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第34話 第二部 5・母子 ~ 菊池美咲の母は…… ~
しおりを挟む北海道大会 二日目
菊池美咲の最後の全道大会が始まった。
七種競技の第一日目は四種目が行われる。
10時からの100mハードルを15.05秒、11時40分からの走り高跳びを154㎝の記録で午前中の競技を終えた。午後からは14時30分から砲丸投げ、17時から200mが予定されている。
午前中のこの2種目はどちらも参加選手中トップの記録だったのだがともに自己記録には届いていない。高校生活最後の全道大会でもあり、地元旭川での大会でもあったので、初日はやっぱりいつも以上に緊張していたかもしれない。
それでも、100mハードルはスタートから最初の一台を越えてしまえば、あとはいつもと同じように変わらない流れで走り切れた。記録もまあこんなものかなという感じで、まずまず無難なスタートを切れたという思いでいた。それなのに、得意種目の一つである走り高跳びは10㎝近くも低い記録に終わってしまった。中学になって初めて陸上競技を始めた時には走り高跳びを専門にしていたし、高校になってからも単独種目の走り高跳びで何度か優勝したことだってあった。
走り高跳びという種目はもともと安定した記録を出しにくい種目なんだけれど、どうにも集中しきれない。今まではそんなことあまりなかったのに、最後までその状況を変えることができないままだった。動きのぎこちなさをどうしても改善できなかったのだ。
まあ、今までの経験もあるし、次の砲丸までは少し時間があるので、ゆっくり昼食をとって区切りをつけたら午後からは何とか戻せるだろうと思うことにした。昨日、上野先生が掛けてくれた言葉もこういうことを予想してのことだろうと考えていた。ジャージの上にウインドブレーカーをしっかりと着て、体を冷やさないことに注意してからバックを背負って自分の学校のテントへと向かった。
花咲競技場は札幌の円山競技場と同じように、きちんとした座席の客席は正面スタンドにしかなく、バックストレート側やコーナーあたりは芝生の傾斜になっている。全国大会も行われる厚別競技場のようにサブトラックも常設されていないので、テントを用意している学校は芝生の傾斜部分に設置していた。テントなどを用意していない学校はスタンドの階段状の席を荷物置き場として利用している。
旭山高校は全道大会に自分も入れて4名しか参加はないのだが、応援や手伝いの生徒も入れて10名ほどがテントを設置して利用していた。六月の旭川はそんなに気温が高くなかったが、それでも直射日光や風を避けられるテントは休憩の場としてやはり必要だった。
第一コーナーの走り高跳びのピットから第三コーナー付近のテントへと向かった。
フィールドと芝生観覧席との間の鉄柵に沿って歩いていると、何人かの先生たちに声をかけてもらった。今までに指導していただいたり、大会でお世話になったりした先生たちだった。
中学で陸上競技に出会いその面白さにはまってしまってから、自分の力でも何とか他の選手と競えると思うようになると、もっと上のレベルの世界が見たくなってしまった。いくつかのカテゴリーの練習会や専門の先生による合宿に参加させてもらい、それまでの自己流のやり方を一から考え直した。自分が本当はどんな競技に向いているのかを真剣に考え、ずっと迷いながらも高校の三年間夢中になって陸上にのめりこんできた。そんな中でいろいろな人たちと知り合いになり、たくさんのことを教えてもらって、自分の世界もずいぶんと広がったことを感じていた。
旭川は北海道の中では大きな街の部類に入る。高校の数も多く、たとえ陸上をしていなくとも自分の世界を広げる機会は少なからずあったのだろう。でも、自分の記録が伸びるにしたがって大会参加の回数も増え遠征の場所も広がっていった。それに伴う人との関係は北海道だけにとどまらなかった。インターハイは毎年場所を変えて行われ、国体やジュニアオリンピックなどにも参加させてもらっていたので、ずいぶん多くの都道府県の競技場を経験させてもらった。そして、そこでは新しい人とのつながりが必ず始まるのだった。
家族には金銭面も含めてたくさんの援助をしてもらっている。旭山高校の先生方はもちろん、陸連の先生方にしても仕事としてや義務として以上のお世話をいただいたことも一度や二度ではない。自分が残した記録や結果で勝ち取ったものだという、思いあがった気持ちになりかけたこともないわけではないが、今はそうではない。表面上だけではない先生方の熱意のようなものを感じてそれをしっかりと吸収させてもらって来た。先生方は自分の時間を削って陸上に携わってくれていることも十分に知っていた。それによって自分の家庭での時間を犠牲にしていることだって知っている。
そんな人たちの思いにこたえるためにも自分がしっかりと努力して結果で返したい。そんな三年間を送って来た。そして、今年でその三年間が終わる。ましてや地元で開催されている全道大会の始まりだった。
「あっ、菊池さん!菊池さんだ……野田君! 野田君……菊池さん!」
そういう声とともに、昨日話を聞いた南ヶ丘高校の女子生徒がテントの前に立ち上がり後ろに手招きしている。
第二コーナーの出口にあたる部分の斜面の一番上に南ヶ丘はテントを設置していたらしい。この辺りは外周に沿って植えられた木々が葉を茂らせ、夏場には強い日差しを防いでくれる快適な場所だった。そこには二張りの大きめなテントが並んで設置されていて、右側のテントの横から大柄な男子生徒が顔をのぞかせた。
その生徒は紺色のタイトなジャージのズボンを履き、ベージュの厚手のジャージを羽織っていた。程よく日焼けした彼は、短めの髪の毛から両耳がすっきりととびだし、太めの眉毛に二重の三白眼が印象的だ。彼は、……昨日のリレーでアンカーを務めていた「野田賢治」だった。
菊池美咲は、今まさに自分の方にやってこようとしている「野田賢治」を現実の存在とは思えなくなっていた。そして、自分を取り巻く景色がすべからく色を失い、それまで頭の中を占領していたモノたちもすべて消え去ってしまっていた。
野田賢治は、昨日リレーの後に川相智子と山野紗季から自分のことを尋ねていたという「菊池美咲」のことを聞き、プログラムに彼女の名前を探した。隠岐川俊からは彼女が北海道の高校生を代表する優秀なアスリートであることを教えられた。岩内にいたことがあって自分のことを知っている高校三年生の陸上選手……。野田賢治には全く心当たりがなく、中学の陸上部の先輩たちにも知り合いはいないはずだった。ただ……。
……ただ、「misaki」という名前の響きは自分の記憶のどこかに引っかかるものがある。……のだが、それがどう自分とかかわっているのか、誰のことなのかはわからずじまいだった。昨日からずっと「ミサキ」という名前を何度も何度も頭の中で反芻していた。でも、結局何も進展してはくれなかった。
立ち止まったままの菊池美咲に野田賢治は近づいて頭を下げた。
「ども、野田です……」
顔を上げてみると、目の高さがそんなに違わないことに気づいた。斜面を降りていくまで彼女の背の高さに気づいていなかったが、上野先生と同じくらいの身長だ。髪を後ろにまとめているからか背の高さからなのかずいぶん小顔に見える。
「ああ、……野田、ケンジ、君?」
菊池美咲さんは慎重に言葉を選ぶような言い方をした。
「はい。昨日、……僕のことを尋ねていたと聞いたんですけど?」
彼女は少し顎を上げるようなしぐさで僕の顔を正面から見た。と、すぐに左右に小さく顔を振って何かを確かめるようにゆっくりと頷いた。そして無理に笑顔を作るようにして言った。
「ああ、ごめんなさいね。野田君って、ノダケンさんのところの人でしょう? 小学生の頃にね、ノダケンさんにお世話になったことがあったの……。それでね、プログラム見てたらおんなじ名前見つけちゃったんで……」
野田賢治はこの人はうそをついているということをはっきりと感じていた。何かを隠そうとしている。目があちこちさまよっていた。
「あのー、岩内の八興会館ってところで、あの、剣道と書道を、うちの爺さんが教えてたんですけど……、そこで一緒でしたか?……ノダケンっていうのは、うちの……」
「……ミサキちゃーん」
という声が僕の言葉を止めた。
その声はだんだんと近づいてきて
「ミサキちゃーん。お弁当、どこで食べるのー?」
声の主はそう言うと、急に頬のあたりが緊張したような表情に変わって菊池美咲の腰のあたりに後ろから抱きついた。
彼女は明らかに戸惑っていた。
「ほら、ミホー! お姉ちゃんはお話し中でしょう、もう……」
遅れて母親らしき女性が笑顔でやってきたが、僕の方を見たとき、小さく口を開いて驚きの表情を見せた。
母親の言葉に、菊池美咲の後ろに隠れるようにしてこちらを覗いている「彼女の妹」は、唇を強く結んで下から睨んでいるような表情に変わった。
一瞬、その幼い女の子が発した強い風が僕の前を通り過ぎていったように感じた。
そしてその強い風は、自分の周りにずっと纏わりついていたモヤモヤとした「何か」を剥ぎ取ってしまった。
今、菊池美咲さんとその妹が見せている姿はまさに、僕がずっと、ずっと前から……自分の記憶の中に閉じ込めて来た、一度も、誰にも、話すことなく、思い出すことさえ硬く自分自身に禁じて来た場面だった。そう、しっかりと自分の記憶の奥底に封印してきた、忘れてしまったはずの「あの場面」そのものだった。
その場面が今、突然よみがえって来た。それは、彼女の妹の表情があの時とそっくりなことに気が付いてしまったからだった。
二人とちょっとだけ離れたところから僕を見ている彼女たちの母親は少し険しい表情をしていたが、ゆっくりと頭を下げた。菊池美咲は母親に向かって頷くように顎を動かしたあと少し顔をゆがめながら言った。
「美穂! 一緒にお昼食べようか。テントの方でね……」
「うん、うん、そうだね。……ミホ、お姉ちゃんと一緒にお弁当食べようね」
二人の母親は娘の言葉に助けられたようにぎこちない言葉を発した。
「うん、ミホね、美咲ちゃんと一緒にお弁当食べる」
小さな手で菊池美咲のジャージの裾をしっかりとつかんだ妹は、知らない人たちから離れられることでほっとしたような晴れ晴れとした顔になっていた。
「あー、ごめんなさいね。もう一度ね、競技が終わった後にね、来るから。そのときね……」
そう言うと菊池美咲は、自分の子供をあやしているかのような様子で妹の手を引いて歩き始めた。その姉妹の母は、僕に頭を下げた後、ゆっくりと二人の後に続いた。
この時、菊池美咲は七歳になってすぐの別れのシーンを思い出していた。今でもその時のことははっきりと覚えていた。自分と母が五歳の誕生日を前にした弟と別れ、祖父の車に乗って岩内を出発する場面がいつまでも頭の中から離れることはなかった。玄関横の窓に顔をくっつけて、ずっとこっちを見ていた弟の不安げな顔が今でもはっきりと思い出せる。
野田賢治が自分の中だけに封印してきたのはまさにこのシーンだった。「misaki」という言葉の響きが、今ここで彼女に重なった。五歳の誕生日を前にしたあの時、封印していたあの時の、あの場面が今ここに再現されていた。自分の姉である美咲を今はミホが演じている。そして今、姉が演じている「母?」……も、すぐそこにいた。
記憶の底に押し込めてあった母の姿がぼんやりとよみがえってきた。それは長い間忘れていた、いや自分の心の安定のために忘れようとしていた母の姿に違いなかった。そしてその記憶の中からやってきた母は、今目の前にいた女性に重なり、ピントが調整されようとしていた。たった今、自分の前に現れて二人の姉妹の後を歩いて行った女性は……、自分の母……なのだ。
どういう経緯で父と別れ、そして今この旭川の地にいるのかは全くわからない。けれども、自分の中では思い出してはいけない、消し去らなければならない存在としての母だった。そして、姉の姿だった。
父の家には、母や姉の写った写真は一枚も残ってはいなかった。祖父や祖母は父のことを考えてか、その話題になることを嫌った。野田賢治自身も自分から話題にするべきことではないと自分に言い聞かせてきたのだ。今まで自分にとっての母はそういう存在だった。
去っていく三人の後ろ姿を見ている野田賢治には、自分の周りだけ時間が止まってしまったように思えてならなかった。ただ彼女たちの後ろ姿を目で追い、一人だけ残されたようにその場に立ち尽くしていた。……これこそが、あの時と同じ……
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