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第32話 第二部 3・旭川花咲陸上競技場
しおりを挟む旭山高校三年生の菊池美咲は自分のホームグラウンドと思って使ってきたこの競技場が、母がまだ中学生だったころには近文競技場という名称だったと聞いた。そして今、花咲競技場と名前を変えたこの場所で高校生活最後の全道大会が始まろうとしていた。そしていつものように大会公式プログラムのすべてのページを丹念に読み進めていくうちに「野田賢治」の名前を見つけてしまった。
「野田賢治」なんてそんなに珍しい名前ではない。でも、二歳年下だった「弟」と同じ名前の高校一年生がそんなにたくさんいるはずもない。自分が小学校に上がる準備のために何度も何度も書いていたことのある「野田」という「漢字の姿」が特別なものとして目に飛び込んできたのだ。
その瞬間から、菊池美咲は今までとは全く違う気持ちで大会を向かえることになってしまった。中学校の時からずっと、他のどんなことも忘れてしまえるように全力でやり続けて来た陸上競技だった。高校三年生になり、最後の全道大会がここ花咲競技場で始まろうとしている。自分のこれからの人生に大きな記憶として残っていくはずのこの地元開催の大会が、単に陸上競技の大会だけではないものに変わろうとしている予感がし始めた。
もしも、あの野田賢治が……「自分の弟」が、岩内から札幌の高校に進学していたとしても、それはそんなにおかしなことではない。ただ、札幌の南ヶ丘高校といえばだれもが認める超難関校であることに驚きを感じてはいた。でもそれだって、公認会計士をしている母の血をひいていることだし、少しだけ聞いて知っていた野田家の力をもってすれば、それほど難しいことではないのかもしれない。
だから、もしかすると……。
大会前日の公式練習日にはトラックに降り、フィールドを歩き回って札幌南ヶ丘高校の選手たちを探してみたが、ジヤージーやウインドブレーカー姿から校名のネームは見つけられなかった。南ヶ丘高校は陸上では名門校とも強豪校とも言えない学校なので、今までに一緒に競技した選手もいなかったし、どんなユニフォームなのかもわからずじまいだった。
大会初日。
自分の出場種目である七種競技は二日目から開始するように組まれていたので、弟かもしれない「野田賢治」がエントリーされている400メートルリレーの予選を熱心に目で追った。南ヶ丘は5レース目に登場する。彼は補欠を入れた選手名簿の中で唯一、一年生でエントリーされていた。この野田賢治は出場するのだろうか。一年生なので出場しないことの方が多いだろう。それでもなんだか妙に気になってしまって朝の練習の時からずっと南ヶ丘のリレーチームを追いかけた。
母は中学生の時からかならず試合の応援に来てくれている。高校最後の全道大会が地元の旭川で行われるのだし、今回も必ず来るに決まっている。妹の美穂も一緒に来るに違いなかった。大会のたびにプログラムを買って私の競技以外の記録も記入しては、後々の話題にしてきた母なのだから、きっと「野田賢治」の名前を発見するに違いない。そして当然、母も南ヶ丘のリレーに注目するだろう。
……いや、それでも、今日の予選を通過しなければ明日の準決勝には進めないのだから、母が来る明日は出場しないことになる。今になって母がまたつらい思いで頭を悩ますくらいなら、知らないまま、気づかないままの方がいいのかもしれない。
10年以上も離れて生きてきた自分の息子に会いたくないわけはない。でも今ここで親子の対面をすることがたがいの幸せにつながるのだろうか。いや、どっちにしても……自分自身は、この野田賢治なる生徒がどんな子なのかを見極めずにはいられない。
5組目のレースが始まる。出場チーム名がコールされた。「3レーン札幌南ヶ丘高校」というアナウンスに合わせ、各地点の選手のナンバーカードを目で追った。すると、なんと一年生の野田賢治は第四走、アンカーとして出場していたのだ。これはきっと、かなりの力を持っているに違いない。2走の大迫という選手は去年から全国大会に出場していたので名前を知っていた。その3年生を二走に使えるほどの力と認められているのだろうか。自分の母校のリレーチームは地区大会で敗れたが、アンカーは三年生のエースが走っている。
スタンドの最前列まで下りて、鉄柵から身を乗り出すようにして100メートルのスタート地点あたりにいる3レーンの走者を探した。薄いブルーに白いラインの入ったユニフォーム。紺色の短パンから筋肉質の太腿が見える大柄な選手が、自分の走路にマークのテープを貼っているところだった。後ろ向きのままだったが、髪の毛は短く、肩の筋肉が随分と盛り上がっているのが分かった。自分が知っている陸上競技の高校生たちとは違った体格をしている。
号砲とともに第一走者がスタートした。3レーンの小柄な選手は抜群の飛び出しを見せたが、カーブを抜けるころにはかなり遅れを取っていることが分かった。それでも、第二走者へのバトンパスは見事に決まり、バックストレートを加速していく南ヶ丘の選手は素晴らしい走りを見せている。あれが大迫選手に違いない。前を走る各高校もさすがに全道大会に出場するチームらしく、大きく差は縮まらないまま第三走者にバトンが繋がれた。3レーンの南ヶ丘は3番目くらいでバトンが渡ったのだが、第三走者のスタートが遅かったらしく、この区間でスピードがぐんと落ちたのがはっきりとわかった。
コーナーを回る選手たちの体の傾きが大きくなり、アンカーたちがそれぞれのレーンでスタートの構えに入った。ここまでくると各レーンの走行距離に差はなくなり、ほとんど同じ位置でバトンを受け取ることになるのでその差がはっきりとわかるようになった。うまくスピードに乗れないままバトンを受け取った南ヶ丘の第三走者は、力いっぱいの腕振りがかえって力みを強くしてしまっているようで、アンカーの選手にバトンが渡った時には5番手から6番手に落ちてしまっていた。各組二着取りのレースなので、準決勝進出はかなり難しそうだ。
そして、いよいよ南ヶ丘のアンカーが目の前に近づいてきた。ナンバーカードをもう一度しっかり確認した。やはり彼が野田賢治であることは間違いない。スタンド最前列の鉄柵から身を乗り出し、各校の応援団に混じってずっとアンカーの顔を見つめ続けた。一年生としてはかなり体格の良い筋肉質の選手が、大きく腕を振り力感たっぷりの走りでこちらに向かってくる。何としてでも前の選手を抜いてやるという気持ちをめいっぱいに爆発させたような走りをしている。隣に並んだ何人かが「ノダ―!」「ノダケーン!」と大声で叫んでいる。
菊池美咲は「ノダケン」という言葉に聞き覚えがあった。岩内で暮らしていたころのわずかな記憶の中で、いつも可愛がってくれていた祖父が周囲の人たちにそう呼ばれていたはずだった。やってくる人たちが皆、「ノダケン」「ノダケンさん」と祖父を呼んでいた……。
剣道と書道を教えてもらっていた時にも周りのみんながそう呼んでいた祖父の名前だった。その言葉の響きが頭の中にしっかりと残っていたのだ。
そんな思い出とともに、体中の力を振り絞るようにこちらに向かって走って来る野田賢治を見ていても、あの頃の「弟」の面影をたどることはできなかった。
母と旭川の祖父に連れられて岩内の家を後にしたあの別れの時……。……窓に顔をくっつけてずっとこっちを見続けていた弟を……まだ5歳にもなっていなかった弟を、この力いっぱいの顔からはどうしても想像することができなかった。
3レーンを走り抜けた南ヶ丘高校のアンカー野田賢治は後半かなりの追い込みを見せた。順位を4番手まで上げ3番手の選手に肉薄する走りを見せたのだが、さすがに予選突破はかなわなかった。南ヶ丘の応援生徒が落胆の声を上げている。ゴール後も長い距離を走ってから立ち止まった野田賢治の後ろ姿に何人かの生徒が拍手を送っていた。
菊池美咲は隣で応援していた南ヶ丘高校の生徒達の一人に、思い切って声をかけてみた。走り終えた野田賢治の後ろ姿をいつまでも追いかけていた彼女は、体中の声を振り絞り、自分の力を出し切ってしまったように下を向いたところだった。
「あのアンカーの子って一年生なの?」
「はいっ……?!」
彼女は驚いて顔を上げ、体ごとこちらを向いた。
「あっ、突然ごめん。ちょっと知り合いの子かと思って」
「野田君ですか?」
川相智子の後ろから山野沙希が顔を出し、警戒感をあらわにした言い方をした。
「野田賢治君……だよね?」
「そうですけど、何か? 知り合いなんですか?」
不機嫌にも聞こえる山野沙希の言葉にかまわずに質問を続けた。
「もしかして、野田君って……、岩内町の出身じゃない?」
「そうですよ。岩内から南ヶ丘に来たんですけど、……何か?」
「やっぱり! そう、やっぱりそうだった! いや、あの、私も前に岩内に住んでいたことがあるんで、もしかしたらと思って……」
「知り合いの方なんですか……そうなんですか。」
山野沙希がウインドブレーカーの高校名を探している。
「あらー! 菊池さんじゃない? 菊池美咲さんでしょう! あれれっ、あんたたち一緒にリレーの応援してたの?」
ゴール横の階段を上ってくる途中で嬉しそうに大きな声で呼びかけたのは、清嶺高校の上野悦子先生だった。上野先生には去年の国体で北海道選手団の女子選手の面倒を見ていただいた。初めて会った選手ばかりなのにいつも笑顔で、誰もが気楽に振舞えるように接してくれたので、みんなはリラックスして試合に臨めたのだ。私にとっては同じ種目の大先輩でもあったので、本当に多くのことを学ばせてもらった先生だった。
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