太陽王と終焉の月

帰り花

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第一章 太陽の檻

出会い

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 回廊は静まり返っていた。
 大神殿の奥はいつも人が少ない。祈りの時間でもない限り、神官以外が立ち入ることはない場所だ。壁に刻まれた古い聖句は薄く摩耗し、石床は長い年月の足跡で滑らかになっている。
 そこに、血の匂いがした。
 ルナは足を止める。
 微かだが確かに鉄の匂いがする。
 視線を落とす。
 白い石床に、赤い滴。
 新しい。
 乾いていない。
 辿る。
 滴。
 滴。
 滴。
 そして。
 その先に――少年がいた。

 倒れている。
 壁にもたれ、片膝をつき、息を殺している。
 衣服は高価な布だが、泥と血で汚れていた。外套の下から覗く腕には切り傷が走り、脇腹からは血が滲んでいる。追手から逃げてきた者の体だ。
 だが。
 それより先に目を奪われたのは。
 瞳だった。

 赤。
 炎の色。
 夕焼けではない。
 宝石でもない。
 燃える炭の奥に残る、消えきらない火。
 生きている色。
 消えない色。
 壊れかけている色。

 少年もルナを見ていた。
 逃げない。
 怯えない。
 助けを乞わない。
 ただ見ている。
 沈黙で。
 まっすぐに。

 ルナは理解した。
 この子は助けを求めない。
 求められなかった子だ。

「……怪我をしていますね」
 静かに言う。
 少年は答えない。
 瞬きもしない。
 ただ見ている。
 疑う目で。
 計る目で。
 値踏みする目で。

 ルナは一歩近づく。
 その瞬間。
 少年の指がわずかに動いた。
 袖の内側。
 短剣。
 握れる位置。
 逃げるでもなく。
 振るうでもなく。
 ただ。
 届く距離を測っている。

(ああ)
 ルナは思う。
 この子はずっと、一人で生きてきた。
 守られたことがない。
 信じたことがない。
 だから距離を測る。
 人を。
 世界を。
 命を。

「抜かないでください」
 ルナは言う。
 少年の視線が微かに動く。
「武器は」
 静かな声。
「あなたを守るためのものです」
 沈黙。
 風が通る。
 遠くで鐘が鳴る。
 少年の赤い瞳が、ほんのわずかだけ揺れる。

「……何者だ」
 声は低い。
 十二、三歳くらいに見えるが、年齢より落ち着いている。
 子供の声ではない。
 王の声だ。
 まだ、王ではないのに。

「神官です」
 ルナは答える。
「名は、ルナ」
 少年はしばらく黙っていた。
 名乗らない。
 普通なら名を返す場面だ。
 だが彼は言わない。
 名前を渡すという行為が、信頼だと知っているから。

「手当てをします」
 ルナが言う。
 少年は動かない。
 拒まない。
 許しもしない。
 ただ、見ている。

 ルナは膝をつき、手を伸ばす。
 触れる前に、止まる。
「触れますよ」
 確認。
 強制しない。
 奪わない。
 その態度に、少年の瞳がまた揺れた。
 ほんのわずか。
 だが確かに。

「……好きにしろ」
 許可。
 それは信頼ではない。
 だが拒絶でもない。
 その中間。
 それだけで十分だった。

 ルナは傷に触れる。
 光が滲む。
 温度が宿る。
 裂けた皮膚が閉じる。
 血が止まる。
 呼吸が整う。
 少年の瞳が見開かれる。
 初めて。
 明確に。
 驚きで。

「……何をした」
「癒しました」
「魔術か」
「いいえ」
「なら何だ」
「祝福です」

 沈黙。
 少年は、じっとルナを見ている。
 その視線は鋭い。
 刃のようだ。
 だが刃は振るわれない。
 ただ、触れてくる。
 心の奥まで。

「……なぜ」
 小さく問う。
「助けた」
 その問いの意味は分かる。
 なぜ見知らぬ人間を助けたのか。
 なぜ敵かもしれない相手に触れたのか。
 なぜ見返りを求めないのか。

 ルナは答える。
 迷わず。
「あなたが、苦しそうだったから」
 それだけ。

 沈黙。
 長い沈黙。
 少年は、何も言わない。
 だが。
 視線が逸れた。
 ほんの一瞬。

 それが。
 この子が初めて見せた。
 無防備だった。

「……名前は」
 少年が言う。
 ルナは微笑む。
「もう言いましたよ」
 少年は言う。
「違う」
 一拍。
 そして。
「お前じゃない」

 ルナは気づく。
 少年が言っているのは、ルナの名前ではない。

「……ソル」
 少年は名乗る。
 それは、初めての信頼だった。
 取引だった。
 許可だった。

 その瞬間。
 運命が固定された。

 しかしそのことを、ルナは知らない。
 ソルも知らない。
 この出会いが。
 世界を終わらせることを。

 ただ。
 二人は見ていた。
 互いを。
 沈黙のまま。
 まるで、初めから知っていたみたいに。
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