「南風の頃に」~ノダケンとその仲間達~

kitamitio

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第8話 第一部 7・ 初めての100m競争

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右膝をついて、左足を前側のスターティングブロックにセットし、両手は白線の手前に親指と人差し指で支え、肩幅より少し広く平行に置いた。腰を小さく左右に振ってスターティングブロックに両足を更に押しつけた。一度顔を上げてゴール地点を見た。
「遠いな」
自分のレーンを示す二本の白線が遠近法の存在をはっきり主張していた。それは9レーンの全てをまとめるようにゴール地点に集結している。頭を下げ、息を整えた。そして軽くはき出した。
「よーい!」じゃない次の言葉を待った。

隣にある野球場から金属バットによる打球音が聞こえてきた。耳に神経が集中しているのを感じた。

「セット!」

腰を高く上げると、指と肩とに体重がかかった。
「ドン!」という音なんかじゃない。「パン!」とも「バン!」とも「バシ!」とも聞こえる音を聞き飛び出した。引き上げられた右膝で一歩目が遠くに着地し、その右足にしっかり身体をのせて左足を出す。右、左、と進めるうちに脚にかかる力が軽くなってきた。スピードに乗ってきた。肘を曲げ、拳を握らないように意識を小指に集め、視線は遠くにおいてなにもないゴールに向かった。

追い風はいつの間にか止み無風状態だったが、顔にぶつかる風の強さがほっぺたを揺すった。結構寒い。腕を大きく前後に振り、ひざは意識して高く上げ地面を上からたたきつけるようにしてゴムの走路を踏みつけた。タータントラックというゴム製の走路は、野球場の赤土とは違って跳ね返りが強い。つま先が埋まったり、滑って前足が抜けたりすることもない。

ゴールが近いことを示す横線にさしかかった時、右隣の選手が前にいることに気づいた。
今まで以上に腕を強く大きく振ろうとした。とたんに肩が揺れ、腕の力が首筋を硬くした。練習の時に沼田先生に言われていたようにリズムよく走ろうとしていたのが急に崩れ、上半身の前傾が大きくなり前につんのめりそうになった。打席でフルスイングした後に1塁に駆け出すときのように、全身の力を使ってなんとかこらえた。テープのないゴール付近を通過した時、1レーンの選手がわずかに自分の前にいるのが見えた。

3番目でのフィニッシュだった。第1コーナーの入り口まで走り、右に折れて場外への通路に向かった。
「負けた」
思わず空を仰ぐと、五月の陽射しがちょっとだけ目を痛めつけてくれた。なにも考えられないうちに終わってしまった。

斜面に段差をつけて下へと続く隣のテニスコートから女の子達の歓声が聞こえてきた。武部はどうしているだろう。あいつも今日が人生初のテニスの試合なのだ。

記録は11秒7だった。初めて正式な記録を手にしたものの、この1本の100mのために僕はここで一日を過ごしている。準決勝、決勝と進んでいかない限り、これで一日が終わってしまう。野球の試合は中学であれば7回まで行われ、時間にすれば2時間程の真剣勝負ができる。今日は11秒で終わってしまった。この短い時間の中で自分の楽しみだとか満足だとか、いったいどこで、どんな瞬間に感じるものなのだろうか。自分の力だけが勝負の決め手になる個人競技を望んでいた僕の考えは、本当は自分自身の適性とは違っていたのだろうか。

センターの位置から、投球のコースに合わせて守備位置を変え、スイングの強さと打球音で飛球の位置を判断してスタートをきる。そんな野球をしていたときの方がはるかに中身の濃い、極める価値のある時間だったのではなかったのか。相手投手の配球を読み、自分のポイントまで引きつけたボールをフルスイングできる野球の方が、遥かに満足感を得られる競技だったのではないのか。自分のいない競技場で他人が走っている姿を見ていても何も感じるものはなかった。

テントへ戻って、一人きりの昼食を摂った。野球部時代には一人で昼食を摂るなんてことは考えられないことだったが、それぞれが自分の出場種目の時間に合わせて食事をとるのが陸上競技の「あたりまえ」なのだ。午後からは大迫勇太先輩の100m決勝を応援するために全員でメインスタンドに移動した。風がすこし強くなり、ゴール地点に向かって左後方からの追い風に変わった。2時現在はプラス3.2メートル。

電気計時を行っていないこの大会では、スターターのピストルから白煙が上がった。山口さんのストップウォッチが動き出した。大迫さんがとびだした。身体が起き上がりトップスピードに乗るまでは、とてもスムーズに動けていた。中間疾走でスムーズな動きを維持できれば記録に結びつくらしい。でも、何だか少し力みが見える。肩の辺りが盛り上がっている。膝下の動きが小さくなったように感じた時、隣のレーンにいた北翔高校の山崎昇が前に出た。

この選手は予選の時、僕と同じ組で一番だった選手だ。大きな動きで股が高く上がっている。身体の大きさを活かしたダイナミックな走りで後半一気にスピードに乗ってきた。腕の振りが大きく、股の太さが印象的だ。この人はきっと200mも強いのだろう。

最前列にいた僕たちの目の前を走り抜けていった山崎昇に、大迫さんは勝てなかった。後半の動きが対照的だった。追い風参照記録だったが、山崎昇は10秒9のタイムを出した。大迫さんは11秒1。追い風は2.6m。ほんのちょっとのオーバーで公認記録にはならなかったけれども、10秒台の記録に山崎昇は手をたたいて喜んだ。

中学の時からずっとトップを走ってきた大迫さんが札幌で負けるのは珍しいことなのだという。彼は第1コーナー付近に立ち止まっていた。天を仰ぐという言葉がまさにぴったりな動作で、係員に促されるまでしばらくの間腰に手をあてていた。

彼の長い前髪に風が容赦なく吹き付けていた。

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