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第7話 第一部 6・ 札幌市円山陸上競技場
しおりを挟むやっとのことで長い冬から解放された。今日はそんな厳しい寒さに耐えてきたこの北の街を祝福してくれているような一日だった。
道路を挟んで向かいにある円山動物園は、開園前の時間なのに家族連れの車が次々とやって来ていた。桜はまだ五分咲きにも満たない。それでも、北海道神宮の境内付近にはこれから花見客が大勢繰り出してくるに違いない。野球場では社会人野球の大会が行われ、テニスコートと陸上競技場は高校生の大会だ。みんな、それぞれに独特のスタイルをした選手達が自分の活躍の場所を目指して歩いていた。
札幌市と近郊の高校生が参加する春季記録会は、学校対抗の種目は行われず、シーズン初めの大会として、個人の記録を確かめるために行われている。出場は一人二種目までと限定されていても、学校毎の出場人数制限がないため100m競争は男子だけで15組も行われる。残念ながらやり投げは実施種目には入っていなかった。100m走に出ることになった僕は、120人もの選手と競うことになった。
もっとも、100mの正式な競技に出ることなど初めてで、自分の力だってどんなものなのかは知らない。それでもひそかに、自分の足の速さには自信があった。野球をやっていた七年間で盗塁を刺されたことは一度しかなかった。それも、明らかに審判の立ち位置が悪いために見誤った結果でしかないと思っていた。自分のタイミングでスタートできれば絶対に成功する自信を持っていた。
女子のレースが半分を終え、去年の新人戦の優勝者だという北翔高校の3年生が12秒4のタイムを出したという。気温の低さやシーズン初めという身体の出来具合から、良いタイムが出にくい今の時期にして、12秒4は悪くない記録だという。追い風がかなり後押ししているようだ。南が丘の1年生から一人だけ出場した山野紗希は12秒9で走り、2年生や3年生よりも良いタイムを出した。
並んでスタートを待っていた2年生の坪内航平が自慢するようにいった。
「あー、やっぱあの兄弟はさー、DNAレベルで運動神経発達してんだよなー。」
垂らした前髪の奥から、小さいけれどもちょっとだけつり上がった鋭い目が覗いていた。
「兄弟って?」
「あー?! なに言ってんのおまえ、3年の山野憲輔さんだろ」
「兄弟なんすか?」
「おまえ、バカか。ったく。顔見たらそっくりだろう! たぶん性格もな!」
「ああそう言われれば、大きくて鋭い目が、似てますよね。」
「お前、ホンットに周りのこと分かってないな。鈍いっていうかなんて言うか、足は速えくせによ。」
「すんません。田舎もんなんで。」
「なんでも田舎もんでごまかすなって。お前って、本当に、真面目なのか鈍くさいのか……」
小柄な身体を利して足の回転で勝負する坪内航平は、野球でいうとセカンドやショートに多いタイプだ。こういうタイプは、バッティングも器用で「うまい」野球をする選手が多かった。そして、人一倍負けん気が強いという共通点をも持っていた。だから常にちょっとした細かなことにもトコトンこだわってしまうことが多い。
得意のスタートダッシュと同様、坪内航平はしゃべりもやたらに速い。そのため僕は時々聞き取れないことがあって、それを理由にまたバカにされるのだ。彼にとって、僕は絶好の「口撃」の対象だったようだ。
野球部にいた頃、先輩が後輩をイジったり、けなしたりするのはいつものことだった。そんなことは当たり前で、僕はたいして気にもしなかった。もちろん敬遠する部員たちも少なくないわけで、実際、陸上部の1年生の中で坪内さんの評判は悪かった。露骨にそういう反応を示す1年生も少なからずいた。僕は去年までの先輩と似た雰囲気を持っている彼のことをそんなに嫌いではなかった。というより、何かにつけて話しかけられる(いや、イジられているのかも)ので、かえって親近感のようなものさえ感じていた。
それにしても、僕はもう少し周りのことを知る努力をしなければならないのかもしれない。誰かに教わるまで何も知らないままだったことがこれまでもたくさんあったのだ。
男子の部が始まり、3組目に山野憲輔さんが走り、11秒6の2着でゴールした。この先輩は大柄なわりに小さな走りをしていた。上下動の少ない走りは外野手向きかもしれない。9組目の坪内航平さんは、得意のスタートから11秒5のタイムを出した。僕の1組前の11組では3年生の大迫さんが噂通り強く、スタート後、身体が起き上がってからの加速で他を大きく引き離し、余裕を持ってゴールに飛びこんだ。タイムは11秒2。今までの組では1番の記録だった。
ようやく僕の番になった。緊張感はさほどではなかった。100mは望んでいた種目ではない。チームの勝利を背負っているわけでもなく、2アウト満塁でもないのだから、自分だけのために走ればいいのだ。
3レーンにスタブロをセットし、一度自分のタイミングでスタートしてみる。10メートルほどのダッシュの後スタート地点に戻った。ゴムの走路がずいぶんと柔らかく感じた。同じようにして戻ってきた7人と並び、スターターの合図を待った。
スターティングブロックの後ろに立つと、みんなはそれぞれいろいろなことをやっている。左隣の2レーンの選手はしきりに体をゆすっている。右隣の4レーンでは、その場でジャンプを繰り返している。目をつぶって静かに深呼吸を繰りかえす選手もいた。5レーンの大柄で筋肉質の選手は、スタートのリズムを作るためか腕を小刻みに振っている。そうやって自分独自の方法で集中力を高めているのだろう。視線の先にはゴール地点の白いテープ……。
いや……テープはなかった。
年に一度だけの運動会で、白い紙テープを最初に切りたくて頑張っていた小学生の頃。負けたくない、という気持は先頭でゴールのテープを切りたいという気持でもあった。けれども、今、このスタート地点から見る目標のゴール地点にはなんにもない。ただ走路の両側に2本の白い杭が立っているだけだ。さっきまで何度も先輩たちの走りを見ていたのに、その時には全く気付かずにいた。
スタート前の選手たちがゴールを見据える緊張の場面のはずが、なんだかちょっと違った。目の奥や背中のあたりの力が抜けていくような気がした。陸上選手として記念すべき初の100mは、スタートを切ろうとする今になって「ゴールにはテープなんかない」という、そんな当たり前なことを初めて知る瞬間へと変わった。頭の中に空白ができてしまったような気がした。左右の選手たちは、みな緊張感たっぷりの顔をしている。
「オンニュアーマークス!」
赤い帽子をかぶったスターターが叫んだ。初めて聞く言葉だった。運動会ふうに言うと「位置について」ということらしい。
「シャアッ!」とそれに合わせて大きな声が外側のレーンから聞こえた。
「シアース!」と左隣の選手が気合いを入れた。
両足をすっと開いたスターターが、白く四角い台の上に真っ直ぐ立つ姿がかっこ良かった。次は何という言葉なのだろう。急に胸のあたりが忙しくなってきた。
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