太陽王と終焉の月

帰り花

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第三章 月の檻

誓い

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 城門を越えた瞬間、空気が変わった。
 石の匂いが消え、土の匂いが戻る。
 鉄の味が消え、夜露の味が戻る。
 ルナはそれを、肺いっぱいに吸い込んだ。
 自由の匂いだった。
 だが同時に――
 胸の奥に、針のような痛みが残る。
(置いてきた)
 何を?
 分かっている。
 孤独な王を。

 アルベルトは、振り返らない。
 振り返れば、止まるからだ。
 止まれば、終わるからだ。
 彼はただ、手を引く。
 強く。
 だが、決して痛くしない強さで。
 それが、彼の強さだ。
 守るための力。
 壊さないための力。

 森に入る。
 木々が影を作る。
 月が枝に裂かれる。
 風が草を揺らす。
 追手の気配は、まだない。
 だが、時間の問題だ。

「……ここまで来れば」
 アルベルトが言いかけた時、ルナの足が止まった。
 引かれた手が止まる。
 振り向く。
 水色の瞳が揺れている。
 恐怖ではない。
 涙でもない。
 もっと深いもの。

「……ルナ?」
 アルベルトが呼ぶ。
 ルナは答えない。
 ただ見つめる。
 緑の瞳を。
 長く。
 深く。
 まるで何かを刻み込むみたいに。

「どうした」
 ルナはようやく口を開く。
 声が震えている。
「……本当に」
 息を吸う。
「……あなたですか」
 アルベルトの眉が僅かに寄る。
「何を言ってる」
 ルナは首を振る。
「違うんです」
 涙が一滴、落ちる。
「怖いんです」
 胸を押さえる。
「幸せで」

 アルベルトの息が止まる。
 ルナは言葉を続ける。
「ずっと思っていました」
「私は見送る側だと」
「愛しても、残される側だと」
「だから……」
 声が小さくなる。
「望まないようにしていた」
 沈黙。
 森の音だけが、揺れる。

 アルベルトが、一歩近づく。
 手を伸ばす。
 頬に触れる。
 温度が伝わる。
「ルナ」
 その呼び方。
 その声。
 その優しさ。
 ルナの胸の奥がほどける。

「今は」
 アルベルトが言う。
「望め」
 短い言葉。
 命令ではない。
 許しだ。

 ルナの瞳が震える。
 そして――
 彼の胸に、額を押しつけた。
 逃げるみたいに。
 縋るみたいに。
「……いいんですか」
「いい」
 迷いはなかった。
「俺は、最初からそのために来た」

 ルナの指が、アルベルトの衣を掴む。
 離れないように。
 消えないように。
「……離れたくない」
 その言葉は、告白だった。

「離さない」
 その言葉を証明するように、アルベルトはルナを抱きしめた。
 強く。
 だが痛くない力で。
 ルナの身体が震える。
 怖いのではない。
 安心している震えだ。

 唇が触れる。
 最初は、確かめるように。
 ゆっくり。
 息を合わせるみたいに。
 ルナの肩の力が抜ける。
 呼吸が重なる。
 温度が混ざる。
 夜の空気が静まる。

 そのまま、二人は草の上に座る。
 背中に木の幹。
 頭上に月。
 世界は広いのに、今は二人だけだ。
 アルベルトの指がルナの髪を撫でる。
 銀の糸が指に絡む。
 触れ方は変わらない。
 あの雨の夜と同じだ。
 壊さないように触れる。
 大切なものに触れる。

 ルナは目を閉じる。
 胸の奥で、静かに思う。
(違う)
(これは違う)
 ソルに触れられた夜は、壊れないように耐える夜だった。
 だが今は違う。
 触れられるたびに、胸の奥が温かくなる。
 触れ返したくなる。
 近づきたくなる。
 もっと確かめたくなる。

 アルベルトが囁く。
「寒くないか」
 ルナは首を振る。
「……温かいです」
 アルベルトは何も言わず、額を重ねた。
 距離が消え、呼吸が混ざる。

 ルナは思う。
(これが)
(愛だ)
 痛くない。
 苦しくない。
 怖くない。
 ただ、満ちる。
 空白だった胸の奥が、静かに満ちていく。
 二百年分の孤独が、溶けていく。

 その夜。
 二人は互いを確かめ合った。
 言葉ではなく。
 温度で。
 鼓動で。
 呼吸で。
 触れ合うたび、ルナは理解していく。
 ――ああ、私はこの人を愛していた。
 ――ずっと。
 ――忘れても。
 ――消されても。
 魂は覚えていたのだと。

 夜明け前。
 ルナはアルベルトの腕の中で囁く。
「……約束してください」
「何を」
「あなたが死ぬまで」
 息を吸う。
「一緒にいると」
 アルベルトは小さく笑った。
「とっくに誓ってる」
 迷いなく。
 疑いなく。
「お前が終わる時まで」
 ルナは微笑む。
 安心したみたいに。
 子供みたいに。

 その瞬間だった。
 胸の奥に――
 焼けるように熱い印が浮かんだ。

 ルナの身体が強張る。
 呼吸が止まる。
 アルベルトが気づく。
「……ルナ?」
 ルナの瞳が、見開かれる。
「……始まった」
 声が震える。
 アルベルトが問う。
「何が」
 ルナは答える。
 絶望の名前を。

「魂の固定が」

 地面が震える。
 風が止まる。
 月が歪む。
 世界の理が軋む音がする。
 遠く。
 王城の方向から。

 ソルは発動させたのだ。
 逃げることすら、織り込み済みで。
 一夜の幸福すら、許した上で。
 そのすべてを奪うために。

 ルナの身体が、光に包まれる。
 逃げ場がない。
 どんなに離れても、逃れられない。
 これは、魂に刻まれた命令だ。
 アルベルトが叫ぶ。
「離れるな!」
 手を掴む。
 強く。
 だが。
 指がすり抜ける。
 身体が、光に溶けていく。
 ルナは微笑んだ。
 その頬を、涙が伝う。
「……愛しています」

 次の瞬間。
 光が弾けた。
 ルナの姿が消える。
 残ったのは、ぬくもりだけ。
 腕の中の。
 そして。
 胸の中の。

 森は静かだった。
 何も起きなかったみたいに。
 だが世界は、確実に壊れていた。
 アルベルトの中で。
 そして――
 世界そのものも。
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