私を捨てた婚約者へ――あなたのおかげで幸せです

有賀冬馬

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静まり返った大広間に、高らかに響くラッパの音。
 私は真っ白なドレスを着て、まるで飾り物のように立っていた。

 「本日をもって、カーター・エルドリッジ殿とアンナ・ルーベンス嬢との婚約を、正式にここに結ぶ」

 司会役の重々しい声が宣言すると、ざわざわと人々のささやきが広がる。私の胸の中は、不安と…少しの絶望でいっぱいだった。

 隣に立つカーター様は、銀の刺繍が施された上着を身にまとい、得意げな顔で私を見下ろしていた。

 「やっと俺のものになったな、アンナ」

 その言葉に、私は無理やり笑顔を作った。

 「はい…光栄です、カーター様」

 嘘。少しも嬉しくなんてない。
 でも、言わなきゃいけなかった。言わないと、私の家が――お母さまが困ってしまうから。

 彼の手が私の腰に回されるたび、冷たいものが背中を這う気がした。

 どうして、こんな人が私の婚約者なんだろう。

 そう思ってしまうことさえ、罪のような気がして、私は何も言えなかった。

 

***

 夜、広い自室に戻っても、胸の中のもやもやは消えなかった。

 「お嬢様…お顔が…」

 侍女のルイーゼが、心配そうに私の顔を覗き込む。私は慌てて笑ってみせた。

 「だいじょうぶ。ちょっと、疲れただけよ」

 鏡に映った私は、笑っているのに、どこか泣きそうな顔をしていた。
 今日から私は、カーター様の婚約者――城中のみんながうらやましがる、勝ち組の女の子。
 ……そんなの、全部、嘘だ。

 「ルイーゼ、私って…幸せに見える?」

 「……正直に申し上げても、よろしいのですか?」

 「うん」

 ルイーゼは少し考えてから、そっと首を横に振った。

 「笑っていらっしゃるのに、目がぜんぜん笑っていません」

 私は、ふふっと小さく笑って、ベッドの上に座りこんだ。

 「私って、ほんと下手ね。嘘つくの」

 「アンナお嬢様は、優しすぎるのです。だから、苦しくなるのです」

 そうなのかな。優しいのかな、私。
 本当はただ、怖いだけかもしれない。
 カーター様に逆らうのが怖くて、お母さまを困らせるのが怖くて、何もかも飲み込んでるだけ。

 でも、逃げる場所なんて、もうどこにもなかった。

 

***

 翌日。庭園のバラが咲き始める季節、私はまた、カーター様に呼び出された。

 「来るのが遅い。淑女のくせに、時間を守れないのか?」

 私はすぐに頭を下げた。

 「申し訳ありません、カーター様」

 「ふん。どうせお前のような田舎娘に、貴族の礼儀なんてわかるまい。俺がしっかり教えてやらねばな」

 わかってる。わかってるから、もうその得意げな顔で、私を見ないでほしい。
 私の手を掴むその手が、冷たくて、でも力だけは強くて、痛かった。

 カーター様は、見栄えのいい場所で、私に無理やりピアノを弾かせたり、詩を暗唱させたりするのが好きだった。
 そして少しでも間違えると――

 「やれやれ、これでも貴族の娘か? ルーベンス家も落ちたものだな」

 みんなの前で、わざとらしくため息をついて、私を辱める。

 私の頬は熱くなり、涙が浮かぶけれど、流すわけにはいかない。泣いたら負けだと思ってるから。

 だから私は、心の中でそっと呟いた。

 ――うるさい。いつかあなたが、後悔すればいいのに。

 

***

 その夜、私はベッドに倒れ込んで、枕に顔を押しつけた。

 「やだ……こんなの、いや……」

 小さな声で、子どもみたいに呟いてしまう。

 でも、助けてくれる人なんて、どこにもいない。
 私が「助けて」って言えないのが悪いのかもしれないけど……。

 ……本当は、助けてほしかった。
 だけど、それを口にするのが、いちばん怖かった。

 誰かにすがって、それでも見捨てられたら――
 きっと私は、もう立ち直れないから。

 だから私は、今日も笑うふりをして、冷たい指輪を胸元でそっとなでた。
 これが、私の運命――そう思い込もうとして。



***




 「またやったのか、アンナ。何度言えば覚えるんだ?」

 カーター様の怒鳴り声が、広間に響いた。
 私は思わず肩をすくめて、ひざの上で手をぎゅっと握りしめる。

 「申し訳ありません……でも、侍女がそのように――」

 「言い訳するな。人のせいにするなんて、最低の女だな」

 びしっ、と床に杖を打ちつけられて、私はビクッと体を震わせた。
 カーター様の周りには取り巻きの騎士たちや、使用人たちがずらりと並んでいる。
 その誰もが、私を哀れむような、あるいは楽しんでいるような目で見ていた。

 「アンナ、アンナ。おまえは本当にどうしようもない女だなぁ。こんな簡単なこともできないとは。ルーベンス家の看板が泣いているぞ?」

 心臓が、きゅうっと縮こまる。
 言い返したい気持ちが喉まで来たのに、結局私は、うつむいたまま何も言えなかった。

 どうしてこんな風に、みんなの前で叱られなきゃいけないんだろう。
 私は誰かを傷つけたり、悪いことをしたわけじゃないのに。

 ――でも、カーター様は、いつもこうだった。

 ちょっとでも彼の気に入らないことがあると、すぐに怒鳴って、人前で私を責め立てる。
 わたしの意見なんて、聞いてもらえたためしがない。

 「アンナ、謝れよ。ほら、床にひざまずいて詫びてみろ」

 「…………」

 ……ここで逆らったら、お母さまに何をされるか。
 ルーベンス家の名前に傷がついたら、私の家の商会は終わる。

 私は、重たい足を動かして、カーペットの上にひざをついた。

 「申し訳ありませんでした……カーター様……」

 かすれるような声でそう言うと、カーター様はやっと満足そうに笑った。

 「ふん、わかればいい。ほんと、俺がいなけりゃ何もできない女だな」

 その言葉が、胸に刺さって、痛かった。
 でも、私はもう、何も言えなかった。

 

***

 その日の夜。
 私は部屋の隅っこにうずくまり、何度も深呼吸していた。

 「つらい……苦しい……」

 声に出して言うと、余計に涙がこみあげてくる。

 ルイーゼがそっと、私の肩に毛布をかけてくれた。

 「お嬢様……そんなに、がんばらなくても……」

 「がんばってるつもりなんて、ないのに……」

 私はぎゅっと膝を抱えて、泣きそうな声で言った。

 「ただ、言われた通りにしてるだけ。なのに、どうして、こんなに責められるの?」

 「……きっと、カーター様が間違っているのです」

 「でも……あの人が正しいって、みんな思ってる。私のこと、できそこないだって……」

 苦しい。つらい。助けて。

 ……でも、その言葉を誰にも言えない。

 私は、いい子じゃなきゃいけないから。
 ルーベンス家の名を汚しちゃいけないから。
 そして何より――誰にも、嫌われたくなかったから。

 「お母さまに、言いたくても……言えない……」

 「……お嬢様……」

 ルイーゼが、そっと私の手を握ってくれる。

 「誰か、助けてくれたら……いいのに……」

 私は、ふと思った。

 あの広い空のどこかに、私のことを見てくれている人が、いるんじゃないかって。
 そんなの、夢みたいなお話だけど。
 でも、願わずにはいられなかった。

 

***

 数日後。

 カーター様は、城の舞踏会に私を連れて行った。

 「俺の婚約者なんだから、ちゃんと飾り物になってくれよ?」

 そう言われて、私は薄いドレスに身を包まれ、笑顔の仮面をつけて舞踏会に立った。

 美しい音楽。煌びやかなシャンデリア。
 人々の笑い声の中で、私はただの飾りだった。

 でも――その中に、一人だけ。
 私を、まっすぐに見つめる視線があった。

 背の高い騎士。漆黒の礼装に身を包み、端正な顔立ちをしたその人は、私をじっと見つめていた。

 誰? ……知ってる。
 どこかで、会ったことがある……。

 目が合った瞬間、胸の奥がきゅんと鳴った。

 「……セシル……様?」

 小さくつぶやいた名前。
 私の記憶の奥に、しまい込まれていた人の名前。

 あの人は……優しかった。
 昔、お母さまと一緒に訪れた貴族の晩餐会。
 迷子になった私を、誰よりも早く見つけてくれた人。

 どうして今ここに……?

 そんな私の戸惑いをよそに、カーター様は横で笑っていた。

 「見ろよアンナ、あれがグラスフィット家のご子息様だ。王国一の名家だぜ」

 「…………」

 「まあ、あんな男でも、俺には敵わないけどな。見栄えだけの貴族なんて、しょせん飾りだよ」

 カーター様のその言葉に、私はこっそりと視線を戻す。

 ――違う。

 彼は、飾りなんかじゃない。
 私をちゃんと、"人"として見てくれている目をしていた。

 心が、不思議とあたたかくなった。

 どうしてだろう。
 あの人を見ていると、少しだけ、呼吸が楽になる気がする。

 ……ほんの少しだけど、私は、泣きたい気持ちじゃなくなった。


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