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壱
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関東、東北の境目に神蔵という集落がある。
山村が多いその周辺では最も栄えている。
神蔵では代々、同じ名を冠した一族が長を勤める。
隆盛極む 日ノ 本なる国に、今もなお息づく、古の神の事語り。
その日、 尾上 岬は十二歳の誕生日をいくつか越えた日だった。
両親は彼を「御山の御殿」に連れ出した。
神蔵の集落を見下ろす、平屋の大邸宅を人々はそう呼んでいた。
「神蔵の人間は、十二歳になったら御当主様にご挨拶するのよ」
岬の母は嬉しげに岬の髪を梳った。
御殿に集められた子供は十数人いて、神蔵では見覚えのない子供もいくつかあった。父によると、村外で生まれた子供たちらしい。
「父さんも、母さんも、六歳になったら御当主様にご挨拶した。岬は運が良いぞ。 今代様がお生まれになっているからな」
「そうなの?」
「会えばわかる」
父も母も周りの大人も皆嬉しげで、子供たちはまだ戸惑うばかり。それでも普段、遠目にしか見ることのない御殿の、何十畳とある大広間に通されれば、そこが非日常の場であることだけはひしひしと感じた。
岬を始めとした子供たちは下座に、親たちはその両脇に。青い畳の香りが岬の鼻をくすぐった。
夏でありながら、子供たちは礼服をまとっていた。あるものは洋服、あるものは和服を。
岬は紺色の長ズボンに半袖の白いシャツ、首元は品の良い臙脂のループタイ。洒落者の祖父の遺品だ。小さな琥珀が真鍮の金具で止められている。胸元でとろりとした蜜色が白シャツに映え、光の加減で濃くも淡くも見えた。
岬は上座から見て、最前列の左端に座らされていた。岬の子供隣は洋装だったが、膝丈のズボンや蝶ネクタイがいかにも子供じみていた。
事前に、岬が両親から言い含められたのは三つ。
御当主様の入場と退場では深くお辞儀をし、姿を見ないこと。
一人一人が名前を呼ばれ、「お目通り」をするまで動かないこと。
名前を呼ばれたら一声返し、「お目通り」では御当主様に少しだけ目線を合わせたら、すぐにまたお辞儀をし続けること。
子供たちからは何も言ったり、することはないのだという。
変な行事だ、と思ったが、岬や子供たちは大広間でお辞儀をしてその時を待った。
大広間の上座は一段高くしつらえてあり、紫紺色の立派な座布団がひとつだけ敷いてあった。そこに御当主様が座るのだろう。
「御当主様、ならびに今代様がおいでです」
まるでテレビで見た時代劇そのものだ。両手をついて、お尻が浮かないように注意しながら頭を垂れ、青い畳の筋を間近で見た。
ひたり。
ひたり。
岬のすぐ左脇で足音と衣擦れの音がした。
恐らく、御当主様だろうな、と岬は察した。お辞儀をしていても、自分のそばを着物を着た誰かが通りすぎ、あの座布団に着座した気配を感じることができた。
わずかな時を置いてから、「神蔵出身、尾上が長子、岬」と誰かの声が呼んだ。
「はい」
岬はそっと、なるべく優雅に見えるように、頭を上げた。
その時はほんの僅かのはずなのに、無限に長く感じた。
上座には、壮年の男性と、その腕に抱かれた幼子が見えた。
男性は岬の父と同じほどで着物を着ていることから、かれが御当主様なのだとは知れる。それよりも、大事そうに抱いている幼子に岬は視線が吸い込まれた。
年は、六つか七つ。髪はしっとりと黒く、まろい頬は薄紅色がさし、それ以外の部分はは豪華な絹の着物に埋もれていた。藍色の地に吉祥柄、宝づくし、金の刺繍や鹿の子絞りが散りばめられた、幼子の装束には華美なもの。しかし、それより岬の目を奪うのは、幼子の瞳だった。
幼子は顔だちが恐ろしく美しいのに、幼さが一切見えない瞳をしていた。
無垢というよりは、虚ろ。
生の喜びに満ちてもおかしくない赤児の瞳はただ前を見る、真っ黒い宝石だった。
その一対が、岬を捉えた。
刹那、
「!」
岬の躯を何かが駆け抜けた。電流、そんな生やさしいものではない。
歓喜だ。
(ああ、この子、この方が……!)
両親が、集落の人々が待ち焦がれていた、今代様。
今代様がお生まれになった時、岬も幼かったが、集落じゅうが大騒ぎになったことは覚えていた。
かの名前も聞いたことがある。直に仕える者でなければ呼ぶことも許されないが、その誕生した折りに神蔵に住む全員が名前を伝えられる。
今、その名を宿された幼子が目の前に座しているのだ。
神蔵に降り立った、 現人神。この地に住むすべての者らのあるじ。
(今代様、庚様……!)
脳から脊椎、つま先まで一瞬で駆け抜けた喜び。
ぞくぞくと、いっそみだらなまでの衝撃は岬の、幼いばかりの魂を貫き、隷属の喜びをつきつける。
集落を統べる神蔵の当主に従うことは、神蔵の集落に住む者としては当然である。
しかし、何十何百年かに一度生まれる「今代様」こそが、真の主。
今代様にお仕えすることは、何よりの喜びなのだ。
岬が一瞬にも満たない間で、仕えるべき主を見いだした時、幼子にも変化があった。
当主の腕に抱かれ、息をしているのかしていないのか、ひそやかすぎるほど生の気配のなかった幼子がしっかりと岬を目に捉え、無言で腕を動かしたのである。
求めるように、岬に向けて。
「ほぅ」
声をあげたのは当主だった。はっと岬が幼子から目線を引きはがし、慌てて頭を下げるようとすると、「待ちなさい」と」声がかかった。
「一人目にして、もう見つけたのかね。今代」
腕の中で、ぴくりとも動かなかった幼子が、もそもそと小さな体を動かし、岬を求める様を当主は微笑ましく見下ろした。
幼子は明らかに変容していた。それまでは精巧な人形のようでしかなかったのに、岬を見つけてからは生気を持ち、自らの意思を持っているように見えた。
「尾上岬」
「は、はい」
「おまえは今代に仕えなさい。神蔵の者のあるべき姿として、今代の望み、喜びをすべて叶えるように」
「……はい!」
その日より、岬は両親の住む家から、御山の御殿に住まうよう命じられた。
山村が多いその周辺では最も栄えている。
神蔵では代々、同じ名を冠した一族が長を勤める。
隆盛極む 日ノ 本なる国に、今もなお息づく、古の神の事語り。
その日、 尾上 岬は十二歳の誕生日をいくつか越えた日だった。
両親は彼を「御山の御殿」に連れ出した。
神蔵の集落を見下ろす、平屋の大邸宅を人々はそう呼んでいた。
「神蔵の人間は、十二歳になったら御当主様にご挨拶するのよ」
岬の母は嬉しげに岬の髪を梳った。
御殿に集められた子供は十数人いて、神蔵では見覚えのない子供もいくつかあった。父によると、村外で生まれた子供たちらしい。
「父さんも、母さんも、六歳になったら御当主様にご挨拶した。岬は運が良いぞ。 今代様がお生まれになっているからな」
「そうなの?」
「会えばわかる」
父も母も周りの大人も皆嬉しげで、子供たちはまだ戸惑うばかり。それでも普段、遠目にしか見ることのない御殿の、何十畳とある大広間に通されれば、そこが非日常の場であることだけはひしひしと感じた。
岬を始めとした子供たちは下座に、親たちはその両脇に。青い畳の香りが岬の鼻をくすぐった。
夏でありながら、子供たちは礼服をまとっていた。あるものは洋服、あるものは和服を。
岬は紺色の長ズボンに半袖の白いシャツ、首元は品の良い臙脂のループタイ。洒落者の祖父の遺品だ。小さな琥珀が真鍮の金具で止められている。胸元でとろりとした蜜色が白シャツに映え、光の加減で濃くも淡くも見えた。
岬は上座から見て、最前列の左端に座らされていた。岬の子供隣は洋装だったが、膝丈のズボンや蝶ネクタイがいかにも子供じみていた。
事前に、岬が両親から言い含められたのは三つ。
御当主様の入場と退場では深くお辞儀をし、姿を見ないこと。
一人一人が名前を呼ばれ、「お目通り」をするまで動かないこと。
名前を呼ばれたら一声返し、「お目通り」では御当主様に少しだけ目線を合わせたら、すぐにまたお辞儀をし続けること。
子供たちからは何も言ったり、することはないのだという。
変な行事だ、と思ったが、岬や子供たちは大広間でお辞儀をしてその時を待った。
大広間の上座は一段高くしつらえてあり、紫紺色の立派な座布団がひとつだけ敷いてあった。そこに御当主様が座るのだろう。
「御当主様、ならびに今代様がおいでです」
まるでテレビで見た時代劇そのものだ。両手をついて、お尻が浮かないように注意しながら頭を垂れ、青い畳の筋を間近で見た。
ひたり。
ひたり。
岬のすぐ左脇で足音と衣擦れの音がした。
恐らく、御当主様だろうな、と岬は察した。お辞儀をしていても、自分のそばを着物を着た誰かが通りすぎ、あの座布団に着座した気配を感じることができた。
わずかな時を置いてから、「神蔵出身、尾上が長子、岬」と誰かの声が呼んだ。
「はい」
岬はそっと、なるべく優雅に見えるように、頭を上げた。
その時はほんの僅かのはずなのに、無限に長く感じた。
上座には、壮年の男性と、その腕に抱かれた幼子が見えた。
男性は岬の父と同じほどで着物を着ていることから、かれが御当主様なのだとは知れる。それよりも、大事そうに抱いている幼子に岬は視線が吸い込まれた。
年は、六つか七つ。髪はしっとりと黒く、まろい頬は薄紅色がさし、それ以外の部分はは豪華な絹の着物に埋もれていた。藍色の地に吉祥柄、宝づくし、金の刺繍や鹿の子絞りが散りばめられた、幼子の装束には華美なもの。しかし、それより岬の目を奪うのは、幼子の瞳だった。
幼子は顔だちが恐ろしく美しいのに、幼さが一切見えない瞳をしていた。
無垢というよりは、虚ろ。
生の喜びに満ちてもおかしくない赤児の瞳はただ前を見る、真っ黒い宝石だった。
その一対が、岬を捉えた。
刹那、
「!」
岬の躯を何かが駆け抜けた。電流、そんな生やさしいものではない。
歓喜だ。
(ああ、この子、この方が……!)
両親が、集落の人々が待ち焦がれていた、今代様。
今代様がお生まれになった時、岬も幼かったが、集落じゅうが大騒ぎになったことは覚えていた。
かの名前も聞いたことがある。直に仕える者でなければ呼ぶことも許されないが、その誕生した折りに神蔵に住む全員が名前を伝えられる。
今、その名を宿された幼子が目の前に座しているのだ。
神蔵に降り立った、 現人神。この地に住むすべての者らのあるじ。
(今代様、庚様……!)
脳から脊椎、つま先まで一瞬で駆け抜けた喜び。
ぞくぞくと、いっそみだらなまでの衝撃は岬の、幼いばかりの魂を貫き、隷属の喜びをつきつける。
集落を統べる神蔵の当主に従うことは、神蔵の集落に住む者としては当然である。
しかし、何十何百年かに一度生まれる「今代様」こそが、真の主。
今代様にお仕えすることは、何よりの喜びなのだ。
岬が一瞬にも満たない間で、仕えるべき主を見いだした時、幼子にも変化があった。
当主の腕に抱かれ、息をしているのかしていないのか、ひそやかすぎるほど生の気配のなかった幼子がしっかりと岬を目に捉え、無言で腕を動かしたのである。
求めるように、岬に向けて。
「ほぅ」
声をあげたのは当主だった。はっと岬が幼子から目線を引きはがし、慌てて頭を下げるようとすると、「待ちなさい」と」声がかかった。
「一人目にして、もう見つけたのかね。今代」
腕の中で、ぴくりとも動かなかった幼子が、もそもそと小さな体を動かし、岬を求める様を当主は微笑ましく見下ろした。
幼子は明らかに変容していた。それまでは精巧な人形のようでしかなかったのに、岬を見つけてからは生気を持ち、自らの意思を持っているように見えた。
「尾上岬」
「は、はい」
「おまえは今代に仕えなさい。神蔵の者のあるべき姿として、今代の望み、喜びをすべて叶えるように」
「……はい!」
その日より、岬は両親の住む家から、御山の御殿に住まうよう命じられた。
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