14 / 69
第一部 運命
熱の始まり
しおりを挟む
中等部一年の春。
紺のブレザーに、細いネクタイ。
鏡の前で結び目を整えながら、月那は小さく息を吐いた。
初等部の制服より、線が出る。
肩も、腰も、周りの男子に比べれば華奢だ。
頼りない、とまでは思わないけれど、守られている形をしている気がした。
背後から声がする。
「曲がってる」
振り向く前に、陽臣が近づく。
後ろから腕を回し、指先で結び目を直す。
喉元に、かすかな温度。
距離が近い。
昔から、近い。
けれど今日は、なぜか呼吸が浅くなった。
「ありがと」
月那は笑う。
陽臣は頷く。
穏やかで、揺れない目。
それを見ると、安心する。
安心、するはずだった。
中等部の教室は、空気が違った。
声変わり途中の低い声。
急に伸びた背丈。
制御しきれない成長の匂い。
まだ子どもなのに、もう子どもではない。
月那は窓側の席に座る。
陽臣は斜め後ろ。
視界の端に、必ずいる位置。
それが当たり前。
「おい」
低く、少し荒い声。
振り向く。
黒瀬迅。
短く整えた黒髪。
真っ直ぐすぎる視線。
遠慮がない。
中等部からの編入組。
「お前、九条だろ」
「うん」
「天城といつも一緒の」
陽臣の名前が出た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
理由は分からない。
黒瀬が机に肘をつき、距離を詰める。
「体育、得意?」
「普通かな」
「リレー出ろよ。足速いって聞いた」
近い。
顔が、近い。
呼吸が、触れる。
その瞬間。
どくり、と心臓が跳ねた。
視界が一瞬、白くなる。
息が浅い。
熱い。
まだ四月の初めだというのに、首筋がひどく熱を帯びる。
黒瀬が眉を寄せる。
「……顔、赤いぞ」
月那は瞬きを繰り返す。
「え?」
汗が、こめかみに滲んでいる。
喉の奥が乾く。
胸の奥が、落ち着かない。
怖くはない。
けれど、身体のどこかが、ざわざわしている。
黒瀬がさらに顔を寄せる。
鼻先が、わずかに動く。
「……甘い匂いがする」
その言葉に、心臓がさらに強く打つ。
甘い?
自分が?
恥ずかしさではない。
怒りでもない。
ただ、身体の奥がひどく落ち着かない。
黒瀬の視線が、わずかに変わる。
興味。
本能。
説明できない何かを嗅ぎ取った目。
そのとき。
椅子が静かに引かれる音。
陽臣だ。
立ち上がる気配は穏やか。
けれど、空気がわずかに締まる。
「月那、顔色悪い」
低い声。
抑制された温度。
視線は黒瀬を一瞬だけ通過し、月那に戻る。
黒瀬が肩をすくめる。
「平気だろ。ちょっと暑いだけだ」
暑いだけ。
そのはずなのに。
陽臣が月那の机の横に立つ。
触れない距離。
けれど、存在が近い。
その瞬間。
熱が、わずかに引く。
呼吸が整う。
胸のざわつきが、薄れる。
どうして。
どうして、さっきはあんなに苦しかったのだろう。
黒瀬はそれを見逃さなかった。
陽臣が近づいた瞬間、
月那の乱れが落ち着いたことを。
黒瀬の目が、細くなる。
面白い、というより。
確かめる目。
「なあ」
黒瀬が言う。
「九条ってさ――」
チャイムが鳴る。
担任が入ってくる。
会話は途切れる。
けれど。
月那の胸の奥には、まだ熱が残っている。
完全には消えない。
じわり、と残る。
授業が始まる。
黒板の文字が、少しだけ揺れて見える。
後ろから、陽臣の視線を感じる。
心配ではない。
観察。
そして、計算。
陽臣は気づいている。
匂いの変化。
汗の量。
呼吸の乱れ。
黒瀬の視線。
けれど何も言わない。
言わずに、整える方法を探している。
月那はまだ知らない。
この熱が、
ただの体調不良ではないことを。
黒瀬もまだ知らない。
自分が今、
何に反応したのかを。
春は穏やかだ。
世界は壊れていない。
けれど確かに。
何かが、目を覚まし始めていた。
それは、まだ名前を持たない。
だが静かに、
二人の間に、風向きを変え始めている。
紺のブレザーに、細いネクタイ。
鏡の前で結び目を整えながら、月那は小さく息を吐いた。
初等部の制服より、線が出る。
肩も、腰も、周りの男子に比べれば華奢だ。
頼りない、とまでは思わないけれど、守られている形をしている気がした。
背後から声がする。
「曲がってる」
振り向く前に、陽臣が近づく。
後ろから腕を回し、指先で結び目を直す。
喉元に、かすかな温度。
距離が近い。
昔から、近い。
けれど今日は、なぜか呼吸が浅くなった。
「ありがと」
月那は笑う。
陽臣は頷く。
穏やかで、揺れない目。
それを見ると、安心する。
安心、するはずだった。
中等部の教室は、空気が違った。
声変わり途中の低い声。
急に伸びた背丈。
制御しきれない成長の匂い。
まだ子どもなのに、もう子どもではない。
月那は窓側の席に座る。
陽臣は斜め後ろ。
視界の端に、必ずいる位置。
それが当たり前。
「おい」
低く、少し荒い声。
振り向く。
黒瀬迅。
短く整えた黒髪。
真っ直ぐすぎる視線。
遠慮がない。
中等部からの編入組。
「お前、九条だろ」
「うん」
「天城といつも一緒の」
陽臣の名前が出た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
理由は分からない。
黒瀬が机に肘をつき、距離を詰める。
「体育、得意?」
「普通かな」
「リレー出ろよ。足速いって聞いた」
近い。
顔が、近い。
呼吸が、触れる。
その瞬間。
どくり、と心臓が跳ねた。
視界が一瞬、白くなる。
息が浅い。
熱い。
まだ四月の初めだというのに、首筋がひどく熱を帯びる。
黒瀬が眉を寄せる。
「……顔、赤いぞ」
月那は瞬きを繰り返す。
「え?」
汗が、こめかみに滲んでいる。
喉の奥が乾く。
胸の奥が、落ち着かない。
怖くはない。
けれど、身体のどこかが、ざわざわしている。
黒瀬がさらに顔を寄せる。
鼻先が、わずかに動く。
「……甘い匂いがする」
その言葉に、心臓がさらに強く打つ。
甘い?
自分が?
恥ずかしさではない。
怒りでもない。
ただ、身体の奥がひどく落ち着かない。
黒瀬の視線が、わずかに変わる。
興味。
本能。
説明できない何かを嗅ぎ取った目。
そのとき。
椅子が静かに引かれる音。
陽臣だ。
立ち上がる気配は穏やか。
けれど、空気がわずかに締まる。
「月那、顔色悪い」
低い声。
抑制された温度。
視線は黒瀬を一瞬だけ通過し、月那に戻る。
黒瀬が肩をすくめる。
「平気だろ。ちょっと暑いだけだ」
暑いだけ。
そのはずなのに。
陽臣が月那の机の横に立つ。
触れない距離。
けれど、存在が近い。
その瞬間。
熱が、わずかに引く。
呼吸が整う。
胸のざわつきが、薄れる。
どうして。
どうして、さっきはあんなに苦しかったのだろう。
黒瀬はそれを見逃さなかった。
陽臣が近づいた瞬間、
月那の乱れが落ち着いたことを。
黒瀬の目が、細くなる。
面白い、というより。
確かめる目。
「なあ」
黒瀬が言う。
「九条ってさ――」
チャイムが鳴る。
担任が入ってくる。
会話は途切れる。
けれど。
月那の胸の奥には、まだ熱が残っている。
完全には消えない。
じわり、と残る。
授業が始まる。
黒板の文字が、少しだけ揺れて見える。
後ろから、陽臣の視線を感じる。
心配ではない。
観察。
そして、計算。
陽臣は気づいている。
匂いの変化。
汗の量。
呼吸の乱れ。
黒瀬の視線。
けれど何も言わない。
言わずに、整える方法を探している。
月那はまだ知らない。
この熱が、
ただの体調不良ではないことを。
黒瀬もまだ知らない。
自分が今、
何に反応したのかを。
春は穏やかだ。
世界は壊れていない。
けれど確かに。
何かが、目を覚まし始めていた。
それは、まだ名前を持たない。
だが静かに、
二人の間に、風向きを変え始めている。
0
あなたにおすすめの小説
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」
星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。
ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。
番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。
あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、
平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。
そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。
――何でいまさら。オメガだった、なんて。
オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。
2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。
どうして、いまさら。
すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。
ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
転化オメガの優等生はアルファの頂点に組み敷かれる
さち喜
BL
優等生・聖利(ひじり)と校則破りの常習犯・來(らい)は、ともに優秀なアルファ。
ライバルとして競い合ってきたふたりは、高等部寮でルームメイトに。
來を意識してしまう聖利は、あるとき自分の身体に妙な変化を感じる。
すると、來が獣のように押し倒してきて……。
「その顔、煽ってんだろ? 俺を」
アルファからオメガに転化してしまった聖利と、過保護に執着する來の焦れ恋物語。
※性描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
※2021年に他サイトで連載した作品です。ラストに番外編を加筆予定です。
☆登場人物☆
楠見野聖利(くすみのひじり)
高校一年、175センチ、黒髪の美少年アルファ。
中等部から学年トップの秀才。
來に好意があるが、叶わぬ気持ちだと諦めている。
ある日、バース性が転化しアルファからオメガになってしまう。
海瀬來(かいせらい)
高校一年、185センチ、端正な顔立ちのアルファ。
聖利のライバルで、身体能力は聖利より上。
海瀬グループの御曹司。さらに成績優秀なため、多少素行が悪くても教師も生徒も手出しできない。
聖利のオメガ転化を前にして自身を抑えきれず……。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない
こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる