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この日、私は朝から頭痛がしていた。
おそらく、低気圧のせい――ではなく、空気のせいだ。屋敷中が、何かを隠しているような、息をひそめているような、そんな妙な緊張に満ちていたから。
いつものように薬草を仕分けしていると、扉が開いて、執事のオルテンが静かに告げた。
「クラリス様。ドーレ様が、お会いになりたいと」
「……わかりました。今行きます」
薬草の粉で少し汚れた手を、そっと布でぬぐいながら立ち上がる。
何か、あるのだろう。呼び出されるなんて、珍しい。
迎えの馬車に乗って、ドーレのいる離れへ向かう。今日は少し、雲が多い。風も強い。何か嫌なことが起こる前触れのような……そんな気がした。
***
「クラリス。君に、大事な話がある」
ドーレは最初から、いつもより声を張っていた。芝居がかった物言いが好きな人だったけど、今日はとくにひどい。
彼の隣には、なぜか私の妹、ルーディが座っていた。淡いピンクのドレス。金色のカールした髪。紅をさした唇が、にやにやと歪んでいる。
――ああ、そういうことなのか。
「君とは、婚約を破棄する」
ドーレの声は高らかだった。
「君は冷たくて、かわいげがない。貴族の令嬢としての自覚にも欠ける。僕の隣にふさわしいのは、もっと明るくて愛らしい女性なんだ」
「……そうですか」
「僕は、ルーディと結婚する」
その瞬間、ルーディがこちらをチラリと見て、勝ち誇ったように笑った。
ずっとこうしたかったのだろう。昔から、彼女は私のものを欲しがった。ドレスも、玩具も、父の褒め言葉も。
「そう。わかりました」
私は、できるだけ穏やかに返す。
心の奥に、冷たい氷のような感情が静かに広がっていくのを感じながら。
「……え? それだけ?」
ドーレが戸惑ったように眉をひそめる。
「怒らないのか? 泣かないのか?」
「婚約は、あなたの意思で決められるものですから。私が無理に縛るつもりはありません」
「な、なんだよそれ! 少しは……悔しがったらどうだ!」
「あなたは、私に悔しがってほしいのですか?」
静かに問いかけると、ドーレは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「やっぱり君は冷たい! そういうところがダメなんだよ! ルーディのほうが何倍も素直で、可愛い!」
「……お姉ちゃん。負け惜しみはみっともないよ」
ルーディがくすくすと笑った。
ああ、そうか。彼女は最初から、これを見せびらかしたかったのだ。私に、自分の勝利を見せつけたくて、わざわざ呼び出したのだ。
おかしな話だ。私は別に、ドーレのことなんて――好きじゃなかったのに。
ため息をひとつ、小さくつく。
「婚約破棄の件、父と母には、私からお話します。どうか、お幸せに」
そう言って、私は椅子から立ち上がった。
部屋を出るとき、後ろでドーレが何かを叫んでいた気がする。でも、それはもう私の関係することじゃなかった。
***
その晩、私は家を出る準備を始めた。
父も母も、あっさり私の決意を受け入れた。
――というより、ルーディに完全に気を取られている様子だった。
何も言われなかった。止める声もなかった。
きっと彼らにとって、私はもはや価値のない存在なのだ。
だから、私も――ここには、もう未練などない。
夜明け前の薄暗い空の下、馬車に乗る。
たったひとつの小さなトランクだけが、私の新しい旅立ちのすべてだった。
「さようなら、クラリスお嬢様」
「……いいえ。もう、お嬢様じゃないわ」
静かに、誰にも告げずに、私は屋敷をあとにした。
貴族なんて、もうこりごり。
この先は、自分の力で生きていく。
誰にも媚びず、誰にも依存せず。たった一人で。
ごとん、ごとん――。
馬車の車輪が道の石を踏みしめるたび、体がふわりと浮いたり沈んだりする。
私は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
見慣れた屋敷の町並みは、すでに遠く、どこまでも続く緑の草原と、風にそよぐ森が広がっている。
「クラリスお嬢様……あっ、いえ、クラリス様」
御者台から声がした。
気を使って“お嬢様”と呼ばれたのだろうけれど、私は軽く首を振った。
「呼び捨てでいいですよ。もう、貴族じゃありませんから」
「し、しかし……!」
「大丈夫です。私も、慣れていきたいので」
自分で言って、少し胸がちくっとした。
だけど、これでいい。私は自分で決めたのだ。貴族をやめることを。
家を出たその日、父も母も、止めなかった。
それどころか、母はルーディのドレス選びに夢中だったし、父は「まあ、人生経験としていいだろう」と笑った。
……そう、私は、あの家にとって“予備の娘”だったのだ。
本当に必要なのは、妹。かわいくて、男を喜ばせる方法をよく知っていて、笑顔が上手なルーディ。
私は、そうじゃなかった。
愛想がなくて、静かで、感情をあまり表に出せない。
そういう私を、誰も“かわいい”とは言ってくれなかった。
「ふぅ……」
ため息がこぼれる。
けれど、この旅が終われば、新しい人生が始まる。
辺境の村。フォルム村。地図の端っこにしか載っていない、小さな村。
そこの薬草店に、住み込みで雇ってもらえることになったのだ。
薬草の知識には少しだけ自信がある。昔から植物と向き合う時間が好きだったし、誰に愛想をふりまかなくても、薬草は裏切らない。
「がんばらなくちゃ……」
ぎゅっと拳を握ると、馬車が止まった。
外に出てみると、そこには、懐かしい田舎のにおいが広がっていた。土の香り、草の香り、干した布の香り。
――ああ、ここが、私の新しい場所。
***
「いらっしゃい、クラリスちゃん!」
薬草店の店主・グレタさんは、ふくよかで、あたたかい笑顔の女性だった。
手には土がついていて、髪には小さな花の飾りをつけている。
「若い子が来てくれて嬉しいよ。ウチの店、昔は息子と一緒にやってたんだけどねぇ、あの子、都会に行っちゃってさ~」
「あ、あの、よろしくお願いします……」
「うんうん! そんなにかしこまらなくていいからねぇ。ごはんは三食ついてるし、部屋は狭いけど、布団はふかふかだよ。お風呂もあるから安心して!」
「ふふ……ありがとうございます」
グレタさんの明るさに、自然と笑みがこぼれた。
こんなふうに、人と接するのが楽しいと感じたのは、久しぶりかもしれない。
***
翌日から、さっそくお仕事が始まった。
薬草を摘んで、干して、分類して、調合して。
力仕事は多いけれど、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、身体を動かしていると、頭の中がすっきりする。
「クラリスちゃん、やっぱり手が慣れてるねぇ。さすがだわ」
「そう、ですか?」
「うんうん。前にどこぞのお嬢さんを雇ったことあるけど、もう、お茶をこぼして泣くし、虫を見て悲鳴をあげるしで大変だったのよ」
「ふふっ……私は虫、平気です」
「それは心強い!」
グレタさんの言葉に、ふわっと胸が温かくなった。
認めてもらえるって、こんなに嬉しいことなんだ。
***
数日が過ぎ、私は少しずつ村の暮らしにも慣れてきた。
市場のおばさんが声をかけてくれるようになったり、子どもたちが手を振ってくれたり、夜には星を見ながらお茶を飲むのが日課になったり。
侯爵令嬢だったころには味わえなかった、小さくて素朴な幸せ。
それが、じんわりと心を満たしていく。
「もう……あんな世界に戻りたくないな」
つぶやくと、夜風がふわりと髪をなでていった。
新しい人生。新しい空気。新しい、私。
そして――このあとすぐに、私は“運命”と出会うことになる。
森の中で、血を流して倒れていた、ひとりの騎士。
その名は、オリヴァー。
私の心を、優しく、確かに揺らす存在だった。
その日は朝から霧が濃かった。
白いもやが森の木々の間をすべるように漂っていて、いつもの小道もぼんやりかすんで見えた。
私は、薬草を採るために森の奥へ足を踏み入れていた。
「……セージはこの辺りだったはず」
薬草の本で見た記憶と、グレタさんから聞いた場所を頼りに、足元の草を丁寧にかき分ける。
森のにおいが好きだった。
湿った土の香りや、朝露を含んだ葉の匂い。生きている世界の、やさしい息づかい。
でも――そのとき。
「……っ!」
ふと、風にのって、何かが混じった。
――血の匂い。
金属がこすれるような音が、一瞬、耳をかすめる。
私は思わず立ち止まった。心臓が、どくん、と強く鳴る。
そしてその音に導かれるように、小道を外れて木立の向こうへと足を踏み入れると――
「……え?」
そこに、ひとりの男の人が倒れていた。
大きな体。鋭い輪郭。頬に泥がついていて、肩口からは血がにじんでいた。
濃い色の鎧。……騎士団の制服だ。私でも知っている、有名な騎士団の。
「しっかりしてくださいっ……!」
私はすぐに彼に駆け寄って、腕を取った。
目を閉じているけれど、息はある。おでこに汗が浮かび、顔色は青白い。
でも……すごく、冷静だった。なぜか、怖くはなかった。
「わたし、薬草師見習いなんです。応急処置なら、できますから!」
そう声をかけながら、腰のポーチから包帯と薬草を取り出す。
止血。消毒。包帯の巻き方。
習ったことを思い出しながら、夢中で手を動かす。
――そして、数分後。
「……う」
彼が、かすかにうめいた。
私はすぐに顔をのぞき込んだ。
「目を開けられますか? ここは森の中です。大丈夫、もう安全です」
すると、彼のまぶたがゆっくりと開いて……
まっすぐな灰色の瞳が、私を見つめた。
「……君、は……」
「クラリスです。薬草師です。あなたは?」
「……オリヴァー。騎士団の……副団長……」
「副団長っ!? って、そんなの今はいいですっ! とにかく安静にしててください!」
私は、彼の体を支えて、もう一度包帯をきつく締め直した。
彼の腕は、すごくたくましくて、手のひらも大きくて……でも、今はそれよりも、ちゃんと助けなくちゃという気持ちのほうが強かった。
「しっかりしてください……わたしが、絶対助けますから」
そのときの私には、自分がどうしてこんなに必死なのか、よくわからなかった。
でも、ただひとつ思ったのは――
この人を、ここで死なせたくない。
この人の物語が、ここで終わってほしくない。
***
村に戻ってからは、大騒ぎだった。
騎士団の副団長が倒れていたと聞いて、村長も市場の人たちもびっくり仰天。
けれど、オリヴァーさんが「命の恩人だ」と私のことを話してくれたおかげで、みんな私を少し見直したようだった。
「クラリスちゃん、すごいじゃない!」
「騎士様を助けるなんて、まるでおとぎ話みたいだねぇ」
村のおばさまたちは興奮気味にそう言って、私の手を握ってくれた。
でも――私の心の中は、ちょっと落ち着かなくて。
オリヴァーさんが、無事かどうか。それが一番気がかりだった。
***
数日後。グレタさんの家の一室で、彼は目を覚ました。
「……助けてくれて、ありがとう」
「い、いえっ、わたし、できることをしただけで……」
久しぶりに見るその顔は、ちゃんと血の気が戻っていて、目にも力が宿っていた。
「君は……不思議な人だな。あのとき、君の声が聞こえて……なぜか、とても安心した」
「え、えっ……?」
私の胸が、どくん、と鳴った。
その瞳はまっすぐで、やさしくて。
思わず、目をそらしたくなるくらい、まっすぐだった。
「名前を聞いてもいいか?」
「……クラリス、です」
「クラリス。君の名前、忘れない」
彼は静かにそう言った。
おそらく、低気圧のせい――ではなく、空気のせいだ。屋敷中が、何かを隠しているような、息をひそめているような、そんな妙な緊張に満ちていたから。
いつものように薬草を仕分けしていると、扉が開いて、執事のオルテンが静かに告げた。
「クラリス様。ドーレ様が、お会いになりたいと」
「……わかりました。今行きます」
薬草の粉で少し汚れた手を、そっと布でぬぐいながら立ち上がる。
何か、あるのだろう。呼び出されるなんて、珍しい。
迎えの馬車に乗って、ドーレのいる離れへ向かう。今日は少し、雲が多い。風も強い。何か嫌なことが起こる前触れのような……そんな気がした。
***
「クラリス。君に、大事な話がある」
ドーレは最初から、いつもより声を張っていた。芝居がかった物言いが好きな人だったけど、今日はとくにひどい。
彼の隣には、なぜか私の妹、ルーディが座っていた。淡いピンクのドレス。金色のカールした髪。紅をさした唇が、にやにやと歪んでいる。
――ああ、そういうことなのか。
「君とは、婚約を破棄する」
ドーレの声は高らかだった。
「君は冷たくて、かわいげがない。貴族の令嬢としての自覚にも欠ける。僕の隣にふさわしいのは、もっと明るくて愛らしい女性なんだ」
「……そうですか」
「僕は、ルーディと結婚する」
その瞬間、ルーディがこちらをチラリと見て、勝ち誇ったように笑った。
ずっとこうしたかったのだろう。昔から、彼女は私のものを欲しがった。ドレスも、玩具も、父の褒め言葉も。
「そう。わかりました」
私は、できるだけ穏やかに返す。
心の奥に、冷たい氷のような感情が静かに広がっていくのを感じながら。
「……え? それだけ?」
ドーレが戸惑ったように眉をひそめる。
「怒らないのか? 泣かないのか?」
「婚約は、あなたの意思で決められるものですから。私が無理に縛るつもりはありません」
「な、なんだよそれ! 少しは……悔しがったらどうだ!」
「あなたは、私に悔しがってほしいのですか?」
静かに問いかけると、ドーレは顔を真っ赤にして立ち上がった。
「やっぱり君は冷たい! そういうところがダメなんだよ! ルーディのほうが何倍も素直で、可愛い!」
「……お姉ちゃん。負け惜しみはみっともないよ」
ルーディがくすくすと笑った。
ああ、そうか。彼女は最初から、これを見せびらかしたかったのだ。私に、自分の勝利を見せつけたくて、わざわざ呼び出したのだ。
おかしな話だ。私は別に、ドーレのことなんて――好きじゃなかったのに。
ため息をひとつ、小さくつく。
「婚約破棄の件、父と母には、私からお話します。どうか、お幸せに」
そう言って、私は椅子から立ち上がった。
部屋を出るとき、後ろでドーレが何かを叫んでいた気がする。でも、それはもう私の関係することじゃなかった。
***
その晩、私は家を出る準備を始めた。
父も母も、あっさり私の決意を受け入れた。
――というより、ルーディに完全に気を取られている様子だった。
何も言われなかった。止める声もなかった。
きっと彼らにとって、私はもはや価値のない存在なのだ。
だから、私も――ここには、もう未練などない。
夜明け前の薄暗い空の下、馬車に乗る。
たったひとつの小さなトランクだけが、私の新しい旅立ちのすべてだった。
「さようなら、クラリスお嬢様」
「……いいえ。もう、お嬢様じゃないわ」
静かに、誰にも告げずに、私は屋敷をあとにした。
貴族なんて、もうこりごり。
この先は、自分の力で生きていく。
誰にも媚びず、誰にも依存せず。たった一人で。
ごとん、ごとん――。
馬車の車輪が道の石を踏みしめるたび、体がふわりと浮いたり沈んだりする。
私は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
見慣れた屋敷の町並みは、すでに遠く、どこまでも続く緑の草原と、風にそよぐ森が広がっている。
「クラリスお嬢様……あっ、いえ、クラリス様」
御者台から声がした。
気を使って“お嬢様”と呼ばれたのだろうけれど、私は軽く首を振った。
「呼び捨てでいいですよ。もう、貴族じゃありませんから」
「し、しかし……!」
「大丈夫です。私も、慣れていきたいので」
自分で言って、少し胸がちくっとした。
だけど、これでいい。私は自分で決めたのだ。貴族をやめることを。
家を出たその日、父も母も、止めなかった。
それどころか、母はルーディのドレス選びに夢中だったし、父は「まあ、人生経験としていいだろう」と笑った。
……そう、私は、あの家にとって“予備の娘”だったのだ。
本当に必要なのは、妹。かわいくて、男を喜ばせる方法をよく知っていて、笑顔が上手なルーディ。
私は、そうじゃなかった。
愛想がなくて、静かで、感情をあまり表に出せない。
そういう私を、誰も“かわいい”とは言ってくれなかった。
「ふぅ……」
ため息がこぼれる。
けれど、この旅が終われば、新しい人生が始まる。
辺境の村。フォルム村。地図の端っこにしか載っていない、小さな村。
そこの薬草店に、住み込みで雇ってもらえることになったのだ。
薬草の知識には少しだけ自信がある。昔から植物と向き合う時間が好きだったし、誰に愛想をふりまかなくても、薬草は裏切らない。
「がんばらなくちゃ……」
ぎゅっと拳を握ると、馬車が止まった。
外に出てみると、そこには、懐かしい田舎のにおいが広がっていた。土の香り、草の香り、干した布の香り。
――ああ、ここが、私の新しい場所。
***
「いらっしゃい、クラリスちゃん!」
薬草店の店主・グレタさんは、ふくよかで、あたたかい笑顔の女性だった。
手には土がついていて、髪には小さな花の飾りをつけている。
「若い子が来てくれて嬉しいよ。ウチの店、昔は息子と一緒にやってたんだけどねぇ、あの子、都会に行っちゃってさ~」
「あ、あの、よろしくお願いします……」
「うんうん! そんなにかしこまらなくていいからねぇ。ごはんは三食ついてるし、部屋は狭いけど、布団はふかふかだよ。お風呂もあるから安心して!」
「ふふ……ありがとうございます」
グレタさんの明るさに、自然と笑みがこぼれた。
こんなふうに、人と接するのが楽しいと感じたのは、久しぶりかもしれない。
***
翌日から、さっそくお仕事が始まった。
薬草を摘んで、干して、分類して、調合して。
力仕事は多いけれど、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、身体を動かしていると、頭の中がすっきりする。
「クラリスちゃん、やっぱり手が慣れてるねぇ。さすがだわ」
「そう、ですか?」
「うんうん。前にどこぞのお嬢さんを雇ったことあるけど、もう、お茶をこぼして泣くし、虫を見て悲鳴をあげるしで大変だったのよ」
「ふふっ……私は虫、平気です」
「それは心強い!」
グレタさんの言葉に、ふわっと胸が温かくなった。
認めてもらえるって、こんなに嬉しいことなんだ。
***
数日が過ぎ、私は少しずつ村の暮らしにも慣れてきた。
市場のおばさんが声をかけてくれるようになったり、子どもたちが手を振ってくれたり、夜には星を見ながらお茶を飲むのが日課になったり。
侯爵令嬢だったころには味わえなかった、小さくて素朴な幸せ。
それが、じんわりと心を満たしていく。
「もう……あんな世界に戻りたくないな」
つぶやくと、夜風がふわりと髪をなでていった。
新しい人生。新しい空気。新しい、私。
そして――このあとすぐに、私は“運命”と出会うことになる。
森の中で、血を流して倒れていた、ひとりの騎士。
その名は、オリヴァー。
私の心を、優しく、確かに揺らす存在だった。
その日は朝から霧が濃かった。
白いもやが森の木々の間をすべるように漂っていて、いつもの小道もぼんやりかすんで見えた。
私は、薬草を採るために森の奥へ足を踏み入れていた。
「……セージはこの辺りだったはず」
薬草の本で見た記憶と、グレタさんから聞いた場所を頼りに、足元の草を丁寧にかき分ける。
森のにおいが好きだった。
湿った土の香りや、朝露を含んだ葉の匂い。生きている世界の、やさしい息づかい。
でも――そのとき。
「……っ!」
ふと、風にのって、何かが混じった。
――血の匂い。
金属がこすれるような音が、一瞬、耳をかすめる。
私は思わず立ち止まった。心臓が、どくん、と強く鳴る。
そしてその音に導かれるように、小道を外れて木立の向こうへと足を踏み入れると――
「……え?」
そこに、ひとりの男の人が倒れていた。
大きな体。鋭い輪郭。頬に泥がついていて、肩口からは血がにじんでいた。
濃い色の鎧。……騎士団の制服だ。私でも知っている、有名な騎士団の。
「しっかりしてくださいっ……!」
私はすぐに彼に駆け寄って、腕を取った。
目を閉じているけれど、息はある。おでこに汗が浮かび、顔色は青白い。
でも……すごく、冷静だった。なぜか、怖くはなかった。
「わたし、薬草師見習いなんです。応急処置なら、できますから!」
そう声をかけながら、腰のポーチから包帯と薬草を取り出す。
止血。消毒。包帯の巻き方。
習ったことを思い出しながら、夢中で手を動かす。
――そして、数分後。
「……う」
彼が、かすかにうめいた。
私はすぐに顔をのぞき込んだ。
「目を開けられますか? ここは森の中です。大丈夫、もう安全です」
すると、彼のまぶたがゆっくりと開いて……
まっすぐな灰色の瞳が、私を見つめた。
「……君、は……」
「クラリスです。薬草師です。あなたは?」
「……オリヴァー。騎士団の……副団長……」
「副団長っ!? って、そんなの今はいいですっ! とにかく安静にしててください!」
私は、彼の体を支えて、もう一度包帯をきつく締め直した。
彼の腕は、すごくたくましくて、手のひらも大きくて……でも、今はそれよりも、ちゃんと助けなくちゃという気持ちのほうが強かった。
「しっかりしてください……わたしが、絶対助けますから」
そのときの私には、自分がどうしてこんなに必死なのか、よくわからなかった。
でも、ただひとつ思ったのは――
この人を、ここで死なせたくない。
この人の物語が、ここで終わってほしくない。
***
村に戻ってからは、大騒ぎだった。
騎士団の副団長が倒れていたと聞いて、村長も市場の人たちもびっくり仰天。
けれど、オリヴァーさんが「命の恩人だ」と私のことを話してくれたおかげで、みんな私を少し見直したようだった。
「クラリスちゃん、すごいじゃない!」
「騎士様を助けるなんて、まるでおとぎ話みたいだねぇ」
村のおばさまたちは興奮気味にそう言って、私の手を握ってくれた。
でも――私の心の中は、ちょっと落ち着かなくて。
オリヴァーさんが、無事かどうか。それが一番気がかりだった。
***
数日後。グレタさんの家の一室で、彼は目を覚ました。
「……助けてくれて、ありがとう」
「い、いえっ、わたし、できることをしただけで……」
久しぶりに見るその顔は、ちゃんと血の気が戻っていて、目にも力が宿っていた。
「君は……不思議な人だな。あのとき、君の声が聞こえて……なぜか、とても安心した」
「え、えっ……?」
私の胸が、どくん、と鳴った。
その瞳はまっすぐで、やさしくて。
思わず、目をそらしたくなるくらい、まっすぐだった。
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