婚約破棄されて自由になったので、辺境で薬師になったら最強騎士に溺愛されました

有賀冬馬

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 朝の空気はひんやりしていて、村全体がしんと静まり返っていた。

 グレタさんの家の裏庭で洗濯物を干していた私は、空を見上げて深呼吸をする。
 森の向こうに、淡い朝日がのぼって、霧のヴェールをとかしていくみたい。

「……よかった。今日はいい天気」

 でも――私の心は、少し落ち着かない。

 なぜなら……グレタさんの家の離れに、いま、“あの人”がいるのだ。

 あの、灰色の瞳をした人。
 傷だらけで倒れていたあの日から、もう一週間。

 彼――オリヴァーさんは、順調に回復していた。
 薬草の効き目もあって、今ではもう、寝ているだけでは退屈だというほど。

 だけど、彼の正体が「騎士団の副団長」だと村の人たちに知れわたったのは、ほんの二日前のことだった。

「えっ!? あのクラリスちゃんが助けたのって、あの“氷の副団長”!?」

「ええ~!? 嘘でしょ!? あの人、王都の騎士団の中でも特に有名じゃない!」

「しかも未婚! 若くて、強くて、お金持ちで、真面目で、イケメンって……もう完璧じゃないのよぉぉ!!」

 村のおばさまたちは朝市のたびにその話題でもちきりになり、若い娘たちはグレタさんの家の前をウロウロするようになった。

 ……なんだか、落ち着かない。ものすごく。

「クラリスちゃーん、彼ってどんな人? もしかしてもう恋人とか~?」

「えっ!? ち、違いますっ、そんなのじゃ……!」

 私は顔を真っ赤にして、逃げるようにグレタさんの庭へ戻った。

 ほんとうに、そういう関係なんかじゃないのに……
 でも、オリヴァーさんのことを誰かが「かっこいい」って言うたびに、胸の奥がちくんと痛んだ。

 この気持ちって……なに?

***

 その日の午後。

 グレタさんが「少し外出してくるわね」と出かけていったので、私はひとりで家の中の仕事をしていた。

 すると、離れの扉がそっと開いて――

「……クラリスさん?」

 振り返ると、そこにいたのはオリヴァーさんだった。

 わたしは思わず、びっくりしてお皿を取り落としそうになった。

「あっ、オリヴァーさん! もう起きて動いちゃダメですっ、まだ傷が……!」

「大丈夫です。もうほとんど痛みもありませんから」

 彼は静かに笑って、私のほうへ歩いてきた。

 ……でも、足取りはしっかりしていて、目にも力があって。
 ほんとうに、もう大丈夫なんだとわかって、私は少し安心した。

「……クラリスさんには、たくさん助けてもらいましたね」

「いえ……その……わたし、何も……」

「そんなことはない」

 彼の声は低くて、でもすごくやさしかった。

「君がいなければ、私は今ここにいない。あの森で、君の声が聞こえたとき、私は……光を見た気がした」

「……光、ですか?」

「ええ。だから、君には感謝してもしきれないんです」

 私の手を、そっととって、彼が自分の胸にあてた。

「クラリスさん。……あなたに、お礼がしたい。何か、望むものはありませんか?」

「そ、そんなっ! そんなこと言われても……わたしは、ただ、助けたかっただけで……」

「でも、私は恩を返したい。それが礼儀ですから」

 私は黙って、彼のまっすぐな瞳を見つめた。

 こんなふうに、誰かに真正面から感謝されるのは初めてだった。

 貴族の家にいたころは、「して当たり前」だったから。
 誰かにほめられることも、感謝されることも、ほとんどなかった。

 なのにこの人は――

 騎士団の副団長で、すごく偉いはずなのに。
 私みたいな、ただの田舎の薬草師に、こんなふうに感謝してくれている。

 ……なんだか、涙が出そうになった。

「……じゃあ、ひとつだけ」

 私は小さな声で言った。

「……村の人たちに、迷惑かけないでほしいです。わたしが助けたせいで、みんなが気を使ったり、騒がしくなっちゃったら……いやなんです」

 オリヴァーさんは少し驚いた顔をしたけど、すぐに、静かにうなずいた。

「わかりました。……約束します。君の大切な日常を、壊さないようにする」

「……ありがとうございます」

 それだけのことなのに、なんだかすごく心があたたかくなった。

 この人は、ただ“強い”だけじゃないんだ。
 ちゃんと、やさしくて、誠実で――まっすぐで。

「……あの、オリヴァーさん」

「なんでしょう?」

「えっと……その、怪我がよくなったら……また、森に行きませんか?」

「森に?」

「はい。薬草採りに。今の季節、セントワートがきれいなんです。お礼はいらないので、それくらいなら……」

 オリヴァーさんは少し黙って、それから――ふっと笑った。

「……それは、お礼ではなくて、お誘いですか?」

「ち、ちがっ、ちがいますっ!!」

「ふふ、冗談ですよ。喜んで、同行します」

 そのとき、ふたりの間に流れた時間は、すごく静かで、あたたかくて――

 私ははじめて、「誰かと一緒にいる幸せ」っていうのを、ほんの少しだけ知った気がした。










 その日、私は朝からそわそわしていた。

 何度も鏡の前に立って、髪を整えてみたり、スカートのしわを直したり――
 自分でも、こんなに落ち着きがないのはおかしいと思う。

 でも、それも全部、今日オリヴァーさんと“森へ行く”約束をしたから。

 ほんの短いお誘いだったのに。
 なのに、私の心はずっと浮ついていて、夜もなかなか眠れなかったくらい。

 グレタさんにも「恋する乙女の顔だねえ」なんてからかわれてしまった。

 恋……なんて、そんなつもりじゃなかったはずなのに。

「ふぅ……落ち着いて、クラリス」

 自分のほっぺをぺちぺちと叩いて、気合いを入れる。

 今日は、薬草採り。お仕事。おしごとなんだから!

「クラリスさん、お待たせしました」

 聞き慣れた低くてやさしい声に振り返ると――
 そこには、鎧ではなくシンプルな狩り装束に身を包んだオリヴァーさんが立っていた。

 その姿が、ちょっとだけ――いえ、かなり――かっこよくて、私はまた心臓がばくばくしてしまった。

「……に、似合ってますね、その服」

「そうですか? クラリスさんが選んでくれたものですから」

「えっ……!? わ、わたしそんな、おしゃれに自信はないんですけど……」

「いえ。とても動きやすいですし、色も落ち着いていて気に入りました」

 そう言って微笑む彼の目が、やっぱり真っ直ぐすぎて、私はまともに見られなかった。

 こんなの……だめだ。おしごと、薬草採りに集中しないとっ!

***

 森の中は、葉のこすれる音と小鳥のさえずりが心地よくて。
 やっぱり、私はこの空気が好き。

「クラリスさんは、よくこの森に来られるんですか?」

「はい。村から少し離れてますけど、薬草がたくさん採れる場所があるんです」

「……ひとりで?」

「ええ。もともと、ひとりでいるの、あんまり苦じゃないので」

 その言葉に、彼は少しだけ表情を曇らせた気がした。

「……さびしく、ないんですか?」

「さびしい、ですか……」

 私は少しだけ、考えた。

 侯爵家にいた頃のことを思い出す。
 大きな屋敷。静かな部屋。絹のカーテン、銀の食器……でも、誰の声もしない。

「さびしくないふりをするのは、慣れていました。でも――今は、ちょっと違うかも」

「違う、とは?」

「この村には、グレタさんがいて。子どもたちがいて。今日みたいに、オリヴァーさんと話すこともあって……」

「……」

「だから、最近は少しだけ“さびしい”って気持ちを、知るようになったんです。あれ? 変ですね……?」

 オリヴァーさんは私の言葉に、何も言わず、でもすごくやさしい目でうなずいてくれた。

 ……なんだろう、この気持ち。

 まるで、自分の胸の奥にある弱いところを、そっと包んでくれるような……そんなぬくもり。

「クラリスさんは、強い方ですね」

「わたしは……弱いですよ。すぐ泣きそうになりますし、笑うのも得意じゃないですし……」

「でも、そんなあなたが、ひとりで生きている。誰にもすがらず、笑おうとしてる。――それは、強いということです」

 彼の声が静かに、でも力強くて。

 思わず、涙があふれそうになって、私は森の奥へ顔を向けた。

「……ありがとうございます」

***

 セントワートの群生地に着いたとき、ちょうど日が差して、黄色い花がきらきら光って見えた。

 まるで、森の中に小さな太陽がたくさんあるみたいで、とてもきれい。

「これが、セントワート……。薬草の中でも、とても貴重だと聞いています」

「はい。とくにこの時期のものは、よく効くんです。乾かして粉にして、保存しておけば、冬まで使えます」

 オリヴァーさんも一緒に花を摘みながら、ふと、ぽつりと言った。

「……クラリスさん。あなたは、この村にずっといるつもりですか?」

「えっ……?」

「もし……この先、また侯爵家から戻れと言われたら?」

「戻りません。――絶対に」

 その言葉は、自然に出た。迷いなんて、もうなかった。

「わたしは、ここが好きです。森も、村も。グレタさんも……オリヴァーさんも」

 言ってから、思わずはっとして口をおさえた。

 い、今……わたし、何て言ったの――!?

「クラリスさん……」

 オリヴァーさんの手が、そっと私の手に重なった。

 その手は大きくて、あたたかくて、包み込むみたいで――
 私は顔が真っ赤になるのを止められなかった。

「わたしも、ここが好きです。あなたがいるから」

 その言葉は、風の中にふわっと溶けていって、でもしっかり、私の胸に届いた。

 この森の中で、ひっそりと咲いた恋の花。

 きっと誰にも見えないところで、でも確かに、ふたりの距離は少しずつ近づいていた。

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