「南風の頃に」~ノダケンとその仲間達~

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第33話 第二部 4・邂逅~菊池美咲 最後の全道大会~

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「上野先生、……」
「菊池さん、って言うんですか?」
「上野先生、お知り合いなんですか?」
言葉をかぶせるように、川相智子と山野紗季が勢い込んでそう尋ねた。
「あららら、あんたたち! 彼女のこと知らないんじゃ北海道の高校生アスリートとして失格だよ!」
上野先生の大きな目がますます大きくなっていた。

「菊池美咲さんって、確か旭山高校の……」
一番ゴール側にいてメガホンを鉄柵に叩きつけていた隠岐川駿が思い出したようにそう叫んだ。

「岩内……?」
上野先生は、山野紗季に菊池美咲から受けた質問の話を聞き、ちょっと不思議な顔をした。

隠岐川駿が続けた。
「去年のインターハイ、七種競技……全国で3位入賞、でしたよね。」
「……」

菊池美咲は野田賢治が自分の弟であることを確信した。
グラウンドでは、スタートラインに戻ってきた先輩たちに肩を叩かれて野田賢治がバトンを係員に返しているところだった。

「あれー、菊池さんも岩内出身だった?」
野田賢治との接点を見つけられずにいるようで、上野先生の質問はたくさんの「?」が付いた言い方だった。
「小学校の頃にちょっとだけいたことがあるんです……」
「そうなの……あ、そー……」と言いながら上野先生はまだ何かを探しているような顔をしている。

母にはこのことをどう伝えようか。
今までいつだって忘れられずにいた弟の成長した姿がそこにあるのだ。でも、明日はもう南ヶ丘はリレーを走らない。母はその姿を見ないままなのだから、今、この人たちから聞いたことをあえて伝えるべきではないのかもしれない。
そんなことを考えていた時、自分のことを知っていた隠岐川という生徒に周りの女の子達が話している言葉が耳に入った。

「次は隠岐川さん達の番ですね。16継は予選突破してくださいよ!」
「おー、そりゃもー、もちろん。このまんまだと野田も頑張った意味ないしな。」
「自分の八種はハードルでこけて……もうちょっとのところだったものね。全道出てたらもっと記録伸びたよね!」
「4継は憲輔のバトンミスでダメだったし……」
「いや、山野……、そんな下手なバトンじゃなかったって」
「だって、あそこでぐんとスピード落ちちゃったじゃないですか」
「そのくらいのミスは普通にあることだし、後から責めるなよ。憲輔さんには最後の大会だったんだからさ」
「だって、野田君の最後の追い込みすごかったんだから、あれがなければ……」
「結果としてはそうだけどもさ、レースってそんなもんでしょ」
「そうだよ沙希。いっつも完璧にはできないから」
「でも……」
「まあ、16継はそうならないようによ、頑張るから。野田も今日以上にやってくれるさ。今、悔しさいっぱい感じてんだろうから。あいつならきっとよ、もっとすげー走りするんじゃねえか!」

南ヶ丘の生徒たちの会話を聞きながら、菊池美咲は野田賢治が……私の弟が、短い時間にもかかわらずうまくこの学校に溶け込めていることを感じた。と同時に、「自分の八種……」という言葉を耳にしたとたん、野田賢治と自分との離れられない強い運命のようなものを感じることになった。彼が私と同じ種目である混成競技をしていたのだ。こんな偶然なんてあるものだろうか。
そして、なんと1600メートルリレーにも出場することを知った。

 母に今日の様子は話そうと決めた。今まで弟のことを話題にすることは互いに避けてきたが、私はいつだって忘れたことなんかなかった。母だってもちろんそうに決まっている。新しい父は何もかもわかっていて結婚したらしいので、弟がいることだって知っているに違いなかった。3年前に亡くなった祖父は弟のことが気になって仕方なかった。祖父の家に遊びに行くたびに弟と一緒に写った写真を見せてくれるのだった。
 ……ただ、それは私が一人で行った時だけの話で、妹の美穂が一緒の時には一切そんな話には触れないままだった。……妹には……今のままでいた方がいいのかもしれないし……。

上野悦子は菊池美咲の反応がちょっと気になった。去年国体で一緒になった時以来何度か競技のアドバイスをしたり、女の子特有の雑談に付き合ってたくさん話を聞いたりしてきた。その時とは今の彼女の反応が違いすぎた。競技前のセンシティブな状況とも違っている。
彼女自身何かに迷っているような話し方だった、ノダケン君と一緒の「岩内」という言葉がどうにも気にかかっていた。ノダケン君に初めて会ったときに岩内で中学校教師をやっている小山先生の話をした時と同じ感じだった。なんだか、……ふたりとも岩内に対する何かの「重たい記憶」を背負っているような話し方なのだ。
そして、なんとなくノダケン君と菊池さんの目や顔立ちに似通ったところを感じていたのだ。でもまさか、同じ混成競技をしている二人が(いやいや、ノダケン君に混成を進めたのは私自身なんだけど)偶然に岩内で一緒だったことがあって、岩内に何か隠しておかなければならない思い出を持っている……。そんな偶然過ぎる関係などあるはずもない。ミステリー小説でも何でもない目の前にある現実にそんなうまい具合の接点なんてあるはずないか。上野悦子はなんだかすっきりしない気持ちだった。

南ヶ丘高校と清嶺高校との合同練習で感じた野田賢治の運動能力の高さ。今までの南ヶ丘には居なかった、いや、北海道の高校生全体を見てもここまでの能力の高さは滅多に存在するわけではない。夫の沼田恭一郎とともに彼の持つ力を十分に発揮させるための方法を考えて来た。そして、早くも発揮され始めたその力に驚きながらも、彼をもっともっと高い次元の選手にする義務を負ったような気になっていた。こんな役割は大きなプレッシャーにもなっているが、それ以上に陸上を教える者としてはこんなに恵まれたことはない。
野田賢治はそんなに遠くないうちにその力を全国的に知られるようになるに違いない。そして、菊池美咲さんはもうすでに全国的な存在になっている。この二人が……。自分がこの二人にかかわりあえている……その楽しさをこれから更に大きく味わえるのだろうと思う。けれども、今、なんだか不思議な……、違和感とでも言えばいいのだろうか、逆にこの二人に共通点を感じると言えばいいのか……、なんとも落ち着かない思いになってしまったのだ。
全道大会前に岩内にいる小山先生と連絡を取った夫は、野田賢治の家の特殊性を知ることになった。彼の岩内町での立場そして彼の家庭について……。小山先生は大学以来の知り合いなのだが、彼との間には夫婦そろって嫌な記憶しか残っていなかった。そんな彼にあえて連絡を取ったのは、私たち二人が野田賢治を本物の日本を代表するようなアスリートに育てられるかもしれないと思ったからだ。この北海道からそういう選手を輩出できるとすれば、それは陸上にかかわるものとしてこの上ない幸せなことだ。だから野田賢治の情報は多いほど良いと思ったのだが……。夫は、また小山君の嫌な部分にふれてしまったようだ。

さっきの4継での最後の走りを見たら野田賢治にはとてつもない力が隠されていることは明らかだ。体にばねがあるから走るスピードだけじゃなくて投擲やジャンプの瞬発力だって群を抜いて強い。何より最近の高校生アスリートらしくない上半身の強さが魅力だ。多くの子たちは高校生になってから筋トレで鍛えて2年後、3年後に何とかバランスが取れるようになる。全市大会では失敗しちゃったけど、難しく熟練を要する技術系のハードルだってとんでもない記録を出しそうだった。野田賢治のこれからを見逃すわけにはいかない。そう、彼は誰もがそう思える選手になりつつある。
その野田賢治をこんなにも近くで菊池美咲さんが応援していた。そして南ヶ丘の子たちに質問していたという……。

「菊池さんの七種は明日からだったよね。期待してるからね! でも、力みすぎはダメよ!あんたならちょっとくらいミスがあったって絶対勝ち抜けるからね。楽しんで!」
上野悦子は、菊池美咲の反応を確かめながら、今はそう言うだけにして彼女の気持ちを乱さないことを大切にしようと考えた。

いつものように気持ちを楽にさせる後押しを上野先生はしてくれた。南ヶ丘の生徒たちは軽く会釈してリレーメンバーの元へと移動していった。野田賢治も仲間の陰になってもう見えなくなっていた。

菊池美咲は、今まで何度となく見てきたこの競技場の景色が、今までと全く違ったものに感じて仕方なかった。自分自身は今どんな顔をしているのだろう。
スタンド下にいる南ヶ丘の生徒たちの後ろ姿から視線を上げると、バックストレートの向こうに掲げられた高体連の旗が、初夏の青空と見事なコントラストを見せていた。そしてわずかに揺れていた。


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