婚約破棄されて自由になったので、辺境で薬師になったら最強騎士に溺愛されました

有賀冬馬

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 市場のにぎわいは、いつも私の心をあたたかくしてくれる。

 あちこちから笑い声が聞こえてきて、果物の香り、パンの焼けた匂い――
 この村に来たばかりの頃は、不安と戸惑いでいっぱいだったけど、今ではこの喧騒がとても心地いい。

 それに今日は、久しぶりにグレタさんとふたりで出かける日。

「はい、クラリス。これはオリーブ石鹸。最近入った新しいお店のよ。いい香りでしょ?」

「……わぁ、ほんとだ。ラベンダーと……ちょっとローズマリーも?」

「さっすが薬師さん! 鼻がいいねぇ」

 グレタさんと笑い合いながら、お店を回る。

 こんな風に、心から笑えるようになる日が来るなんて……昔の私じゃ想像もできなかった。

「クラリス、あんたは強くなったよ。あの屋敷から出て、一人で生きて……ほんと、すごい子だね」

「……強くなんて、ないです。オリヴァーさんがいて、グレタさんがいて、村のみんながいてくれたから」

「ふふっ、素直でかわいいじゃないか」

 ふわっと、春の風が吹いたときだった。

 どこかで、誰かが大声を上げるのが聞こえた。

「おい、あれって……まさか、あのドーレ様じゃないか? えらそうにしてたくせに……」

「借金まみれで、婚約者にも逃げられたって噂だよ。ざまぁみろってんだ」

 ドーレ?

 その名前を聞いた瞬間、心臓が一度だけドクンと鳴った。

 でも――次の瞬間には、私はもう冷静だった。

「クラリス、どうする? 行く?」

「……いいえ。見に行く必要なんて、ありません。私は、もう関係ないから」

 そう言ったけれど。

 なのに。どうしてなのかな――
 足が、自然とあの声のするほうへ向かっていた。

***

 人だかりの中に、彼はいた。

 ……私の、元婚約者。ドーレ・バリントン。

 あのときと同じようなきらびやかな服を着ているけど、どこかみすぼらしい。

 髪はぼさぼさ、顔はやつれて、目の下にくままでできていた。

「おい、お前、またツケで買おうってのか? いいかげんにしろよ!」

「ち、違うんだ! ちょっと待ってくれ、すぐに払いに――うわっ、ちょっ、押すなってば!」

「ったく、こんなやつが昔は“貴族の御曹司”だったって? 笑わせんな!」

 誰かが彼の肩を押し、ドーレはよろめいて――私と、目が合った。

 その瞬間、空気がぴたりと止まったような気がした。

「……ク、クラリス?」

 ああ、そう。懐かしい声。でも、もう何の感情も湧かない。

 なのに、彼はまるで過去をやり直したいとでも言いたげに、近づいてくる。

「クラリス……会えてよかった! こんなところにいたなんて……探したんだ!」

「探さなくてよかったのに」

「すまなかった、あのときは……でも、あれは勢いで言ってしまっただけで、僕は本当は……本当はずっと……!」

「ルーディと結婚したのは?」

「し、仕方なかったんだ! 家の都合とか、いろいろあって……でも彼女、全然かわいくなくて。浪費癖もひどくて、あっという間に借金まみれさ! それで今、離婚も決まって……だから、クラリス、君がいてくれてよかった……!」

 そう言って、彼は私の手を取ろうとしてきた。

 でも――

「やめてください」

 私は、その手をすっとかわして、まっすぐ彼の目を見つめた。

「今さら何を言っても、遅いです。あなたが私を捨てたとき、私もあなたを捨てました。心から、もう何も残っていません」

「く、クラリス……でも、君は今ひとりなんだろ? 僕と一緒に――」

「いいえ」

 言い切った瞬間、胸の奥からすうっと風が吹いたような感覚がした。

「私は今、幸せです。ちゃんと自分の力で生きて、大切な人がいて。――だから、あなたに関わる理由なんて、どこにもないんです」

「……っ!」

 彼の顔がぐしゃりと歪む。

 怒り? 後悔? それともただのプライドの崩壊?

 どんな理由だって、私には関係ない。

「……もう私に、関わらないで。今さら遅いわ」

 その言葉がすべてだった。

 私はくるりと背を向けて、グレタさんのもとへ戻った。

「ふふっ。かっこよかったよ、クラリス」

「……すこしだけ、どきどきしましたけど」

「泣かないのかい?」

「泣きません。むしろ、すごく……すっきりしました」

 これで、本当に終わったんだ。

 もうあの世界にも、ドーレにも、しがらみにも縛られない。

 自由で、幸せで、まっすぐな未来が、わたしの前にある。

 それが、ただ――オリヴァーさんの隣なら、もっと素敵だと思えた。









 村の朝は、やさしい光とあったかいパンの匂いからはじまる。

「クラリス、朝ごはん、できたぞ」

 あの、ちょっと低くて渋いけれど、どこか不器用な声が、私の胸の奥をくすぐる。

 ……この声を聞くたびに、私は「ここが私の居場所なんだ」って思えるの。

「うん。いま行きます、オリヴァーさん」

 キッチンへ行くと、いつも通り、木のテーブルにはあたたかい食事が並んでいた。

 焼きたてのパンと、オリヴァーさんが狩ってきてくれたお肉のシチュー。それから、私が作ったハーブバター。

「……あれ? バター、多くないですか?」

「……クラリスが好きだから、な。多めにしといた」

 その言葉に、私の心がふにゃっととろけた。

「ふふ、ありがとうございます。……オリヴァーさんって、ほんと優しい」

「そうか?」

「そうですよ。ちゃんと、私のこと見てくれてるし……いつも支えてくれるし」

「お前が頑張ってるからだ。クラリスは、強くて賢くて、真面目で……それが、俺は好きなんだ」

 顔が、かぁっと熱くなる。

 こういうとき、オリヴァーさんは本当に容赦がない。

 でも、うれしい。

「わ、わたしだって……オリヴァーさんのこと、すきです」

 顔を伏せながらそう言うと、オリヴァーさんの手がそっと、私の髪に触れた。

 なでられるの、すごく安心する。あったかくて、心の奥までぽかぽかするの。

「これからも、ずっとそばにいてくれ」

「……はい」

 それだけで、なんだか涙が出そうだった。

 あの頃の私は、誰かに必要とされることがこんなに幸せだって、知らなかった。

 好きな人と、朝ごはんを食べて、笑い合って、小さな畑でハーブを育てて――
 そうやって過ごす毎日が、どんな宝石よりもキラキラしていて、尊くて、愛おしい。

 そういえば……こないだ、市場で見かけたドーレの姿がまだ、ちょっとだけ頭の片すみに残っていた。

 でも、不思議と怒りも、悲しみも、なにも浮かばなかった。

 「可哀想な人」と、ただそれだけ。

 だって私は、手に入れたんだもの。
 ――本当の幸せを。

***

 春の風が吹き抜ける草原で、オリヴァーさんと手をつなぎながら、私は空を見上げた。

「空、きれいですね……」

「お前のほうがきれいだ」

「……そういうこと言うの、禁止です」

「じゃあ、毎朝言うことにする」

 ――ほんとうに、もう。

 私は、くすっと笑って、そっとオリヴァーさんの腕に寄りかかった。











 午後になると、私は薬草畑に出て、やさしい風の中で土に触れるのが日課になっていた。

 しゃがみこんで、ハーブの葉っぱをそっと撫でると、青い空と、草の匂いと、鳥のさえずりが胸いっぱいに広がる。

「クラリス、今日はミントが元気だな」

 後ろから聞こえた声に振り返ると、オリヴァーさんが袖をまくって、くしゃっと笑っていた。

「ええ。お天気がいいから、みんなうれしそうです」

「……まるでお前みたいだな」

「えっ、わ、わたし?」

「風に吹かれて笑ってるクラリス、すごくきれいだ」

 また……そうやって、恥ずかしいことをさらっと言うんだから。

「……もう、やめてください。恥ずかしいです」

「なんでだ。俺は本当のことを言ってるだけだぞ」

 ふふっ。
 どうしてだろう。前は誰かに見られるのも、話すのも苦手だったのに、オリヴァーさんと話すと、胸の奥がぽっとあったかくなる。

 ああ……こんなふうに、土のにおいがする風の中で、あの人と並んで過ごせるなんて。
 本当に夢みたい。

「ねえ、オリヴァーさん」

「ん?」

「私、ここに来てよかったです。あのまま、お屋敷で貴族らしくふるまってたら、こんな幸せは知らなかったと思います」

「クラリス……」

「だから……私、あなたと出会えて本当に良かったです」

 気づいたら、涙がこぼれそうになっていて、でもそれを見せるのは恥ずかしくて、慌てて袖でぬぐった。

「クラリス、泣くな」

 そう言いながら、オリヴァーさんが私の肩をそっと引き寄せて、額にキスを落とした。

 その仕草は、まるで魔法みたいに、胸の痛みや不安をぜんぶとかしてくれるの。

「クラリスのことは、俺が守る。絶対に、もう泣かせたりしない」

「……うん。私も、あなたのそばにずっといます」

 言葉にしなくても、目と目が合うだけで、ちゃんと通じ合ってる気がした。

***

 夜になると、空いっぱいの星がきらきらと輝いていた。

 オリヴァーさんと並んで、家の前のベンチに座る。

「星、きれい……」

「そうだな。ああいうの、ルーディやドーレには見えないだろうな」

「……きっと、あの人たちは、自分ばっかり見てるから」

 私は、そっと目を閉じた。

 あの人たちのことを思い出しても、もう怒りや恨みなんて出てこない。
 ただ、遠くに過ぎていった影みたい。

「クラリスは、よくがんばったな」

「……そうですか?」

「ああ。ひとりで家を出て、生きる道を選んで、俺に会ってくれて……。だから今、お前は本当にきれいに笑えるんだ」

 私、笑えてるんだ。

 ――そう思ったら、なんだか胸の奥がぎゅうって締めつけられて、でもそれは全然つらくない、あったかい痛みだった。

「オリヴァーさん、だいすきです」

「俺もだ、クラリス」

 星空の下、ふたりでそっと手をつないだ。

 ひんやりした風のなかに、あなたの手の温もりがある。それだけで、私は、どこまでも歩いていける。

 あの日、あんなに冷たく突き放された私が、今こうして――
 心から、だれかを愛せてる。

 ああ、やっと見つけたんだ。

 これが、ほんとうのしあわせ。

 笑って泣いて、また笑って――
 そうやって、わたしは、これからも生きていく。

 オリヴァーさんと、いっしょに。

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