かになってしまっていた。
「お二人とも日替わりでいいですか?」
先ほどの店員さんが冷水の入ったコップを運んで来てそう尋ねてくるので、私は首を縦に振った。
「今日はすっごい冷やしラーメンが出てるんだよねぇ」
「あら、そうなんだ」
「何しろ暑いから」
思いのほかその人が話しかけてくるので、美咲さんは「早く切り上げたい」風を隠さないトーンで会話に応じている。
それでも、その店員さんは即座にその空気を読み取れてはいない感じだった。
「でも日替わりでいいです」
「はい、かしこまりました」
美咲さんがそう念押しして、ようやくその店員さんは去って行く。
そう、この店員さんだって、よくお店に来るお客である美咲さんが、今日連れて来た私の事も、単なる仲良しか息抜きに付き合わせたぐらいのただの連れと思っているに違いない。
「…あれ、そっちが良かった?」
一口、と言うにはけっこうな量の水を飲んでから美咲さんが尋ねてくる。
「いえ、大丈夫です」
「じゃ良かった」
「…どーも約一名にはさっぱり牽制と受け取られていなかったみたいだけど、まあいいわ」
「……」
今こうして美咲さんと一緒にランチする、という事があまりに自然で、これまで私が自分自身をいかに縛っていたのか、思い知らされる気がした。
社内で美咲さんとたくさん接する事を、どこかで恐れていたようにも思える。
…始終美咲さんの傍にいて頑張りたい、と思っていたはずなのに何故だろう。
「言葉にして理解する、ってのは大事な事でね」
私は、じっと冷水の入ったコップを見つめて感慨にふけっていたのだけど、ふと発せられた美咲さんの言葉に顔を上げた。
「冴子がずっと考えてる事、勝手に言葉にしちゃうと、まるでちゃんと一人前の仕事ができてみんなに認めてもらってからでないと、私と仕事なんてできない、って思ってるみたい」
断定しないように言ってくれてはいるが、それは正しい。
「…そうだと思います」
「やっぱりね、それ…誰かに言われたの?違うでしょ」
「はい」
油淋鶏定食が運ばれてきて、会話は一旦途切れる。
鶏肉の衣がぱりぱりしていて普通の唐揚げとはちょっと違う感じだが、それはそれで美味しかった。
…美咲さんの仕事について知らないうちは、怖くなかった。ただ近づきたいという気持ちだけでいっぱいだったけど、今は違う。
少し、いやけっこう怖いと思っている。
だから今の私は自分でもそうとわかるぐらいに弱気だ。
「なんだか、向いてないような気がしてしまって」
「なりたくてなったのに?」
「…そうですね」
こういう事を言うのだって甘えなのに。
黙って耐える強さがないから、いつも流されてしまう。
すると美咲さんは、あえて毅然とした空気を、それをどうやって醸し出すのかやり方はわからないけど、ある種の威厳を持った口調でこう切り出した。
「私が見せたかったのはね…」
「はい」
「ただ何もせず流されているだけで、それで手に入るものなんて、知れてるって事よ」
「……」
美咲さんは、私の行いを否定しているわけではない。
でも、今この人は隠していた自己のどこかを開示するのだ、と直感的に理解する。
「例えば今はもう誰にも話してないし知ってる人も減ったけど、ただ私がじっと待っているだけで部長のポストを得たわけじゃない、それはなんとなくわかってきたでしょ?」
「…はい」
「意図して蹴落とした人もいたし、期せずして傷付けた人だっていたかもしれないと思う、けどそうやって『絶対に欲しい、譲れない』という気持ちがなければ手に入らないものの方が、世の中には多いって事」
「冴子は忘れちゃってるかもしれないけど、今その秘書課員のポストは自分で勝ち取ったものなのよ、この間試験にも受かったでしょ」
「はい」
美咲さんは秘書検定の事を言っているのだろう。
確かに先日準1級には合格したばかりだ。
「私の担当秘書になる、って決めたんだから、それがもう目の前にまで迫ってるんだよ?そんな恵まれた状況なのに言い訳して逃げたらダメ、とにかく身体と頭が慣れるまではなんとしても堪えなさい」
「わかりました」
それは自分でも、わかっていた事だ。
環境が変わり思い通りにならない事が多くなって、少し嫌になっていたけれど、もう美咲さんを受け持つという段階はそこまで迫っている。
迫っているからあえて愚痴を言って、その幸運を素直に喜ばない事が美徳であるかのように振舞っている。
そんなの全然恰好良くない。
「そう、だから冴子の事は誰にも譲らないぞとさっきアピールしといたわけよ」
「はぁ…」
急に全然違う話になるので調子が狂ってしまう。
美咲さんは「やっぱり業務時間中だと説教臭くなっちゃってダメだわ」と自分の額を押さえている。
…だけど、美咲さんが年中こんな熱い調子で部下や関係者に話をする場面は想像できなくて、私のためにここまで熱く語ってくれているのは、特別な事のように思えたから、私には全く説教臭いだなんて思えなかった。
「いいんです」
私はそれが例え営業スマイルだとばればれだったとしても、とにかく形だけでも笑っていたくて、美咲さんに精いっぱいの笑顔を向けた。
「…冴子って、仕事だとそういう風に笑うのね」
「え…?」
「地味に間近で見たの初めてかも」
「そうでしたか」
「私も、慣れなくちゃね、そういうのに」
「そうしてください」
ランチでもやはり、美咲さんは食べるのが速くて、私は大幅に遅れを取った。
「本当はタピオカココナッツミルクもご馳走したいけど、時間がなさそうね」
「それはまた、別の機会に」
「そうね」
直接、「また一緒に来たい」とまでは言えなかったけれど、お見せの人が言っていた冷やしラーメンと、タピオカココナッツミルクを食べるという名目ができただけでも私は十分嬉しかった。
美咲さんの担当秘書は真帆さんでいいじゃないかとか、私である必要はないかもとか、そう考えていたら本当に引き継いでもらえないかもしれない。
だから美咲さんの言う事は正しい。
「…偉そうに言ったけど、早くそうなってくれないと冴子を見張るわけにもいかないし困るんだからね」
「は、はい…」
会計を済ませ二人で社に戻る途中、美咲さんはそんな感情を吐露した。
どれだけ秘書課員を危険視しているのだろう、と心配になるけれど、美咲さんからすればそれぐらいの事なのだろう。
「冴子の心というより身体が危険に晒されているような気がしてならない」などとも言う。
「ほんと嫌だわ、あのオフィスに戻すぐらいなら進藤さんの横に張り付いててもらうほうがよっぽど安心だもの」
「え…」
そこまでなのか。美咲さんが感じ取っている危険性の正体を、その渦中にある私が認識できていない。
「あ、決めた。これから当分毎日ランチに連れ出すからね」
「え、あ…わかりました」
「うんうん」
でも、毎回あんなに派手な乱入をされてしまうとそれはそれで微妙だ。
10階まで一緒に行く、と美咲さんに言われて、オフィスを出た時と同じように再び二人でエレベーターに乗った。
さすがに1階から二人きりにはならなかったが、階が上がるにつれて人が減って行き、10階に着いた時には私と美咲さん二人だけになっていた。
「じゃあね、午後も頑張って」
「はい、ありがとうございます、ご馳走さまでした」
美咲さんはわざわざエレベーターホールまで降りて見送ってくれている。
私は頭を下げて廊下へ歩き出そうとしたが、絶妙なタイミングで不意打ちのように身体を捕まえられてキスされたので、私は慌てた。
「…ここで、そういう事は…」
「誰もいないし大丈夫でしょ」
美咲さんはけろっとしている。その上余計な事まで付け足してきた。
「私なんて非常階段でパンツまで脱がされてるのよ?」
「それは…」
その件には触れないで欲しい。
だから私は急いで「失礼します」と言い逃げるようにそこから立ち去った。
美咲さんは余裕ありげに片手を振っていたけれど。
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その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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