今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです

有賀冬馬

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 夜会場から逃げ出した私は、自分がどの門をくぐり、どの通りを曲がり、どの角を折れたのか――そのほとんどを覚えていなかった。
 気がつけば、ただ無我夢中で、足だけが勝手に前へ前へと動いていた。頭の中は真っ白で、考える余裕などなかった。ただ、背後から追いかけてくるかもしれない眩しい光や、人々の好奇と嘲笑が入り混じった視線から、必死に逃げたかった。

 ドレスの裾が石畳に擦れる音さえ、やけに大きく響く。振り返れば、まだ誰かがそこにいるような気がして、何度も無意味に肩越しを見た。もちろん、そこには誰もいなかったけれど、それでも足を止めることはできなかった。

 どれくらい歩いたのか。
 息が上がり、胸が苦しくなり、ようやく立ち止まったとき、私は街の中心から外れた裏道に立っていた。昼間なら、行商人や近所の人々が行き交うはずの場所だろう。けれど、今はまるで世界から切り離されたかのように、人の気配がまったくなかった。

 辺りは静まり返り、聞こえるのは自分の荒い呼吸と、どこか遠くでかすかに響く噴水の水音だけだった。その音が、やけに現実味を帯びて耳に残る。

 足元の石畳は、夜の冷気をたっぷりと吸い込んでいて、薄い靴越しでもはっきりと冷たさが伝わってきた。まるで、今の私の心そのもののようだ、と、ぼんやり思う。

 ふと顔を上げると、空は驚くほど高く、雲一つない夜闇の中に、無数の星が瞬いていた。
 ついさっきまで浴びていた、まぶしい照明や耳を打つ音楽、計算された笑顔や社交辞令。それらが、最初から存在しなかったかのように、遠い別世界の出来事に感じられる。

「……もう、帰らなきゃ」

 誰に聞かせるでもなく、小さく、ほとんど息のような声でつぶやいた。
 それは決意というより、自分に言い聞かせるための言葉だった。震える声が、今の心細さを何より雄弁に物語っていた。

 そのときだった。

 足元の石畳に、不自然な黒い影が落ちていることに気づいた。
 月明かりの角度のせいか、影は歪んだ形をしていて、最初は誰かが置き忘れた荷物か、壊れた木箱のようにも見えた。こんな裏道なら、そういうものが転がっていても不思議ではない。

 けれど、もう一歩近づき、目を凝らした瞬間――私は思わず息をのんだ。

「え……?」

 それは、人だった。

 黒い鎧を身に着けた男性が、壁にもたれかかるようにして地面に崩れ落ちている。顔は影に覆われ、はっきりとは見えない。それでも、胸元がかすかに上下しているのがわかり、思わず安堵とも恐怖ともつかない感情が胸をよぎった。

 生きている。
 けれど、その呼吸は、あまりにも浅く、弱々しかった。

「だ、大丈夫ですか……?」

 恐る恐る声をかけてみたが、返事はなかった。
 代わりに、静寂だけが重く、圧迫するように周囲を満たす。

 私は一瞬、その場に立ち尽くした。
 今の私は、夜会で全てを失ったばかりだ。心も体も、すっかり疲れ切っている。誰かを助ける余裕なんて、本当はどこにもないはずだった。

 関わらない方がいい。
 そう頭では何度も繰り返した。こんな夜道で、正体もわからない男に近づくなんて、危険に決まっている。

 それなのに――足が、勝手に動いた。

「血……」

 暗がりでもはっきりわかるほど、彼の服は赤く染まっていた。その色を見た瞬間、胸の奥がひやりと冷え、指先がかすかに震えた。

 考えるより先に、私はポケットからハンカチを取り出していた。夜会用に持っていた、真っ白な布だ。こんな形で使うことになるなんて、想像もしなかった。

「ちょっと、動かないでくださいね。今、止血しますから」

 自分でもわかるほど、声が震えていた。
 相手が誰なのか、どんな立場の人なのか――そんなことは、頭からすっかり抜け落ちていた。ただ、このまま放っておくことだけは、どうしてもできなかった。

 傷は深そうだったが、無茶な動きをしていなければ、きっと助かる。
 そう信じて、私はできる限り丁寧に布を当て、そっと圧迫する。血が滲むたびに、心臓が跳ねる。それでも、手を止めることはなかった。

 祈るような気持ちで、何度も呼吸を確かめた。

「……君」

 かすれた、低い声が耳に届いた。

「あ、気がつきましたか? よかった……。今は、無理にしゃべらなくていいですから」

 男性は、ゆっくりと目を開け、私をじっと見つめた。その視線は鋭く、どこか張り詰めている。それなのに、不思議と恐怖は感じなかった。

「なぜ……逃げない」

 掠れた声が、静かに問いを投げかける。

「え?」

「こんな場所で、倒れている男に近づくのは……危険だ」

 私は一瞬考え、それから、正直な気持ちをそのまま口にした。

「そうかもしれません。でも、放っておいたら、もっと危ないです」

 彼はしばらく黙り込み、星空を仰ぐように視線を逸らした。そして、短く息をつく。

「……変わった娘だ」

 それが、彼の最初の評価だった。

 応急処置を終えると、私はそっと立ち上がった。これ以上、今の私にできることはない。

「ちゃんとした治療を、早く受けてください。これは、本当に応急処置だけですから」

「名は……?」

 そう聞かれ、私は静かに首を振った。

「名乗るほどの者じゃありません。あなたも、無理に教えなくていいです」

 そう言って背を向けた。これ以上、関わるつもりはなかった。

 あの夜の出来事は、私の中では、ただの夢のような、曖昧な記憶になるはずだった。

 けれど、数日後。
 私の元に、王城からの呼び出しが届いた。

「……私が、ですか?」

 使いの兵士に思わず聞き返すと、彼は静かにうなずいた。

「正式な招待です。断ることはできません」

 理由はわからなかった。
 それでも、逃げることは許されず、私は王城へ向かった。

 広い広間。
 整列した騎士たち。
 その中央に、見覚えのある背中があった。

 黒い鎧。
 まっすぐで、揺るぎない立ち姿。

 ――あの夜、裏道に倒れていた男性だった。

「来てくれて、感謝する」

 振り返った彼は、あのときとは比べものにならないほど堂々としていた。

「紹介しよう。こちらは、王直属騎士団長。王の右腕と呼ばれる方だ」

 周囲がざわめく。

「……え?」

 頭が、まったく追いつかなかった。

「そして――数日前、命を救ってくれた恩人だ」

 私は慌てて首を振る。

「そ、そんな……本当に、たまたま通りかかっただけです」

 騎士団長は、わずかに口元をゆるめた。

「君は、逃げることもできた。だが、そうしなかった。それは、判断力と勇気の証だ」

 言葉を失う私に、彼は続ける。

「夜会での出来事も、すでに聞いている」

 胸が、ぎゅっと縮んだ。

「君は、理不尽に切り捨てられた。だが、それは君が弱いからではない」

 彼は、まっすぐに私を見据えた。

「君は、弱くない。ただ、踏みにじられていただけだ」

 その言葉が、胸の奥に、静かに、しかし確かに沈んでいく。

「私は、君に庇護を与えたい。王城で学び、力を取り戻すといい。無理にとは言わない」

 私は、しばらく黙っていた。
 自分がそんな提案を受ける価値があるとは、どうしても思えなかった。

「……私、何もできません」

 絞り出すように言うと、彼は静かに首を横に振った。

「できることがない者など、いない。君はすでに、それを示している」

 胸の奥で、何かが、ほんのわずかに動いた。

 長い間、私は「役に立たない」と言われ続け、それを疑いもせず信じてきた。
 けれど――。

「少し、考えさせてください」

「ああ。待とう」

 その声は、静かで、揺るぎなかった。

 その日を境に、私の中に巣食っていた自己否定は、少しずつ、しかし確実に、音を立てて崩れ始めていた。
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