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第31話 第二部 2・誰もがみな悲しみを抱えて生きている
しおりを挟む「野田」
ハーフパンツにポロシャツ姿の憲輔さんが現れた。さっきまでとは違う格好に着替えていた。ちょっと大人っぽく見える。
「親父の話なんか半分は作り話だからな、本気にしてもだめだぞ」
鼻の下に少し髭を生やした憲輔さんは学校の先輩というより、親戚のおじさんのような話しっぷりだった。
「うちの祖父の話は本当のようです」
「いやいや、それはな、親父の祖父さんの伝説みたいなものなんだ」
「伝説ですか」
「そう、筑豊からやってきたなんてのも、本当かどうかわからないらしい。それに、何の理由で生き死にの場面になったのかも、あとから脚色したことが多いみたいだぞ。親父が言っていることと、おじさんたちが言ってることはだいぶ食い違ってるみたいだし……。あんまり信じすぎないことだ」
「うちの祖父と曽祖父がノダケンと呼ばれていたのは確かなことです」
「『ノダケン』さんは確かに関わっているらしいけど、勝手に良いように名前を使わせてもらってるだけじゃないのかなあ。あの親父を見てたらわかるけど、ひい爺さんだってそんなに劇的な人生送ってるようには思えないんだ。結構良いとこのせがれでさ、山野の家に婿として入ってきたらしいからな」
「うちの祖父や曾祖父が関係していることは間違いないみたいです」
「あー、そうだよなー。おまえんとことうちとが古くから縁があったってことは確かだからな。なんかよ、不思議な縁があるもんだな……、古い言い方だとさ『世間は狭い』って言う人もいるんだろうけどよ、なんか、ちょっと予想できねえよな。不思議なもんだよな……」
「野田君の家、網元だったんだって?」
沙希がやって来てそう聞いた。
「いやー、それはもう昔々の話で、祖父の時代に水産加工の会社に変わったようです。」
「網元っていったら、地主みたいなもんでしょ。かなり有名な家だったんだ」
「いやー、岩内の網元はあまり大きくなくって、かえって、岩内以外の今じゃ小さな町になってしまったところにあった網元の方が大きくて有名だったらしいです。もちろん小樽とかの大名のような網元とは比べられないし、余市の福原さんや、そのほか積丹半島にあった網元たちや寿都や歌棄の網元たちはソーラン節なんかにも歌われるくらいの力があったらしいです。」
「福原さんって聞いたことあるな。寿都とか歌棄ってのも有名だよな」
憲輔さんの言葉にすかさず紗季が付け加えた。
「おかあさんがいた頃、余市に見学に行ったことあったよ。ニシン漁の写真いっぱい飾ってあったんじゃないかなあ。ほら、あの木でできたリュック? 背負子って言ったっけ? ん、ああっ、『モッコ』って言ってたよ、確か」
「ああ、そうだそうだ。紗季はよく覚えてんなそんなことまで。そう言えば白黒の写真がいっぱいあってさ、女の人たちがそれにニシン入れて運んでたよな」
「余市の方がニシン漁は岩内よりもっと大々的にやっていたみたいですから。そっちの家は本物の実力者だけど、うちは網元って言っても岩内の中だけ。岩内はどっちかって言うと、もともと漁よりも加工の方が中心だったそうだから、うちの場合はニシン漁で大々的に力を発揮してたっていうより町の有力者だったということらしいです。ただ、岩内って町は港も大きかったし、鉄道もあったから、お祭りだとか興業なんかが結構多くて、そっちの面では顔役だったみたいです。だから、漁業以外の力関係の調整役としてはずいぶん大きな力を持ってたみたいですよ。もしかすると、やくざとは言わないけど、それに近い組織だったかもしれないです。そっちの方にはずいぶん顔が利いたみたいだから。」
「どうりで、おまえはその血をしっかり引いてるわけだ」
「いや! やくざじゃないですよ!」
「そうじゃなくて、度胸があるってことさ」
ペットボトルをぶら下げた中川健太郎を「健太郎」と呼び留めたのは沙希だった。
「健太郎、全市の決勝で負けた理由考えた」
中川健太郎は全市大会の決勝で目の前の三人グループを抜けば3位入賞というところまでいったのだが、結局1メートル前の三人が抜けなくて、表彰台を逃していた。
「どうしてあんな目の前にいる相手を抜こうとしないかな! 何とでもなったでしょう!」
「いや、あそこまで、めいっぱい」
「うそだよ。気持ち次第であんなの1メートルもなかったでしょう」
「無理」
「そこが健太郎のだめなとこだよね!きっと計算してたって言いたいんでしょうけど、計算じゃ解決できないことだってあるでしょ。99パーセントの力使い尽くしたって、残り1パーセントは気持ち次第でなんとでもなるでしょう」
「自分の力、自分が1番わかる。限界」
「たまには限界以上にチャレンジしてみれば。いつもいつも、安全圏ばかりにいたら相変わらずのひ弱なお坊ちゃまにしかなれないでしょ。」
「健太郎の生き方ってのもあるんだから良いじゃないか。沙希とは違うんだから」
「違うから気になるんじゃない!」
山野沙希が僕の方を見て言った。
「そうでしょ、野田君だったら、後先考えたりしないで絶対抜いてしまうよね」
山野兄弟と健太郎とはずいぶんと前から親戚づきあいのような関係にあるらしい。小学校も中学校も同じで、義務教育9年間のうち5回も同級生だったのだという。だから、こんな会話はいつものことなのだ。
「僕は、あんまり考えてないから。その時の感覚次第で、あんまりわかってないんです」
「野田、おまえ逆立ち得意だったよな。」
「いや得意ってわけじゃないですけど、人以上にはできるはずです」
「健太郎は? 逆立ちしたことあるか?」
「ない」
「1度も?」
「うん」
「やってみようと思ったことは?」
「ない」
「できないことが悔しいと思ったことない?」
「できない、ものは、しょうがない」
「やってみなきゃわかんないでしょ」
「野田、おまえ健太郎に逆立ちの仕方教えてやってくれ」
「やり方も何もないですよ。練習すればできるようになるもんです。教えるようなことじゃないですよ」
「いや、それはねおまえ、それこそできるやつの言葉でな、できない俺たちにはよ、とっても馬鹿にされた気持ちになるんだって」
「いや、そういう意味じゃないんですけど……」
「うまくできるようになるためのポイントってあるだろうやっぱり」
「あるかなあ。それより、腕立て何回できる?」
「……10回くらい」
「まさか。20や30くらいいくだろう!」
「いかない」
「やろうとしなきゃいかないよ。私だって30くらいはできるよ」
「そーだなー、壁の前でさ、そのー、壁に足つけて、手のひらをべったり地面に吸い付けるようにして倒立するんだ。そして、だんだん壁に近づいていって、壁と平行くらいになるように倒立できれば、そのうちに足も離せるし、歩けるようになるよ。ポイントは肩を入れるってことかな」
「肩を入れるって?」
彼女は専門的なことや独特な用語にはすぐに反応する。
「うーん、うまく説明できないけど、腕と肩が一直線になるっていうか、体重がしっかり両肩に乗ってしまえばコントロールできる」
「何で、逆立ちなのさ」
健太郎はいやな顔をしどうしだ。
「体全体のバランスさ」
憲輔の言葉に沙希がうなずいた。
「良いよ、そんなの」
「健太郎は自分がやろうと思ったこと以外でも努力し始めたら、なんでも強くなると思う。けどおまえは、自分で考えたこと以外はやろうとしないからな」
「野田は、パワーで。僕は、計算で。それで良い」
「そんなことないって、計算されないことをやってみるから新しいことができるようになるんだし、発見だってあるだろう。おまえのは、実証検分ばっかりじゃないか。挑戦はないのか」
「できることを繰り返してると、そのうち、できないこともできるようになる」
「あと少しで表彰台ってわかってたのに、どうして抜こうとしなかったの?」
沙希がまたその話で健太郎を問い詰めた。
「抜けない、と思った」
「どうして抜けないと思った?」
「計算、できなかった」
「なんの計算? ラップの数字?」
「沙希、もうやめろ。1番悔しいのは健太郎なんだ。」
「そう?」
「そうだ。お前だって悔しかったから、そんなにしつこく言うんだろう? それはみんなわかってるから。お前たちはまだ1年生なんだし、これだけの成績残してることの方が不思議なんだぞ。」
「だって、表彰台に乗れるか乗れないかじゃ、全然価値が違うよ」
「大迫と3年間一緒に陸上やって来て、俺は1度も表彰台には届かなかった。大迫は毎回表彰台のてっぺんに立つし、全国大会にも出場してる。悔しいけどそれだけじゃない。沙希に言わせるときっと、負け惜しみみたいにとってしまうだろうけど、そうでもないんだ」
「……」
「大迫勇也というすごい選手と三年間一緒に練習できた。そして、今年はリレーで全道大会まで出場できる。野田のようなパワフルな後輩が出来た。沙希も高校で戦えるようになってきた。那須川のように天才的なランナーとも一緒に走れたんだ。こんなすばらしい経験なんか、願っても叶わない人がほとんどなんだぞ。幸せだと思わないか?」
「……」
「僕は、わかります」
学校や競技場で見る憲輔さんからは想像できない優しさを感じて、思わず口を挟んでしまった。山野沙希は憲輔さんの優しさの中で生きてきたことがわかった。本物の兄妹という存在を知らない僕が本当にうらやましくなるのは、こうやって本気で言い合える存在がいることだった。母の違う弟と妹をかわいがる思いも、血のつながりを大切にする気持も強くあるけれど、一緒に生活すると距離の違いがどうしても大きな壁になってしまっていた。小学校に入学したばかりの弟とまだ四歳の妹になにが話せるだろうか。
山野沙希が、これまで誰よりも強気で負けず嫌いを通してこられたのも、憲輔という兄の存在があるからだろう。なんにでも疑問を感じては自分の思いをぶつけている女の子を創り上げたのは、最後にはちゃんとフォローしてくれる兄、憲輔だったに違いない。自分は、弟や妹に対してこんな素敵な存在になれはしないだろう。
丹野のばあさんが語った長い話はその日の夕食後のことだった。
山野紗季と憲輔兄妹の母は交通事故で亡くなっていたのだ。
兄の憲輔が小学校の修学旅行に出かけ、小学校4年生の妹紗希は授業中の出来事だった。兄弟の祖母に当たる義母を乗せてバラ園に出かけた帰り道だったという。嫁と姑という関係にもかかわらず本当の母娘以上に仲の良かった二人は一緒に出掛けることが多く、病院を空けられない夫に代わって、なんでも一緒に行動するような本当にやさしい嫁だったのだと、丹野のばあさんは涙ぐんでいた。
旅行先の旭山動物園で事故を知らされた憲輔は、札幌へ向かう車の中で付き添いの先生が何とか気を晴らそうといろいろなことを話しかけても一言も言葉を発しなかった。授業中に知らせを受けて病院に向かった紗希は、すでに顔に白い布をかぶせられた母と祖母を見ることもできず、うなだれている父の背中を見つめて泣き続けていたという。
藻岩山の麓を回る環状線を走行中に、緩い右カーブを曲がり切れずに中央車線をはみだしてきたコンテナ車が二人を乗せた乗用車に衝突したのだ。足の悪かった義母が乗り降りしやすいようにと選んだ小型のワンボックスカーは、コンテナ車の重量を受け止められずに原形をとどめないほどの大破だった。
それから6年がたつ。山野兄弟は優しさに満ちた母親と祖母への思いを誰にも話すことなく、自分たちでなんでも解決してきたのだという。父親の山野院長は、事故のあった日と同じく患者への対応と病院経営に没頭していた。二人の兄弟たちは、そんな父の負担にならないことを考えて自分たちだけですべてのことを解決してきたのだ。再婚を勧める人も多かったのだが山野院長は全くそんなことを考えなかった。病院のスタッフの間でも、近所の住民の間でも、二人の兄妹の強さが大きく話題になっていたのだという。
山野憲輔の妹を第一に考える気持ちと、負けないことを自分に命じて生きているような山野紗希の姿が想像できた。そして、二人とも南ヶ丘に進学した。
珍しく食後の片付けをすることもなく話し続ける丹野のばあさんは目に涙をためている。
「あの日にね、私が一緒に行っていればぁ、何もなかったかもしれないんですぅ。それがね、もう残念で残念で、もう、忘れられません……」
あの日仲の良かった山野さんの祖母に誘われ、丹野さんも車に同乗する予定だった。ところが前の日に腰を痛めて動けなくなってしまったのだという。そして、その日山野兄弟の母は丹野さんを病院まで運んだ後にバラ園へと出かけたのだ。もしも病院に寄らずに予定通りの時間に出発していたら、この事故は起こらなかった。事故が起きた時、丹野さんは山鼻整形外科で治療を受けていたのだ。そして事故車の中から丹野さんに買った土産の品が見つかった。丹野さんは今でも、自分が起こしてしまった事故だと思っている。
毎朝ローソクを灯し線香をあげるのを欠かさない丹野家の仏壇には、ご主人の遺影だけでなく、年配の女性とその娘と思われる小さな写真が飾られている。それは山野兄妹の祖母と母のものだったのだ。
大人だろうと子供だろうと、誰もが悲しみを抱えて生きている。ただ、そのことを語ろうとする人は少なく、軽々しく表に出す人はいない。そして、皆その悲しみを忘れることなどなく、悲しみの上にちゃんと立ち上がって今を生きているのだ。
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