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第9話 第一部 8・二人の敗者たち
しおりを挟む連休明けの学校は賑やかだった。5月病なんていう言い古されたものとは縁遠いこの学級の生徒たちは、相変わらず雑多でにぎやかで脈絡のない会話に夢中だ。中でも特に、強風に舞い上げられたような会話の花びらをあちこちに散らしまくっていたのは、身振り手振りをふんだんに交えた武部の「テニス初体験記」であるかもしれない。
「僕のバックハンドは高校生離れしているって言われたよ。」
「それって、高校生のレベルに達してないってことじゃないの?」
ピアノが得意だと自己紹介していた小笠原美桜が言った。なんとかいうピアノコンクールで全国2位になったのだという。その演奏を聴く機会はまだないが、とげとげしく激しい演奏になるような気がした。
「ボレーを決めるための微妙な角度を会得したよ。」
「ダブルスの前衛でもサーブやレシーブがあるんでしょう?」
そう言った福島美幸は小さな身体ながらバレーボール部のセッターとして期待されている。
「武部君とテニスボールの組み合わせがどうしても結びつかないよねー!」
合唱部でソプラノパートだという星野嶺衣奈が、その大きな目から今にも涙が落ちてきそうなくらいに笑っている。武部に無理矢理連れて行かれた合唱部のホールコンサートでは、女の子がほとんどの中に武部を入れて7人ほどの男子部員が、あごを振り、目を大きく見開きながらバスのパートに苦戦していた。星野嶺衣奈たちソプラノパートの響きはなかなかで、笑顔が印象的な歌い方だった。彼女は小さな身体に似合わず、どこまでも突き抜けるような澄んだ声を響かせていた。
そして、その場で、仕組まれていたように合唱部への入部を勧められた。僕はもちろん強い口調で断った。歌には自信がない。いくら兼部が認められていようともそんな時間があるわけがなかった。
「武部君って、ボール追うより口の方が多く動いてたんじゃないの。」
誰もが武部のイメージとスポーツとをマッチさせられないでいるらしい。
武部はそんな冷やかしのすべてに丁寧に答えていた。長い前髪を風に吹かれながら俯いている大迫勇也の姿が武部の笑顔に重なった。自分自身の走っている姿は浮かんでこなかった。たった11秒で終わってしまった初めての陸上の試合。それなりに初めてづくしの経験はしてきた。けれど、こんなことを続けていけるのだろうか。何を目的に、どんな楽しみのために、毎日の練習に向かえばいいのだろうか。練習することそのものが楽しみであるのか。そういう人もいるのだろうし、そうなれるのならそれでもいい。けれども、楽しみの存在場所はわからないままだった。
武部のような社交性は持ち合わせていない。ましてや、1回戦負けの試合結果を何回も、何人にも繰り返し話せるほどの忍耐力もない。むしろ、大迫勇太先輩の天を仰いでいた姿にあこがれた。たった一度だけでも、自分が敗れたということに大きな思い入れのある生活をしてきたに違いない。
――勝っても負けても、そのことに全身で喜びを表し、悔しさをにじませられる、そんな夢中になれるものを見つけたい。他人のことなどどうでも良くなるくらい、自分のことだけに入り込める何かを手に入れたい。家族も友人も世の中の出来事さえ、何も気にすることなく夢中になれる何かが欲しかった。
「ケンジー」という間延びした呼び方をするのは武部に決まっていた。
「足速いなー、お前!」
テニスの話ではないらしい。
「予選落ちだって」
「いやいやいやー、1年生だもん、あたりまえでしょ!」
「学年なんか関係ねーよ。おんなじ距離走ってんだから。」
「あらっ、負けたのが悔しいってか? なんかー、珍しくやる気なさそうだぞー!」
「たった11秒のために一日無駄に使うのが我慢できない。全然面白くなかった。お前とは逆だ」
「そうだよー、オレは1回戦負けだけどさー、やたら面白かった! 初めてのことばっかりで、本当はルールすら知らなくて、どっち側からサーブすればいいのかもわかんなかったんだ。いちいち教えられながらやったんだけどさ、面白かったよー!」
こいつはなんで僕の前ではテニスの武勇伝を語ろうとしないんだろう。
「ケンジ―……お前さ、なんで野球やんなかったの?」
「……野球もたいした面白くなかったから」
「だってお前さー、少年野球からずっとやってたんだろう?」
「だから、もう飽きたんだ」
「俺さ、テニスの会場で、時田ってやつと仲良くなったんだよね。北龍高校の」
「時田、……時田一也か?」
「そう、一也。一緒に野球やってたって?」
「んで?」
「最後の試合のこと言ってた」
「……」
「お前がさ、最後に投げたって……」
去年、中学最後の試合は全道大会出場をかけた地区の決勝戦だった。
互いに2点ずつとって7回を終わった。延長戦は促進ルールが適用され、無死満塁から攻撃が開始される。8回表、先攻の我が校がスクイズと外野フライで2点を取った。その裏「2点差があるからスクイズはない」との監督の読みで、スクイズ対策の前進守備を取らない作戦の裏をかかれ、1塁側にセーフティースクイズを決められた。しかも、それが内野安打になり満塁のまま1点差に迫られた。次の打者には前進守備にしたところ、バントしたはずの打球がハーフライナーとなって2塁手の頭を越え同点になった。ここで1点取られると終わりの無死満塁となった。
もうあとはない。1人で投げ続けてきたピッチャーは、もう気持ちも体力も限界なことが誰の目にも明らかだった。もう1人のピッチャーは2年生で安定した投球をするが、球威がない。この場面では使えない。監督の大谷先生はセンターの僕をマウンドに上げた。中学に入って何試合か練習試合で登板したことがあるだけで、ピッチャーとしての練習はしていなかった。それでもセンターからのバックホームで肩の強さは全員の知るところだった。中学に入学してから何度もピッチャーを薦められてきた。無死満塁。1点取られればそれで終わってしまうこの場面では、力で押さえてしまう以外ない状況だった。
8球の練習投球で感覚を呼び戻し、集中力を高めた。緊張するとか堅くなるとか、そんなところを見せたくはなかった。この時もポーカーフェイスで通そうとした。キャッチャーの森田がマウンドにやってきた。
「カーブはいらないぞ」
笑顔だったが、目は笑ってなかった。
「どうせ投げれないって」
「全部真ん中来い!」
もともとコントロールには自信がない。真ん中ねらっても適当に散らばっていってくれる。四球を出さないことが一番大事だ。スクイズされたらしょうがない。
慣れないセットポジションから3塁走者を見て大きく左足を上げた。ミットだけに集中して投げ込んだ。センターからのバックホームと同じように左足にしっかり体重をかけて全身の力をこめた。真ん中高めのストライクになった。歓声が上がった。2球目にスクイズにきた。足を上げた時にスタートをきるのが分かったがかまわずに投げ込んだ。少しアウトコースにそれた高めの球をファウルにしてくれた。3球目もスクイズをやってきた。うまいぐあいにインコースに外れた速球に押されボールはバックネットへのファールとなった。3振でワンアウト。次のバッターは初球からスクイズをやってきた。これもストライクゾーンから外れた速球で1塁ファールフライになった。ツーアウト満塁。味方ベンチから大きな歓声が上がった。
そして3人目。この1番バッターは相手にとってはいやな「うまい」選手だった。初球、外側に外れてワンボール。次の球が勝負と感じた。スクイズはないので大きく足を上げて全力で腕を振った。バックネットにファールとなった。タイミングは合っていた。3球目更に力を込めて腕を振った。インコースに外れた高めの球に対してバッターが左肘を突き出すようにした。
ボールがあたった。
いや、ボールにあたりにきた。
明らかな死球ねらいの動作だった。主審がタイムをかけた。バッターは死球のアピールをしている。
「あたった、あたった!」と相手ベンチも大きな声で騒いでいる。審判が協議のために集まった。1塁の塁審からは左肘を突き出してわざとあたりに来たことがはっきり見えている。「ボール!」という判定を主審が下し。バッターに注意が与えられ、ツーボールワンストライクから試合が再開された。その時相手の監督が主審に抗議にやってきた。判定への抗議は認められていないのだが、相手校の監督は判定が変わらないことをわかってあえてやっている。ピッチャーや相手守備陣へプレッシャーをかけているのだ。小学校の頃を思い出した。これがいやでピッチャーはやりたくなかったのだ。
もうボールにしたくない。四球でもサヨナラになってしまう。結果を考えずに真ん中に最高の球を投げてやる。渾身の投球と自分でも感覚があった。外角の低めに最高の球が行った。見送った、と思った瞬間に遅れてバットスウィングが始まり、「バスッ!」という音と共に森田のミットからボールがこぼれた。バットがミットをたたいた音だった。投球は低めのストライク。ミットにボールが収まってから「ミットを」打ちにいった。主審が再びタイムをかけ、塁審を呼び集めた。長い協議の結果「インターフェアー」の判定が下った。打撃妨害。バッターが打つのをキャッチャーがじゃましたという判断だった。しかし、バッターは明らかにミットを狙ったスウィングをしていた。
ベンチから勢いよく飛びだした大谷先生が激しく主審に抗議した。塁審たちが間に分け入った。
「なんだよあれー」
「きったねーぞー」
グラウンドを囲った金網の柵の外からも観客のヤジが飛ぶ。本部席にいた他校の監督たちも顔をしかめ、小声で話している。いったん下ってしまった判定は覆さないのがルールだ。3塁ランナーがホームを踏んで試合は終了した。ミットを打ちにいった相手校のバッターは両手をたたきながら1塁ベースを踏んだ。
「ヨッシャー!」という声が僕の耳になんとも悲しく響いた。
彼は何に対して喜びの声を上げたのだろう。自分の上手な演技にだろうか。審判をうまくだませたということになのだろうか。勝ったことで喜びの声を上げ、ベンチを飛びだした相手チームはみんながハイタッチを繰り返していた。僕は自分たちが負けたという事実が悲しいわけじゃなく、こんな勝ち方を喜ぶ人がいることに悲しくなった。相手校のベンチでは監督や部長先生も大喜びだった。これで全道大会に出場できるのだ。
僕はそのまま球場からいなくなってしまいたかった。
森田は泣いていた。
去年の7月のことだった。
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