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精神科よりこんにちは
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普段、健康な人ならまず体験することのないお話しです。タイトルにもつけた「精神科よりこんにちは」は、僕自身体験したお話しです。病院に行けばたいていの人は「内科」もしくは「外科」などなどの普通の外来でお世話になる方がほとんどだと僕は思うがごく一部の人がお世話になる外来…。それは精神科だ。最近は、「精神科」とは言わず心療内科とか神経科などなどと言われおどろおどろしいイメージを抱かせないように呼び名も変化してきた科目である。…が、実際は呼び名が変わっただけで閉鎖的で暗く、選ばれし人達のための外来…。それが精神科なのだ。表現的に引っかかるといけないのでオブラートに包み表現すれば…この世の中に産まれてきた異常者、社会に適さない弱者、などなど…。私も、その社会に適さない1人の代弁者としてこの文章を書いる。
皆さんはまず自分は大丈夫!と思ってないであろうか?まさか自分がそんな異世界の住人になるなどありえないなどと勘違いしてないだろうか?。それは誰にも言えることで些細な事でこの文章を読んでるあなたにもその素質はあるのかも。人は、そんなに強くない。もろい砂でできた人型であり、鋼鉄の心理を持ってる人は、どこにもいないのである。それが現実世界だ。
だいたい正常心理の境界線とは何を持って正常と表現するのか?あなたがもし私は大丈夫と言って生活を送っていてもそれはあなたが勝手に自分は大丈夫と言いながら生活してるだけかもしれない。かっての僕のように…。
僕は、あることがきっかけで「精神科」にお世話になることになった。それは離婚をきっかけにして始まったことだ。それまではなんの異常もなく精神的にも何ら問題のない落ち着いた状態だった…。また、幸せでもあった。しかし、その幸せは長く続かずに終わりをむかえ、そこらへんから精神的に落ち着かない状態が始まった。やる気は出ないし過呼吸を起こすし自殺などを常に考えている病んだ状態だった。「自殺」のことを考えるのは非常に苦しい事で、親にも、今の妻にも非常に迷惑をかけてしまった…。そのことを考えないようにお酒の力を借りてなんとか一日一日を乗り越えていたように思う…。あの時はほとんどアル中状態だったように思われ、あまりにも飲酒の量が多すぎて家族も自分もおかしいなと思い初めて「精神科」に行くことになったが最初は心療内科に行くことさえ抵抗があった…。が、そこはもう命にはかえられないと思いいやいやではあったが「精神科」に行く決心を持ちこのときが初めての通院だった。その病院はちょっと小綺麗なクリニックだったことは覚えている。そこで約半年くらいお世話になったが、いろんな人々が患者さんとして居た。何かを小言で訴えている人、椅子に座らずあぐらをして瞑想している人、壁に向かって何か会話している人、半分白目を向いてカクカクと身体全体を揺らしている人、もう言い出したら止まらないくらいカオスな人々…今の妻と一緒にそのクリニックへ診察に行くのがデートの中に組み込まれてたので僕もたいがい酷い患者で恋人だった…。ついてくる妻も根性と気合いで一緒に待ち合い室まで来てくれていたが、僕の診察が終わって待ち合いに行くと何かのオブジェのように固まっていたのを思い出した…。一応一言添えるなら妻は「精神科」と言う世界を全く知らない人間だったのでどう対処すれば良いのか分からなかったみたいだった。今では僕の症状と感じを理解してくれる良き妻として、今現在偶然にも「精神科」の調理師をしているがやはりヤバイ人も中には居るらしく毎朝叫ぶ人が怖かったらしいのが不思議なものでなれると元気だなぁ今日も…と感じるくらいに肝がすわってしまいなんとも思わなくなったそうな…。
さて、話しが横道にそれてしまったが精神科の先生にも微妙な先生がいて、薬の調合が絶妙に上手い先生やらあなたはほんとに先生ですか?と疑いたくなるような先生まで幅広く居られたのを覚えている。最初の入院は兵庫県の某精神科専門病院の病院だった。入院するときは、まるで患者として見られない対応で、付き添ってくれた実の父はかなり怒り狂ってた。
何故かというと危険物は持ち込めないためのハードなチェックだったからだ。今から思うと結構精神的に来るハードなチェックだったように思う。ガラスのコップはダメ、髭剃り用のT字カミソリもダメ、あと紐のついた衣類もダメ…。何から何までダメだった。その病院には確か2~3回ほど入院したけどまるで人間扱いしない看護師、問題のある発言をする医者、などなどまるで家畜の世話をしに来てるような人達ばかりの問題病院だった。当然寛解することもなく、飲む拘束衣と言われた、非常に危険なバルビツール酸系薬などが簡単に処方されるような危険な病院だった。ここに居たら廃人になると思い確か3回目の退院後に紹介状を書いてもらい転院した。「精神科」はよく選んで入院しないと駄目だなと心底思った病院だった。
次にここは安全だろうと選んだのが入院設備が整った中規模より少し大きめな兵庫県の某病院に転院して通院を始めた。掃除の行き届いた綺麗な「精神科」だった…が、やはりこの病院にも人間的に問題ある先生が居た…。患者に暴言などは日常茶飯時ある問題のある病院だった。どこも変わらないなぁって思いながらぼーっと問題があるドクターの暴言を聞いていた。まだ若い女の人の患者さんで閉鎖病棟から開放病棟に変えて欲しいと必死に訴えているのに、その病院の先生と看護師は、「鬱陶しいねん!」「はよどっかに行け!」などなどの耳を疑う暴言をその女性にかけていた。普通の病院の訴えなら、そんな仕打ちは無いと思うが…。ここもどうやら同じみたいだなって遠くから見ていた。
しかし、救われた出来事もあった。僕の担当の主治医が謎の長期休暇になった。それに伴い人間として最低な医師に振り分けられそうになったとき、僕はその病棟のトップの師長に訴えた。「あのMという医師に主治医」を付けられるのは絶対に嫌だ。死んでも嫌です!と、師長に訴えると「このことは内緒にしておいてくださいね…私もあのM医師は大嫌いなんです。あなたがそれほど嫌と言われるのであれば…」その時、これ以上は言えないという顔をされて笑ってくださった。精神科の師長も感情があるんだなと思いうれしく思った。そして主治医と面接の日、僕だけ違う担当の主治医としてK医師がついてくれた。僕の言いたいこと、何を思っているかを丁寧に耳を傾けていただきうれしくなったことを思い出した。その病院には入退院を繰り返していたが今ではなんとか精神的に落ち着き家にて療養するところまで寛解したが季節的に中々落ち着かない季節もあった。
話しは、少し巻き戻すが最初の入院をした病院の話しだがとんでもない病院であった。精神科入院デビューしたのもこの病院。精神科っていろいろな事情を持って入って来られる方も多かったように思う。入れ墨が入った本職の人なんかはその代表で、刑務所に収監されるのが嫌で完全に頭がいかれたようにしていた人も何人かいた。夕食後の寝るまでの時間はその人たちが仕切る賭場になっていた。精神科に入院してひりつく勝負をしていたのはなんか変な感じだった。賭けるものは、現金は病棟で管理されていたので主な金品の変わりはタバコ一箱とか、朝食の食パン1枚とか…。そんな感じだったと思う。しかしこれがちょっとチンピラ級の人が賭場を開くと何故かトラブルが出る。普段ヤバい思考の人たちも素に戻るくらいにくらいつくと言うおかしな現象がよく見られた。あれは、おかしかった。チンピラさんも大量のいかれた人達には逆らえなかった…。
そうこうしてるうちに、就寝前の薬の時間がやってくる。これは僕にはとっても屈辱的だったのであるが、自分で薬を飲ましてもらえない。看護師のおっちゃんが「上向いて早う口開けい!」と怒鳴ってた。僕の順番が来たときは「自分で飲むので薬をください」と何度も訴えたが「駄目です、病院の決まりなので」の一点張り。仕方なしに悔しかったが椅子に座り薬を飲ませられた。その後小一時間ほどしたら、就寝の時間となる。しかし、ここからが精神科特有の事が、起こる。今では考えられない量の睡眠薬を飲ませられているにもかかわらず寝られない患者達がまるでゾンビのようにラリってフラフラとデイルームを徘徊。僕も徘徊してたように思う。夜勤の看護師のおっちゃん達は知らん顔してたけど、午前0時を回るとおもむろに大きく書かれた「頓服」という箱を出してきて患者を並ばせてた。僕は何が始まるのかな?と、見ていたら1人ずつ睡眠薬の追加をしてた。あれだけ飲ませてまだ飲ますか?と、驚きと何故か無性におかしくなってデイルームの端っこで笑ってた。すると夜中に笑ってる患者の僕を見て、手招きされ薬をさらに飲まそうとするので「いらないです!」と断ると、こっちに来いと言わんばかりに引っ張っていかれ何故か僕だけだと思うけど処置室に無理やり放り込まれうつ伏せで寝かされて尻に注射を打たれたことを思い出した。今から思えばなんてあらくたい処置だろうと思ったがその後解放されてから注射のおかげかまるで泥沼に吸い込まれるようにデイルームのテーブルに突っ伏してうとうととしたが部屋に強制連行され自分のベッドで寝るよう促されてそのまま朝まで寝てしまってた。朝と言っても明け方の4時か5時くらいには目は覚めてぼーっとしたけど…。
そんなこんなでぼーっとしてたら、全部屋一斉に放送があり、「只今より検温を始めます」と大きな声で何故か丁寧に放送があった。今から思えば聞かれるとまずい表現はダメだったのかな?外に聞こえるのが。
そして今ではほとんど使われない水銀の体温計を投げるように手渡され自分で検温。看護師のおっちゃんが「自分は何度や?」と、これまた患者に荒々しく聞いて回ってた。そして一通り患者の検温が済みしばらくすると、患者のおっさんが大きな声で「朝飯やぞ~!」と言うのが合図で皆んな一斉に順番に並ぶ…。僕もその一人として並ぶ。不思議なものでその時だけはヤバい患者からチンピラの患者まで行儀よく並ぶ…。思わず笑ってしまった。食う寝るは皆んな良くわかってるみたいだったと思う。朝の食事は菓子パンが一人三個と牛乳のパックが一個。だけど何故か何人かはパンが四つや二つの患者が居た。どうやら昨日の賭け事の精算とかタバコに化けるらしかった。夜勤の看護師も見て見ぬふりをしていた。朝食が終わると車椅子に拘束されてる患者以外はまた各々自分のベッドまで戻り、昼食まで虚ろな目でぼーっと何をするでもなく過ごす。
さて、僕は入院して間もないのでぼーっと過ごしてたら昼勤の看護師のおっちゃんに「検査があるのでこっちに来て!」と無理やり現実の世界に引き戻される。「なんの検査ですか?」と聞くと無視されある部屋まで連れて行かれた。
扉の上を見ると第一検査室と札が無機質な壁に掲げられていた。中に入るように促されるとそこには変な笑顔のちんちくりんのおっちゃん検査技師が一人ポツンと居て「大丈夫ですか?リラックスしてくださいね」とわけわからん説明を受けて歯医者にあるような電動式の椅子に座らせられた。「今から脳波の検査をするからね~」とのんびりした口調で説明?があった。「怖くないからじっとしていてくださいね」っとまたまたのんびりした口調で頭に何か糊みたいなチューブを頭のいたるところにつけられてその後電極みたいなシールを貼られその先にコードを繋げて「脳波」の検査なるものの用意を世間話をしながら手際よくしていく。準備が終わったら「リラックスしてくださいね」と部屋を暗くされ小一時間ほどの検査をされた。
その検査が終わると「はい、おつかれ様でした」と、頭の糊を落とすシャンプーをしてくれた。なにもかもが終わるとどこかに内線電話で話しをして、「看護師が来るまで少し待っててください」と丁寧に言ってもらえたのをよく覚えている。五分ほどその検査技師と他愛もない世間話をしていると扉をノックする音がして看護師が入ってきた。「病棟に帰りますよ」とほぼ連行に近いように連れて行かれた。
病棟の入口で看護師のおっちゃんが「早う入って!」とさっきと違う口調で命令?してきた。その扉の中に入ると、仲の良かったおっちゃんが「おかえり」と嬉しそうに迎えてくれた。扉一つでこんなに対応が違うのか?と思ったこともよく覚えている。
さて、月日が流れて今まで収監?保護?されていた閉鎖病棟から、たまには「シャバ」に出られる開放病棟に院内転医した。
そこにも個性的なおっちゃん、兄ちゃんがいた。良く言えば個性的、悪く言えば変わり者…。自分もその一人だが…。
たまーに、外のグラウンドでキャッチボールやひなたぼっこ、喫煙などを楽しむことができた。そしてよく見ると高い塀の上には有刺鉄線がありこれ以上下界には行かせないぞ…っと主張していた。そんななかで付き添いの看護師が僕に話しかけてきた。
「兄ちゃん、なんで普通に見えるのにこの病院に入院してるんや?」と…。この看護師は僕のカルテ読んでないのかな?と思い、逆に質問してみた。「看護師さんは僕の状態見てなんでそう思うんですか?」看護師は少し間を開けて、「この精神病院に入院する奴は、一癖も二癖もあるんや…。なのに兄ちゃんはどっから見ても普通やわ…」。僕は「じゃあ、何をもって普通として見てるんですか?」。看護師は「俺の長い経験で見たら兄ちゃんは普通にしか見えん」。なんか変な説得力があり、それ以上は突っ込んでは聞かなかったが「普通」とレッテルを貼られた…。喜んで良いのか悪いのか?よくわからなかったがとりあえず「普通」らしい。確かにごく一部の患者は僕から見ても「普通」にしか見えない患者がちらほら見て取れたが、何を持ってして普通なのか考えると急に可笑しくなり笑ってしまった。
束の間の外界はなかなか新鮮だった。外の空気がこんなに美味しいものなんだなあっと感動してしまった。病院の中の空気はなんだかよどんでいたからなのかあまり良い臭いとは言えなかった。紙パンツの中に大やら小をする本当に自分では何もできない人もいてその臭いがまた半端なく臭う。看護師さんも顔をしかめてオムツ交換をしていたのを思い出す。どこかしら看護師はそういう患者には人間扱いはしてなかった。心の中では「可哀想だな…」と思っていたがこればかりは仕方がないとも思うようにしていた。精神科の対応は患者の家族が見てる時は人間扱いで家族が面会を終えて帰るととたんに扱いがかわる。精神科の病院の悪いところが垣間見える。人としての尊厳を無視される。恐ろしいことだ。そんなこんなで僕も3ヶ月ほど入院生活を終えようというところで主治医に呼び出された。なんだろうか?と診察室の中に入るように促され入室すると「そろそろ退院の時期だと思います。状態も落ち着き夜もそこそこ寝ておられるようだし…」と、カルテをパラパラめくって看護師の記入した字を目で追いかけそして僕を看る。僕もそろそろかなとは思っていたが3ヶ月と少しでこの異世界より出れるのが「嬉しかった」。今度の月曜日に退院に向けて家族さんとも話しを進めましょう…。ただそれだけ告げられると、僕は開放病棟に戻された。何か拍子抜けしてしまいこんなに簡単な診察で決まるのかと思ったのを思い出す。他の患者はいつになったら出られるのか解らないのに、「僕は」簡単にシャバに出られることになった。そうなると人間は不思議なもので、1日が異常に長く感じるようになった。24時間がとてつもなく長い。そして問題行動も起こさずに大人しくして月曜日まで過ごした。
そして、待ちに待った月曜日の朝、朝食を食べて家族の迎えを待っていると小指の無いおじさんが、「おい!バツイチ、今日シャバに出るのか?」と話しかけてきた。なぜバツイチと呼ばれたかと言うと、離婚をきっかけに精神がおかしくなってしまたからである。「お世話になりました」と言うと右手を出してきた。別れの握手かなと思いその右手を握ると、「おまえはアホか!いろいろとしてやったやろ?千円出せ!」とドスの効いた声で凄まれた。「千円ですか…」高いなと思いつつ財布から千円札を取り出すと、「元気でな!」とイカツイ顔から笑顔になった。そして何事も無かったように部屋から出ていった。あのイカツイおじさん今更ながら元気にしてるかなと思い返す。
その出来事があって小一時間程ソワソワしてまだだろうか…。と、待っていると家族の者がいろんな書類片手にやってきた。主治医と共に。
いろいろな説明を聞き諸々の手続きをしてその病院をあとにした。車に乗り走り家族の第一声が「何か食べたいものある?」だった。僕は、迷わず「お好み焼きが食べたい!」と、大声で答えた。帰りの道中でこてこてのお好み焼き屋に寄ってくれた。店に入りメニューを見て、「モダン焼きと焼きそば…、それと生中!」とオーダーを取りに来たおばちゃんに伝えた。
オーダーしたものが来るまで家族の者と話をした。まともな会話が成立したことに何故か感動してしまった。生中が先に来て一気に飲み干し軽くゲップをしたら「汚いな~」と苦笑いされたがそんなことは気にせずに二杯目の生中を頼んだ。久々のアルコールが胃の中で暴れまくる…。その時、「あっ、忘れ物した!」と言うと家族の者が「何を?」と、僕は「ドストエフスキーの小説や、入院中に読もうと思っていたのに…」。まぁ、いっか…。誰か読むやろと諦めた。
そうこうしてるとモダン焼きと焼きそばが無愛想なおばちゃんと共に目の前に現れた。もう盗食も気にせず落ち着いて食べられる!と思い一心不乱に焼きそばをすすり、モダン焼きをヘラを使い口に運んだ…。そしてあっという間に生中と焼きそばとモダン焼きが口の中に消えたところで小休止して家路についた。
これが記念すべき一回目の入院だった。
第二章 その後の入退院と日常生活
退院してひと月がたち、二週間に一度の診察が月に一回になった。家から病院まで往復四時間の道のりは楽なものではなかった。薬の量も半端ではなくそれこそほんとにお茶漬けができるぐらい処方されていた。赤色、水色、黄色、茶色などなどマーブルチョコみたいな梱包された薬を朝、昼、夕、就寝前に飲んでいた。その当時のお薬手帳を見るとなんと35錠の薬を1日に飲んでいたようである。ボクシングで鍛えた身体が徐々にベイマックスみたいな体に変身してしまった。精神薬を飲むと異常に食欲が湧くのだが困ったことに体がだるくってゴロゴロしかできなくなっていた…。
結果、どうなるかと言うと体重がひと月で10kgほど一気に増えた。その当時服のサイズはMサイズだったのがあっという間に3Lまで巨大化してしまった。これはいかんと運動をしようと努力するのだが体に重りを付けてるみたいで辛い。やっぱりゴロゴロに戻る。これは入院した人しか分からないとは思うが精神疾患の人はふくよかな体型の方が多い。普通の体型の人のほうが少なかったように思う。
話しは、変わってその頃僕はもう二度と結婚はしまいと思っていたのに今の妻に出会ってもう一度人の事を信用してみようと思いつきあってあれよあれよという間に結婚という儀式を神社で行い、夫婦になった。自分で言うのもなんだがよくできた嫁さんで、つきあってる頃より僕の精神状態はこんな感じだけど、それでも良いの?と聞くと「優しいからと人として信用できるから」と言ってくれてつきあうことになった。
どんな人かと言うと背は小柄で、目はリスみたいにクリクリとした女の子だった。でもお互いに初めてのデートでは「タイプではなかった」のに何故か惹かれるものがあった。つきあって3ヶ月目に肌を合わせて思ったことは、この子は離してはいけない!と直感的に思った。嫁も同じことを思ったらしい。そして時間をかけて愛し合いお互いが必要だと思った時に結婚式をあげた。
よく晴れた4月のある日に結婚式をあげた。まるで神様が祝福してくれたかのような天候だった。無事に結婚式をあげてその後親戚一同を招待し披露宴をした。疲れたがなんとか披露宴をして親戚一同より祝福を受けて本当に幸せな一日だったのを覚えている。それから時はたち、僕の実家で同居するよ?と妻に言うと嫌な顔をせずに同意してくれた。そして生活が始まった。最初は妻も戸惑いながらもよく踏ん張って頑張ってくれたと思う。そうこうしているうちに妊娠がわかり僕は嬉しくて嬉しくて産婦人科で撮られたエコーの写真を見て泣いてしまった。子供ができたということは夫から父親になることで妻も嫁から母親になることで、だんだんと「親」という認識を持ち始めた。妻に至っては確か21歳の若さで、妊娠しこの前まで娘だったのが保護者になり戸惑っていたらしい。僕も父親という自覚ができるまで恥ずかしながら時間がかかった。やっと自分は「親父」になるという自覚が芽生えてきた頃またもや「幻聴」と「妄想」が始まった。幸せな家庭を築こうと模索している時になぜ?と…。幻聴と妄想は日に日に酷くなり、「死んでしまえ」とか「この役立たず」など誰も言ってないのに聞こえてくる。妻が僕の異変に気がつき「どうしたの?」と聞いてくれた頃より「僕は生きてては駄目な人間なんだ…」と思い込むようになり自傷行為が始まった。最初は包丁で左手首を切り血がどくどくと出るのを見てなんの感情もわかなかった。妊婦である妻の前でも包丁で切ってしまった。その時は僕の実の母親に思いっきりしばかれて父親は妻を抱きしめて、「ごめんな、ごめんな…」とまるで他人事のように、ぼーっと聞いていた。その日を境に家にある包丁、カッターナイフ、などなどどこを探しても僕の目に入らないように隠された。そうなると違う方法で自殺を試みようとする。まずロープを探し始めた。が、ビニール紐しか見つからず、確か長めのネクタイで首を吊ろうと考えた。ネクタイを見つけるのはそんなに難しいことではなかった。すぐにみつけてその夜に「遺書」を書いて準備に取りかかった。死ぬことに対してそんなに恐怖感もなく、家族のこと、妻のこと、いろいろと考えながら太い柱を見つけてネクタイをくくり、首にまいた…。これで楽になれる。すべてを無にできる。ぼーっとそんなことを考えながら丸椅子に乗り、「ごめんね…」と、ポツリ一言つぶやき丸椅子から飛び降りた。
がたーんと、大きな音がして丸椅子は倒れて宙吊り状態になった。意識が一瞬で飛んでしまい苦しいというような状態ではなかった。30秒?1分?ぐらい意識がなくなりながらも覚えてるのは目の前が真っ赤に染まったところまでは覚えていた。次に覚えているのは首が痛くて目が覚めた。どうやらネクタイを柱にくくっていたところがほどけて畳の上に落ちたらしい…。
五分程呆然としてハットしたら涙がポロポロ落ち、妻の名前を読んでいた。何回も何回も声にならないしわがれた声で…。妻が異変に気づいて二階までとんできた。そして僕の首に巻かれていたネクタイを見て、「あんたはアホか!」と怒られやっと意識が戻った。
妻は僕の首からネクタイをほどきそのキズを見て泣いた。僕は「ごめんよ、ごめんよ…」と何回も謝りわんわんと泣いた…。妻はそっと僕の頭をしっかり抱いて、「よかった、よかった…」と、大粒の涙を流した。
二人して落ちついた頃に一階に降りて首のあとを見たらむらさき色に変色した首があった。少し出血した所もあった。妻は僕の顔をじっと見て、「明日病院に行こうか?」と声をかけてくれた。僕の両親にはこれでもかと言うぐらい説教を受けたように思う。
次の日、二人で精神科の病院に行き僕が自殺をしそこねた話しをしていろいろと悩んでいることなどを先生に話しをした。すると、先生は「明日入院する準備をして必ず来院するように」、ときつく言われた。家に一旦帰る道中で妻が、「ゆっくり休んできて…」と悲しげな顔をして僕の「目」を見た。そこには、深く真っ直ぐに「悲しみと怒り」が混在している目で見られた。後にも先にもあんな目をした妻を見たことがないぐらいに見つめられた。家に着くとまるで糸の切れたマリオネットのように深い眠りについた。どれぐらい寝ただろうか?分からないぐらい寝たように思う。その間に妻は「入院セット」なるものを準備してくれていた。その日の夜はあまり寝られず「明日から入院か…」と、ぼーっと考えていた。
結局あまり寝られず精神科の病院に行く朝を迎えた。今回で2回目?3回目だったかもしれないと思いつつ妻の運転で前回とは違う病院を近くの心療内科の先生に紹介していただき紹介状をカバンに大切に入れて向かった。到着したのは朝の11時30分きっかりだったのを覚えている。少々待っていると看護師の方が来られて僕の名前が呼ばれた。そこの精神科の病院はなかなかきれいな病院で県内で中規模ぐらいの大きさだった。名前を呼ばれ診察室に入ると女医が僕の上から下までざっと診て椅子に座るように促された。先生は、紹介状を読み、僕のことをまたざっと診ていろいろな質問と、今の精神状態の事を聞いてきたように覚えている。丁寧な言葉使いでいろいろと聞かれた。そして妻にも普段の精神状態と毎日の生活状況を聞いて、カルテに書き留めていた。約1時間程主治医になるその女医は「保護入院ではなく任意入院となります」と宣言して開放病棟に入院することが決まった。法律的説明と人権に対する書類をたくさん用意されて僕はその書類に目を通しながら自分の名前を書き込んでいった。そして妻にも何通かの書類に名前を書くように言った。全てに名前を記入すると、測ったように開放病棟の看護師2名とその棟の師長が迎えに来てくれた。それでは病棟に案内いたしますと言われ僕と妻も一緒に病棟の中まで案内され部屋に通された。個室で無機質な部屋だった。必要最低限なものしか置いていなかった。真っ白なシーツがひかれたベッドと小さなタンスが1つだけで部屋は白1色に統一された部屋だった。
前の病院より清潔感があり何より僕のことを心配していろいろと気を使ってくれる看護師が部屋に訪れて、サマリー(家族構成)と何が心配かを丁寧に聞いていただいたように思う。前の精神科病院よりすごく扱いが違うなと感心してしまう対応だった。妻も安心したのか「ここなら大丈夫そうね」と笑顔でやり取りをしていると、病棟の決まり事、何曜日に主治医の診察があるのかとか丁寧に説明をしてもらえた。統合失調症の僕に妻が居ることをすごく驚いていた事も思い出した。やはり健常者と障害者のカップルは珍しいらしくいろいろな看護師、看護助手の人たちが見に来ていた。体は大丈夫なのだが心に障害を持っているのにどんな患者が入ってきたのか興味深々の様子だった。ソーシャルワーカーの人もやってきた。どうやら僕の担当になる人らしく名前を教えてくれた。「今、困ったことはないですか?」と優しい物腰でいろいろと心配していただいた。妻にもいろいろな説明とこれからの治療方針を説明してくれた。そんなこんなで約1時間程話しを妻と交えて話をしたら妻が「じゃあね!」と元気よく家路についた。夕食までかなり時間があったので病棟の中をぶらぶらと徘徊していると新入りの僕が気になるのか視線を感じた。その中に後にお世話になる老人に出逢った。よく僕のことを気にかけてくれて病棟の暗黙の了解などなど教えていただいた。前の病院のように「タバコ」がお金代わりにはならないこと、開放病棟なので朝の何時から外に出られるかとか食事の時間、睡眠薬を飲む時間などなど…。いろいろな患者さんがいてさすが精神科と思う人が山ほどうようよといた。その後部屋に戻り小説などを読んでいると師長がやってきて食事を取るホールの席を探していただいた。勝手に好きな所には座れないらしく(食事、リハビリなどなどの時)身体の大きな僕の席を探すのに師長は考え込んでいた。その当時僕は薬の副作用のせいかはたまた自分に甘いせいか食事の量が半端なくかなり肥満体型をしていた。身長が180センチ、体重が110キロとデカかった。案内された席に行くと目つきがヤバイ若い青年が真ん前に座って僕をしばらくみていたのでこちらから「こんにちは」と挨拶するとその青年も小さな声で「こんにちは」と挨拶を返してくれた。その青年はしばらくしてからボソボソとなぜ精神科に入院してきた経緯を話してくれた。彼は10代の頃より薬物にハマってしまい無免許にもかかわらず車を運転して重大事故を起こしてしまったと言っていた。それも薬物をキメてから運転。なので任意入院ではなく保護入院だった。いつ外に出られるかわからないと苦笑いして話してくれた。そんなこんなで約ひと月がたった頃主治医が「薬を変えてみましょうか」と提案してくれた。その薬は筋肉注射で体内に直に入れる「薬」だそうで、その筋注を一回打てば約30日から40日持続するそうで飲む薬が減るというメリットがあるらしかった。最初の一発目は怖かったが思いのほか痛くはなかった。が…、打ったあと30分後くらいに強烈な眠気に襲われた。所謂ラリった状態になってしまうのが気になるところだったが幻聴と妄想には効くような感じだった。この筋注は今でも打っている。確かに「その薬」は効果があったみたいだったが先程述べたように強烈な眠気が襲ってくるので病院で筋注を受けたらすぐさま帰らないと危ない。車を運転して病院まで行き一人でかえってくるのはなかなか怖い感じがある。
お薬に助けられ完治とまでは行かないが寛解まではいく。この「寛解」の時に気をゆるめるとまたありもしない幻聴と妄想が襲ってくる。幻聴のことを妻は「ちっさなおっさん」とよび、ありもしない考え、妄想を「頭の中のおばはん」とよんでいた。なかなかおもしろいネーミングではあるけれど、幻聴と妄想の考えに取り憑かれた本人にとっては辛い。幻聴が酷くなるとその言葉に取り憑かれ「変な考え」が、出てくる。この「変な考え」とはあまり書いたり言ったりはしたくないが、自死のことである。わかりやすく言うと「自殺」である。妄想とタッグを組んでこられたらもう何をしてもだめで、頓服を服用して嵐が去るのをこらえるしかない。非常に辛いがこればかりは仕方がない。直接脳みそをいじるわけにもいかないし…。「ただし昔はロボトミー手術で脳みそを改造してたらしいが…」。そんな乱暴な方法は現代ではされてないが、稀にこめかみに電極をあて一瞬だけ電流を流す治療もある。これに関しては一部の精神科では恐ろしいことに未だ「されている」ところがある。どこの病院とは言わないが…。
さて、おどろおどろしい話しは置いといて僕は最初の結婚までは「健常者」だった。2年半ぐらい妻と暮らしその後に「障がい者」となり今に至るのだが身体障がい者と違い精神障がい者なのでぱっと見た感じなんら健常者と変わらない。ここが一番辛いところで、例えば駐車場に車椅子のマークがついているエリアがあるのは皆さんご存知だと思うが身体障がい者の皆さんはなんらお咎めも無く止められるが精神障がい者は先程述べたようになんら健常者と変わらないのでそのエリアに止めると当然のことながら周囲からは冷たい視線が浴びせられる。実際ある病院(総合病院で精神科が無い地域の病院)に止め診察を受けて駐車場に帰ってくるとフロントガラスに紙が貼られていることが何回もあった…。「ここは障がい者様の駐車スペースです」とメッセージが書かれた張り紙が…。また、違う日に同じ病院に受診する時に障がい者スペースに停めて病院の中に入ろうとすると警備員の人が「すみません、ここは障がい者の方が停めるスペースなので移動お願いします!」と強い口調で言われたりしたことも何度かあった。身体障がい者も精神障がい者も同じだと思うのだがいつも言われる。なので一度「僕は障がい者です」と伝えると睨まれた。実際にあった話なのだがいちいち障がい者手帳を見せなければならないのか?と怒りがわくときもあった。見た感じ一般の「健常者」と変わらないのだから仕方がないといえばそうなのだが…。しかし、何度考えても納得はいかないとは思う。社会全体がもっともっと精神障がい者のことについて知ってほしい。近い未来健常者と障がい者が仲良く(身体、精神障がい者が)暮らしていける世界ができればもっと素晴らしい世界になると思う。
かなり話は飛んでしまったが精神科の医師はかなりいい加減な診断を出す人が多い。僕は統合失調症で苦しんでいたとき、僕の実の息子も精神的にやられてしまい大阪のとある某精神科に受診しに行った。そこでの診断は、「あなたの父親は統合失調症なのであなたもそうです」とわけわからんアホみたいな診断をくだされてキツイ薬をたくさん処方された。その話を息子から聞き僕は怒った。初めての精神科でそんな量とたくさんの抗うつ薬、睡眠薬、頓服…。僕は息子にその病院には「二度と行くな!」と釘をさした。一瞬そのアホみたいな診断をくだしたヤブ医者に抗議の電話をしようかと迷ったが止めておいた。ただ悔しかったのはあるけれど。
僕が何度か精神科に入院をしたとき優しい看護師さんと陰険な看護師とが居た。優しい看護師は暇があれば囲碁の相手とか話し相手とか人生相談にのってもらったりとかしてた。話してたらほんとに親父と話しているかのように親身になって耳をかたむけていただいた。とても嬉しく思ったのを覚えている。陰険な看護師は精神科の患者はまともな者はいないと頭から対応が違ってた。ほんとに最悪だった。あなたはほんとに精神科の患者を診ることができる看護師?と疑問を持ってしまうほどの酷さだった。酷い言い方をすれば家畜の面倒を診ているような対応で話し方も上から目線…。やっぱりどこにでもいるんだなっとこちらも必要最低限の関わりしかしなかった。目に見えない病…。このような看護師は患者のことをどう思っているのか。心から知りたいと思ったのを覚えている。
精神科の病院を退院し日常生活に戻るといつも見ていた景色が凄く爽やかに見えた。無機質の真っ白な部屋ではなく、太陽の光、風の囁き、そして自由がとても嬉しく思った。
もう、たぶん入院はよっぽどの事がなければしないと思うけど僕にはわからない…。なにもなければ一生入りたくはないと感じた。別に障がい者を悪者とか笑い者にする意思はないけど勘違いされては困るので一応注意として記しておく。
…もし、精神科の話しが聞きたいという方が居られればまた今度の機会に記したいと思う。
皆さんはまず自分は大丈夫!と思ってないであろうか?まさか自分がそんな異世界の住人になるなどありえないなどと勘違いしてないだろうか?。それは誰にも言えることで些細な事でこの文章を読んでるあなたにもその素質はあるのかも。人は、そんなに強くない。もろい砂でできた人型であり、鋼鉄の心理を持ってる人は、どこにもいないのである。それが現実世界だ。
だいたい正常心理の境界線とは何を持って正常と表現するのか?あなたがもし私は大丈夫と言って生活を送っていてもそれはあなたが勝手に自分は大丈夫と言いながら生活してるだけかもしれない。かっての僕のように…。
僕は、あることがきっかけで「精神科」にお世話になることになった。それは離婚をきっかけにして始まったことだ。それまではなんの異常もなく精神的にも何ら問題のない落ち着いた状態だった…。また、幸せでもあった。しかし、その幸せは長く続かずに終わりをむかえ、そこらへんから精神的に落ち着かない状態が始まった。やる気は出ないし過呼吸を起こすし自殺などを常に考えている病んだ状態だった。「自殺」のことを考えるのは非常に苦しい事で、親にも、今の妻にも非常に迷惑をかけてしまった…。そのことを考えないようにお酒の力を借りてなんとか一日一日を乗り越えていたように思う…。あの時はほとんどアル中状態だったように思われ、あまりにも飲酒の量が多すぎて家族も自分もおかしいなと思い初めて「精神科」に行くことになったが最初は心療内科に行くことさえ抵抗があった…。が、そこはもう命にはかえられないと思いいやいやではあったが「精神科」に行く決心を持ちこのときが初めての通院だった。その病院はちょっと小綺麗なクリニックだったことは覚えている。そこで約半年くらいお世話になったが、いろんな人々が患者さんとして居た。何かを小言で訴えている人、椅子に座らずあぐらをして瞑想している人、壁に向かって何か会話している人、半分白目を向いてカクカクと身体全体を揺らしている人、もう言い出したら止まらないくらいカオスな人々…今の妻と一緒にそのクリニックへ診察に行くのがデートの中に組み込まれてたので僕もたいがい酷い患者で恋人だった…。ついてくる妻も根性と気合いで一緒に待ち合い室まで来てくれていたが、僕の診察が終わって待ち合いに行くと何かのオブジェのように固まっていたのを思い出した…。一応一言添えるなら妻は「精神科」と言う世界を全く知らない人間だったのでどう対処すれば良いのか分からなかったみたいだった。今では僕の症状と感じを理解してくれる良き妻として、今現在偶然にも「精神科」の調理師をしているがやはりヤバイ人も中には居るらしく毎朝叫ぶ人が怖かったらしいのが不思議なものでなれると元気だなぁ今日も…と感じるくらいに肝がすわってしまいなんとも思わなくなったそうな…。
さて、話しが横道にそれてしまったが精神科の先生にも微妙な先生がいて、薬の調合が絶妙に上手い先生やらあなたはほんとに先生ですか?と疑いたくなるような先生まで幅広く居られたのを覚えている。最初の入院は兵庫県の某精神科専門病院の病院だった。入院するときは、まるで患者として見られない対応で、付き添ってくれた実の父はかなり怒り狂ってた。
何故かというと危険物は持ち込めないためのハードなチェックだったからだ。今から思うと結構精神的に来るハードなチェックだったように思う。ガラスのコップはダメ、髭剃り用のT字カミソリもダメ、あと紐のついた衣類もダメ…。何から何までダメだった。その病院には確か2~3回ほど入院したけどまるで人間扱いしない看護師、問題のある発言をする医者、などなどまるで家畜の世話をしに来てるような人達ばかりの問題病院だった。当然寛解することもなく、飲む拘束衣と言われた、非常に危険なバルビツール酸系薬などが簡単に処方されるような危険な病院だった。ここに居たら廃人になると思い確か3回目の退院後に紹介状を書いてもらい転院した。「精神科」はよく選んで入院しないと駄目だなと心底思った病院だった。
次にここは安全だろうと選んだのが入院設備が整った中規模より少し大きめな兵庫県の某病院に転院して通院を始めた。掃除の行き届いた綺麗な「精神科」だった…が、やはりこの病院にも人間的に問題ある先生が居た…。患者に暴言などは日常茶飯時ある問題のある病院だった。どこも変わらないなぁって思いながらぼーっと問題があるドクターの暴言を聞いていた。まだ若い女の人の患者さんで閉鎖病棟から開放病棟に変えて欲しいと必死に訴えているのに、その病院の先生と看護師は、「鬱陶しいねん!」「はよどっかに行け!」などなどの耳を疑う暴言をその女性にかけていた。普通の病院の訴えなら、そんな仕打ちは無いと思うが…。ここもどうやら同じみたいだなって遠くから見ていた。
しかし、救われた出来事もあった。僕の担当の主治医が謎の長期休暇になった。それに伴い人間として最低な医師に振り分けられそうになったとき、僕はその病棟のトップの師長に訴えた。「あのMという医師に主治医」を付けられるのは絶対に嫌だ。死んでも嫌です!と、師長に訴えると「このことは内緒にしておいてくださいね…私もあのM医師は大嫌いなんです。あなたがそれほど嫌と言われるのであれば…」その時、これ以上は言えないという顔をされて笑ってくださった。精神科の師長も感情があるんだなと思いうれしく思った。そして主治医と面接の日、僕だけ違う担当の主治医としてK医師がついてくれた。僕の言いたいこと、何を思っているかを丁寧に耳を傾けていただきうれしくなったことを思い出した。その病院には入退院を繰り返していたが今ではなんとか精神的に落ち着き家にて療養するところまで寛解したが季節的に中々落ち着かない季節もあった。
話しは、少し巻き戻すが最初の入院をした病院の話しだがとんでもない病院であった。精神科入院デビューしたのもこの病院。精神科っていろいろな事情を持って入って来られる方も多かったように思う。入れ墨が入った本職の人なんかはその代表で、刑務所に収監されるのが嫌で完全に頭がいかれたようにしていた人も何人かいた。夕食後の寝るまでの時間はその人たちが仕切る賭場になっていた。精神科に入院してひりつく勝負をしていたのはなんか変な感じだった。賭けるものは、現金は病棟で管理されていたので主な金品の変わりはタバコ一箱とか、朝食の食パン1枚とか…。そんな感じだったと思う。しかしこれがちょっとチンピラ級の人が賭場を開くと何故かトラブルが出る。普段ヤバい思考の人たちも素に戻るくらいにくらいつくと言うおかしな現象がよく見られた。あれは、おかしかった。チンピラさんも大量のいかれた人達には逆らえなかった…。
そうこうしてるうちに、就寝前の薬の時間がやってくる。これは僕にはとっても屈辱的だったのであるが、自分で薬を飲ましてもらえない。看護師のおっちゃんが「上向いて早う口開けい!」と怒鳴ってた。僕の順番が来たときは「自分で飲むので薬をください」と何度も訴えたが「駄目です、病院の決まりなので」の一点張り。仕方なしに悔しかったが椅子に座り薬を飲ませられた。その後小一時間ほどしたら、就寝の時間となる。しかし、ここからが精神科特有の事が、起こる。今では考えられない量の睡眠薬を飲ませられているにもかかわらず寝られない患者達がまるでゾンビのようにラリってフラフラとデイルームを徘徊。僕も徘徊してたように思う。夜勤の看護師のおっちゃん達は知らん顔してたけど、午前0時を回るとおもむろに大きく書かれた「頓服」という箱を出してきて患者を並ばせてた。僕は何が始まるのかな?と、見ていたら1人ずつ睡眠薬の追加をしてた。あれだけ飲ませてまだ飲ますか?と、驚きと何故か無性におかしくなってデイルームの端っこで笑ってた。すると夜中に笑ってる患者の僕を見て、手招きされ薬をさらに飲まそうとするので「いらないです!」と断ると、こっちに来いと言わんばかりに引っ張っていかれ何故か僕だけだと思うけど処置室に無理やり放り込まれうつ伏せで寝かされて尻に注射を打たれたことを思い出した。今から思えばなんてあらくたい処置だろうと思ったがその後解放されてから注射のおかげかまるで泥沼に吸い込まれるようにデイルームのテーブルに突っ伏してうとうととしたが部屋に強制連行され自分のベッドで寝るよう促されてそのまま朝まで寝てしまってた。朝と言っても明け方の4時か5時くらいには目は覚めてぼーっとしたけど…。
そんなこんなでぼーっとしてたら、全部屋一斉に放送があり、「只今より検温を始めます」と大きな声で何故か丁寧に放送があった。今から思えば聞かれるとまずい表現はダメだったのかな?外に聞こえるのが。
そして今ではほとんど使われない水銀の体温計を投げるように手渡され自分で検温。看護師のおっちゃんが「自分は何度や?」と、これまた患者に荒々しく聞いて回ってた。そして一通り患者の検温が済みしばらくすると、患者のおっさんが大きな声で「朝飯やぞ~!」と言うのが合図で皆んな一斉に順番に並ぶ…。僕もその一人として並ぶ。不思議なものでその時だけはヤバい患者からチンピラの患者まで行儀よく並ぶ…。思わず笑ってしまった。食う寝るは皆んな良くわかってるみたいだったと思う。朝の食事は菓子パンが一人三個と牛乳のパックが一個。だけど何故か何人かはパンが四つや二つの患者が居た。どうやら昨日の賭け事の精算とかタバコに化けるらしかった。夜勤の看護師も見て見ぬふりをしていた。朝食が終わると車椅子に拘束されてる患者以外はまた各々自分のベッドまで戻り、昼食まで虚ろな目でぼーっと何をするでもなく過ごす。
さて、僕は入院して間もないのでぼーっと過ごしてたら昼勤の看護師のおっちゃんに「検査があるのでこっちに来て!」と無理やり現実の世界に引き戻される。「なんの検査ですか?」と聞くと無視されある部屋まで連れて行かれた。
扉の上を見ると第一検査室と札が無機質な壁に掲げられていた。中に入るように促されるとそこには変な笑顔のちんちくりんのおっちゃん検査技師が一人ポツンと居て「大丈夫ですか?リラックスしてくださいね」とわけわからん説明を受けて歯医者にあるような電動式の椅子に座らせられた。「今から脳波の検査をするからね~」とのんびりした口調で説明?があった。「怖くないからじっとしていてくださいね」っとまたまたのんびりした口調で頭に何か糊みたいなチューブを頭のいたるところにつけられてその後電極みたいなシールを貼られその先にコードを繋げて「脳波」の検査なるものの用意を世間話をしながら手際よくしていく。準備が終わったら「リラックスしてくださいね」と部屋を暗くされ小一時間ほどの検査をされた。
その検査が終わると「はい、おつかれ様でした」と、頭の糊を落とすシャンプーをしてくれた。なにもかもが終わるとどこかに内線電話で話しをして、「看護師が来るまで少し待っててください」と丁寧に言ってもらえたのをよく覚えている。五分ほどその検査技師と他愛もない世間話をしていると扉をノックする音がして看護師が入ってきた。「病棟に帰りますよ」とほぼ連行に近いように連れて行かれた。
病棟の入口で看護師のおっちゃんが「早う入って!」とさっきと違う口調で命令?してきた。その扉の中に入ると、仲の良かったおっちゃんが「おかえり」と嬉しそうに迎えてくれた。扉一つでこんなに対応が違うのか?と思ったこともよく覚えている。
さて、月日が流れて今まで収監?保護?されていた閉鎖病棟から、たまには「シャバ」に出られる開放病棟に院内転医した。
そこにも個性的なおっちゃん、兄ちゃんがいた。良く言えば個性的、悪く言えば変わり者…。自分もその一人だが…。
たまーに、外のグラウンドでキャッチボールやひなたぼっこ、喫煙などを楽しむことができた。そしてよく見ると高い塀の上には有刺鉄線がありこれ以上下界には行かせないぞ…っと主張していた。そんななかで付き添いの看護師が僕に話しかけてきた。
「兄ちゃん、なんで普通に見えるのにこの病院に入院してるんや?」と…。この看護師は僕のカルテ読んでないのかな?と思い、逆に質問してみた。「看護師さんは僕の状態見てなんでそう思うんですか?」看護師は少し間を開けて、「この精神病院に入院する奴は、一癖も二癖もあるんや…。なのに兄ちゃんはどっから見ても普通やわ…」。僕は「じゃあ、何をもって普通として見てるんですか?」。看護師は「俺の長い経験で見たら兄ちゃんは普通にしか見えん」。なんか変な説得力があり、それ以上は突っ込んでは聞かなかったが「普通」とレッテルを貼られた…。喜んで良いのか悪いのか?よくわからなかったがとりあえず「普通」らしい。確かにごく一部の患者は僕から見ても「普通」にしか見えない患者がちらほら見て取れたが、何を持ってして普通なのか考えると急に可笑しくなり笑ってしまった。
束の間の外界はなかなか新鮮だった。外の空気がこんなに美味しいものなんだなあっと感動してしまった。病院の中の空気はなんだかよどんでいたからなのかあまり良い臭いとは言えなかった。紙パンツの中に大やら小をする本当に自分では何もできない人もいてその臭いがまた半端なく臭う。看護師さんも顔をしかめてオムツ交換をしていたのを思い出す。どこかしら看護師はそういう患者には人間扱いはしてなかった。心の中では「可哀想だな…」と思っていたがこればかりは仕方がないとも思うようにしていた。精神科の対応は患者の家族が見てる時は人間扱いで家族が面会を終えて帰るととたんに扱いがかわる。精神科の病院の悪いところが垣間見える。人としての尊厳を無視される。恐ろしいことだ。そんなこんなで僕も3ヶ月ほど入院生活を終えようというところで主治医に呼び出された。なんだろうか?と診察室の中に入るように促され入室すると「そろそろ退院の時期だと思います。状態も落ち着き夜もそこそこ寝ておられるようだし…」と、カルテをパラパラめくって看護師の記入した字を目で追いかけそして僕を看る。僕もそろそろかなとは思っていたが3ヶ月と少しでこの異世界より出れるのが「嬉しかった」。今度の月曜日に退院に向けて家族さんとも話しを進めましょう…。ただそれだけ告げられると、僕は開放病棟に戻された。何か拍子抜けしてしまいこんなに簡単な診察で決まるのかと思ったのを思い出す。他の患者はいつになったら出られるのか解らないのに、「僕は」簡単にシャバに出られることになった。そうなると人間は不思議なもので、1日が異常に長く感じるようになった。24時間がとてつもなく長い。そして問題行動も起こさずに大人しくして月曜日まで過ごした。
そして、待ちに待った月曜日の朝、朝食を食べて家族の迎えを待っていると小指の無いおじさんが、「おい!バツイチ、今日シャバに出るのか?」と話しかけてきた。なぜバツイチと呼ばれたかと言うと、離婚をきっかけに精神がおかしくなってしまたからである。「お世話になりました」と言うと右手を出してきた。別れの握手かなと思いその右手を握ると、「おまえはアホか!いろいろとしてやったやろ?千円出せ!」とドスの効いた声で凄まれた。「千円ですか…」高いなと思いつつ財布から千円札を取り出すと、「元気でな!」とイカツイ顔から笑顔になった。そして何事も無かったように部屋から出ていった。あのイカツイおじさん今更ながら元気にしてるかなと思い返す。
その出来事があって小一時間程ソワソワしてまだだろうか…。と、待っていると家族の者がいろんな書類片手にやってきた。主治医と共に。
いろいろな説明を聞き諸々の手続きをしてその病院をあとにした。車に乗り走り家族の第一声が「何か食べたいものある?」だった。僕は、迷わず「お好み焼きが食べたい!」と、大声で答えた。帰りの道中でこてこてのお好み焼き屋に寄ってくれた。店に入りメニューを見て、「モダン焼きと焼きそば…、それと生中!」とオーダーを取りに来たおばちゃんに伝えた。
オーダーしたものが来るまで家族の者と話をした。まともな会話が成立したことに何故か感動してしまった。生中が先に来て一気に飲み干し軽くゲップをしたら「汚いな~」と苦笑いされたがそんなことは気にせずに二杯目の生中を頼んだ。久々のアルコールが胃の中で暴れまくる…。その時、「あっ、忘れ物した!」と言うと家族の者が「何を?」と、僕は「ドストエフスキーの小説や、入院中に読もうと思っていたのに…」。まぁ、いっか…。誰か読むやろと諦めた。
そうこうしてるとモダン焼きと焼きそばが無愛想なおばちゃんと共に目の前に現れた。もう盗食も気にせず落ち着いて食べられる!と思い一心不乱に焼きそばをすすり、モダン焼きをヘラを使い口に運んだ…。そしてあっという間に生中と焼きそばとモダン焼きが口の中に消えたところで小休止して家路についた。
これが記念すべき一回目の入院だった。
第二章 その後の入退院と日常生活
退院してひと月がたち、二週間に一度の診察が月に一回になった。家から病院まで往復四時間の道のりは楽なものではなかった。薬の量も半端ではなくそれこそほんとにお茶漬けができるぐらい処方されていた。赤色、水色、黄色、茶色などなどマーブルチョコみたいな梱包された薬を朝、昼、夕、就寝前に飲んでいた。その当時のお薬手帳を見るとなんと35錠の薬を1日に飲んでいたようである。ボクシングで鍛えた身体が徐々にベイマックスみたいな体に変身してしまった。精神薬を飲むと異常に食欲が湧くのだが困ったことに体がだるくってゴロゴロしかできなくなっていた…。
結果、どうなるかと言うと体重がひと月で10kgほど一気に増えた。その当時服のサイズはMサイズだったのがあっという間に3Lまで巨大化してしまった。これはいかんと運動をしようと努力するのだが体に重りを付けてるみたいで辛い。やっぱりゴロゴロに戻る。これは入院した人しか分からないとは思うが精神疾患の人はふくよかな体型の方が多い。普通の体型の人のほうが少なかったように思う。
話しは、変わってその頃僕はもう二度と結婚はしまいと思っていたのに今の妻に出会ってもう一度人の事を信用してみようと思いつきあってあれよあれよという間に結婚という儀式を神社で行い、夫婦になった。自分で言うのもなんだがよくできた嫁さんで、つきあってる頃より僕の精神状態はこんな感じだけど、それでも良いの?と聞くと「優しいからと人として信用できるから」と言ってくれてつきあうことになった。
どんな人かと言うと背は小柄で、目はリスみたいにクリクリとした女の子だった。でもお互いに初めてのデートでは「タイプではなかった」のに何故か惹かれるものがあった。つきあって3ヶ月目に肌を合わせて思ったことは、この子は離してはいけない!と直感的に思った。嫁も同じことを思ったらしい。そして時間をかけて愛し合いお互いが必要だと思った時に結婚式をあげた。
よく晴れた4月のある日に結婚式をあげた。まるで神様が祝福してくれたかのような天候だった。無事に結婚式をあげてその後親戚一同を招待し披露宴をした。疲れたがなんとか披露宴をして親戚一同より祝福を受けて本当に幸せな一日だったのを覚えている。それから時はたち、僕の実家で同居するよ?と妻に言うと嫌な顔をせずに同意してくれた。そして生活が始まった。最初は妻も戸惑いながらもよく踏ん張って頑張ってくれたと思う。そうこうしているうちに妊娠がわかり僕は嬉しくて嬉しくて産婦人科で撮られたエコーの写真を見て泣いてしまった。子供ができたということは夫から父親になることで妻も嫁から母親になることで、だんだんと「親」という認識を持ち始めた。妻に至っては確か21歳の若さで、妊娠しこの前まで娘だったのが保護者になり戸惑っていたらしい。僕も父親という自覚ができるまで恥ずかしながら時間がかかった。やっと自分は「親父」になるという自覚が芽生えてきた頃またもや「幻聴」と「妄想」が始まった。幸せな家庭を築こうと模索している時になぜ?と…。幻聴と妄想は日に日に酷くなり、「死んでしまえ」とか「この役立たず」など誰も言ってないのに聞こえてくる。妻が僕の異変に気がつき「どうしたの?」と聞いてくれた頃より「僕は生きてては駄目な人間なんだ…」と思い込むようになり自傷行為が始まった。最初は包丁で左手首を切り血がどくどくと出るのを見てなんの感情もわかなかった。妊婦である妻の前でも包丁で切ってしまった。その時は僕の実の母親に思いっきりしばかれて父親は妻を抱きしめて、「ごめんな、ごめんな…」とまるで他人事のように、ぼーっと聞いていた。その日を境に家にある包丁、カッターナイフ、などなどどこを探しても僕の目に入らないように隠された。そうなると違う方法で自殺を試みようとする。まずロープを探し始めた。が、ビニール紐しか見つからず、確か長めのネクタイで首を吊ろうと考えた。ネクタイを見つけるのはそんなに難しいことではなかった。すぐにみつけてその夜に「遺書」を書いて準備に取りかかった。死ぬことに対してそんなに恐怖感もなく、家族のこと、妻のこと、いろいろと考えながら太い柱を見つけてネクタイをくくり、首にまいた…。これで楽になれる。すべてを無にできる。ぼーっとそんなことを考えながら丸椅子に乗り、「ごめんね…」と、ポツリ一言つぶやき丸椅子から飛び降りた。
がたーんと、大きな音がして丸椅子は倒れて宙吊り状態になった。意識が一瞬で飛んでしまい苦しいというような状態ではなかった。30秒?1分?ぐらい意識がなくなりながらも覚えてるのは目の前が真っ赤に染まったところまでは覚えていた。次に覚えているのは首が痛くて目が覚めた。どうやらネクタイを柱にくくっていたところがほどけて畳の上に落ちたらしい…。
五分程呆然としてハットしたら涙がポロポロ落ち、妻の名前を読んでいた。何回も何回も声にならないしわがれた声で…。妻が異変に気づいて二階までとんできた。そして僕の首に巻かれていたネクタイを見て、「あんたはアホか!」と怒られやっと意識が戻った。
妻は僕の首からネクタイをほどきそのキズを見て泣いた。僕は「ごめんよ、ごめんよ…」と何回も謝りわんわんと泣いた…。妻はそっと僕の頭をしっかり抱いて、「よかった、よかった…」と、大粒の涙を流した。
二人して落ちついた頃に一階に降りて首のあとを見たらむらさき色に変色した首があった。少し出血した所もあった。妻は僕の顔をじっと見て、「明日病院に行こうか?」と声をかけてくれた。僕の両親にはこれでもかと言うぐらい説教を受けたように思う。
次の日、二人で精神科の病院に行き僕が自殺をしそこねた話しをしていろいろと悩んでいることなどを先生に話しをした。すると、先生は「明日入院する準備をして必ず来院するように」、ときつく言われた。家に一旦帰る道中で妻が、「ゆっくり休んできて…」と悲しげな顔をして僕の「目」を見た。そこには、深く真っ直ぐに「悲しみと怒り」が混在している目で見られた。後にも先にもあんな目をした妻を見たことがないぐらいに見つめられた。家に着くとまるで糸の切れたマリオネットのように深い眠りについた。どれぐらい寝ただろうか?分からないぐらい寝たように思う。その間に妻は「入院セット」なるものを準備してくれていた。その日の夜はあまり寝られず「明日から入院か…」と、ぼーっと考えていた。
結局あまり寝られず精神科の病院に行く朝を迎えた。今回で2回目?3回目だったかもしれないと思いつつ妻の運転で前回とは違う病院を近くの心療内科の先生に紹介していただき紹介状をカバンに大切に入れて向かった。到着したのは朝の11時30分きっかりだったのを覚えている。少々待っていると看護師の方が来られて僕の名前が呼ばれた。そこの精神科の病院はなかなかきれいな病院で県内で中規模ぐらいの大きさだった。名前を呼ばれ診察室に入ると女医が僕の上から下までざっと診て椅子に座るように促された。先生は、紹介状を読み、僕のことをまたざっと診ていろいろな質問と、今の精神状態の事を聞いてきたように覚えている。丁寧な言葉使いでいろいろと聞かれた。そして妻にも普段の精神状態と毎日の生活状況を聞いて、カルテに書き留めていた。約1時間程主治医になるその女医は「保護入院ではなく任意入院となります」と宣言して開放病棟に入院することが決まった。法律的説明と人権に対する書類をたくさん用意されて僕はその書類に目を通しながら自分の名前を書き込んでいった。そして妻にも何通かの書類に名前を書くように言った。全てに名前を記入すると、測ったように開放病棟の看護師2名とその棟の師長が迎えに来てくれた。それでは病棟に案内いたしますと言われ僕と妻も一緒に病棟の中まで案内され部屋に通された。個室で無機質な部屋だった。必要最低限なものしか置いていなかった。真っ白なシーツがひかれたベッドと小さなタンスが1つだけで部屋は白1色に統一された部屋だった。
前の病院より清潔感があり何より僕のことを心配していろいろと気を使ってくれる看護師が部屋に訪れて、サマリー(家族構成)と何が心配かを丁寧に聞いていただいたように思う。前の精神科病院よりすごく扱いが違うなと感心してしまう対応だった。妻も安心したのか「ここなら大丈夫そうね」と笑顔でやり取りをしていると、病棟の決まり事、何曜日に主治医の診察があるのかとか丁寧に説明をしてもらえた。統合失調症の僕に妻が居ることをすごく驚いていた事も思い出した。やはり健常者と障害者のカップルは珍しいらしくいろいろな看護師、看護助手の人たちが見に来ていた。体は大丈夫なのだが心に障害を持っているのにどんな患者が入ってきたのか興味深々の様子だった。ソーシャルワーカーの人もやってきた。どうやら僕の担当になる人らしく名前を教えてくれた。「今、困ったことはないですか?」と優しい物腰でいろいろと心配していただいた。妻にもいろいろな説明とこれからの治療方針を説明してくれた。そんなこんなで約1時間程話しを妻と交えて話をしたら妻が「じゃあね!」と元気よく家路についた。夕食までかなり時間があったので病棟の中をぶらぶらと徘徊していると新入りの僕が気になるのか視線を感じた。その中に後にお世話になる老人に出逢った。よく僕のことを気にかけてくれて病棟の暗黙の了解などなど教えていただいた。前の病院のように「タバコ」がお金代わりにはならないこと、開放病棟なので朝の何時から外に出られるかとか食事の時間、睡眠薬を飲む時間などなど…。いろいろな患者さんがいてさすが精神科と思う人が山ほどうようよといた。その後部屋に戻り小説などを読んでいると師長がやってきて食事を取るホールの席を探していただいた。勝手に好きな所には座れないらしく(食事、リハビリなどなどの時)身体の大きな僕の席を探すのに師長は考え込んでいた。その当時僕は薬の副作用のせいかはたまた自分に甘いせいか食事の量が半端なくかなり肥満体型をしていた。身長が180センチ、体重が110キロとデカかった。案内された席に行くと目つきがヤバイ若い青年が真ん前に座って僕をしばらくみていたのでこちらから「こんにちは」と挨拶するとその青年も小さな声で「こんにちは」と挨拶を返してくれた。その青年はしばらくしてからボソボソとなぜ精神科に入院してきた経緯を話してくれた。彼は10代の頃より薬物にハマってしまい無免許にもかかわらず車を運転して重大事故を起こしてしまったと言っていた。それも薬物をキメてから運転。なので任意入院ではなく保護入院だった。いつ外に出られるかわからないと苦笑いして話してくれた。そんなこんなで約ひと月がたった頃主治医が「薬を変えてみましょうか」と提案してくれた。その薬は筋肉注射で体内に直に入れる「薬」だそうで、その筋注を一回打てば約30日から40日持続するそうで飲む薬が減るというメリットがあるらしかった。最初の一発目は怖かったが思いのほか痛くはなかった。が…、打ったあと30分後くらいに強烈な眠気に襲われた。所謂ラリった状態になってしまうのが気になるところだったが幻聴と妄想には効くような感じだった。この筋注は今でも打っている。確かに「その薬」は効果があったみたいだったが先程述べたように強烈な眠気が襲ってくるので病院で筋注を受けたらすぐさま帰らないと危ない。車を運転して病院まで行き一人でかえってくるのはなかなか怖い感じがある。
お薬に助けられ完治とまでは行かないが寛解まではいく。この「寛解」の時に気をゆるめるとまたありもしない幻聴と妄想が襲ってくる。幻聴のことを妻は「ちっさなおっさん」とよび、ありもしない考え、妄想を「頭の中のおばはん」とよんでいた。なかなかおもしろいネーミングではあるけれど、幻聴と妄想の考えに取り憑かれた本人にとっては辛い。幻聴が酷くなるとその言葉に取り憑かれ「変な考え」が、出てくる。この「変な考え」とはあまり書いたり言ったりはしたくないが、自死のことである。わかりやすく言うと「自殺」である。妄想とタッグを組んでこられたらもう何をしてもだめで、頓服を服用して嵐が去るのをこらえるしかない。非常に辛いがこればかりは仕方がない。直接脳みそをいじるわけにもいかないし…。「ただし昔はロボトミー手術で脳みそを改造してたらしいが…」。そんな乱暴な方法は現代ではされてないが、稀にこめかみに電極をあて一瞬だけ電流を流す治療もある。これに関しては一部の精神科では恐ろしいことに未だ「されている」ところがある。どこの病院とは言わないが…。
さて、おどろおどろしい話しは置いといて僕は最初の結婚までは「健常者」だった。2年半ぐらい妻と暮らしその後に「障がい者」となり今に至るのだが身体障がい者と違い精神障がい者なのでぱっと見た感じなんら健常者と変わらない。ここが一番辛いところで、例えば駐車場に車椅子のマークがついているエリアがあるのは皆さんご存知だと思うが身体障がい者の皆さんはなんらお咎めも無く止められるが精神障がい者は先程述べたようになんら健常者と変わらないのでそのエリアに止めると当然のことながら周囲からは冷たい視線が浴びせられる。実際ある病院(総合病院で精神科が無い地域の病院)に止め診察を受けて駐車場に帰ってくるとフロントガラスに紙が貼られていることが何回もあった…。「ここは障がい者様の駐車スペースです」とメッセージが書かれた張り紙が…。また、違う日に同じ病院に受診する時に障がい者スペースに停めて病院の中に入ろうとすると警備員の人が「すみません、ここは障がい者の方が停めるスペースなので移動お願いします!」と強い口調で言われたりしたことも何度かあった。身体障がい者も精神障がい者も同じだと思うのだがいつも言われる。なので一度「僕は障がい者です」と伝えると睨まれた。実際にあった話なのだがいちいち障がい者手帳を見せなければならないのか?と怒りがわくときもあった。見た感じ一般の「健常者」と変わらないのだから仕方がないといえばそうなのだが…。しかし、何度考えても納得はいかないとは思う。社会全体がもっともっと精神障がい者のことについて知ってほしい。近い未来健常者と障がい者が仲良く(身体、精神障がい者が)暮らしていける世界ができればもっと素晴らしい世界になると思う。
かなり話は飛んでしまったが精神科の医師はかなりいい加減な診断を出す人が多い。僕は統合失調症で苦しんでいたとき、僕の実の息子も精神的にやられてしまい大阪のとある某精神科に受診しに行った。そこでの診断は、「あなたの父親は統合失調症なのであなたもそうです」とわけわからんアホみたいな診断をくだされてキツイ薬をたくさん処方された。その話を息子から聞き僕は怒った。初めての精神科でそんな量とたくさんの抗うつ薬、睡眠薬、頓服…。僕は息子にその病院には「二度と行くな!」と釘をさした。一瞬そのアホみたいな診断をくだしたヤブ医者に抗議の電話をしようかと迷ったが止めておいた。ただ悔しかったのはあるけれど。
僕が何度か精神科に入院をしたとき優しい看護師さんと陰険な看護師とが居た。優しい看護師は暇があれば囲碁の相手とか話し相手とか人生相談にのってもらったりとかしてた。話してたらほんとに親父と話しているかのように親身になって耳をかたむけていただいた。とても嬉しく思ったのを覚えている。陰険な看護師は精神科の患者はまともな者はいないと頭から対応が違ってた。ほんとに最悪だった。あなたはほんとに精神科の患者を診ることができる看護師?と疑問を持ってしまうほどの酷さだった。酷い言い方をすれば家畜の面倒を診ているような対応で話し方も上から目線…。やっぱりどこにでもいるんだなっとこちらも必要最低限の関わりしかしなかった。目に見えない病…。このような看護師は患者のことをどう思っているのか。心から知りたいと思ったのを覚えている。
精神科の病院を退院し日常生活に戻るといつも見ていた景色が凄く爽やかに見えた。無機質の真っ白な部屋ではなく、太陽の光、風の囁き、そして自由がとても嬉しく思った。
もう、たぶん入院はよっぽどの事がなければしないと思うけど僕にはわからない…。なにもなければ一生入りたくはないと感じた。別に障がい者を悪者とか笑い者にする意思はないけど勘違いされては困るので一応注意として記しておく。
…もし、精神科の話しが聞きたいという方が居られればまた今度の機会に記したいと思う。
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カワカツ
エッセイ・ノンフィクション
◆24h.ptから算出する「読者(閲覧・PV)数確認早見表」を追加しました。各カテゴリ100人までの読者数を確認可能です。自作品の読者数把握の参考にご利用下さい。※P.15〜P.20に掲載
(2023.9.8時点確認の各カテゴリptより算出)
◆「結局、アルファポリスの24hポイントって何なの!」ってモヤモヤ感を短いエッセイとして書きなぐっていましたが、途中から『24hポイントの仕組み考察』になってしまいました。
◆「せっかく増えた数百ptが1時間足らずで消えてしまってる?!」とか、「24h.ptは分かるけど、結局、何人の読者さんが見てくれてるの?」など、気付いた事や疑問などをつらつら上げています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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