劇場の紫陽花

茶野森かのこ

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劇場の紫陽花 9

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***



ピピ…と、目覚まし時計の音がする。もう朝かと、まだ覚めやらない頭で時計を止めようと、佳世かよは布団から腕を伸ばした。だが、佳世が時計を止める前にその音は止まってしまった。

「…ん?」

音が鳴ったのは気のせいかと、再び布団に潜り込もうとしたが、今度は勢いよく布団を剥がされ、佳世は驚いて目を見開いた。

「え、何!?」
「おはよう、佳世」

そして降り注ぐ柔らかな低音、佳世が顔を上げると、そこには朝日を浴びていないのにも関わらず、キラキラと輝くたつみの微笑みがあった。それを間近で受け止めた佳世は、途端に頬を真っ赤に染め上げると、悲鳴を上げて飛び起きた。

「な、な、な…!」
「ほら、早く顔を洗っておいで。早朝ランニングするって言ったろ?」

困った様子で腰に手を当てる巽を見て、これは巽ではなくミカだと思い出す。そして、オーディションまでの間、演技指導をつけると言われた事も。

理解はしたが、それでも佳世のダメージは大きい。
何はともあれ、寝起きに巽の姿はやめてほしい。これが毎朝続くなんて、想像しただけで心臓が壊れそうだ。佳世がそんな思いで睨みつけるも、ミカはこんな時ばかり察しが悪く、早く早くと佳世を急かしている。佳世は仕方なくミカに従った。



まだ薄暗い空の下、ミカの後について行くと、やって来たのは土手だった。まだ町は静かだが、どこからともなく車の走行音が聞こえ、土手の上ではランナーとすれ違う。佳世はいつもなら寝ている時間だが、もう町は起きて活動を始めているようだ。

だが、さぁ頑張るぞとは、なかなか思えない。

これから土手の上を走る訳だが、土手に来る道中も走って来たので、運動をろくにしていない佳世は既にへろへろだ。「ほら、早く早く」と急かすミカは、疲れた様子も見せず、その足取りは軽やかだ。その姿を恨みがましく見つめつつ、佳世はその後に続いた。
これは筋肉痛確定だなと、ミカの後をついていけるか早速怪しくなってきた頃、不意にミカが走る速度を緩めた。

「きれいだな…」

その声に、よろよろと顔を上げると、空に朝焼けが広がっていた。薄雲から照るオレンジの明かりがキラキラと優しく輝いて、振り返ったミカと目が合う。巽を真似た瞳に、オレンジの明かりが差し込んで、美しいもの全てに愛されているような彼に見惚れてしまった。

「ほら、ちんたらしないよ」
「わ、分かってる!」

そう言いながら、こちらを気遣って走ってくれるミカに、佳世はそっと頬を緩めた。



***



それからは早寝早起き、仕事からは直行直帰の日々だ。怠っていたスキンケアも入念に、食生活改善とロードワーク、発声やエチュード練習など、怠けた身としてはなかなかにハードな内容だったが、不思議と楽しんでいる自分がいた。

「あの劇団、童話とかやったことないと思うけど…」
「教材はなんだっていいだろ」

青春映画のように川原で夕日に向かい、古典的な練習もさせられた。勿論、注目は集めまくりだ。なんせ佳世の芝居以上に、ミカの格好が目立ちすぎる。

この日の題材は、眠れる森の美女で、それを意識してなのか、ミカの出で立ちはキラキラの王子様衣装だ。しかもそれが、どうしてか似合ってしまう。

これは人目に晒されても動じない訓練だ、そう言われてしまえば反論も出来ないので仕方なくそのままにさせているが、正直なところ、巽の格好でおかしな事をするのはやめて欲しい、もし、巽を知る人が見たらどう思うのか、いくら住んでいる場所が違えど、巽本人とだって鉢合わせしないという確証もないのだ。だから佳世は、ハラハラして仕方なかったのだが、ミカの芝居が始まると、そんな気持ちもすっとどこかへ押しやられてしまった。

ミカの芝居に圧倒されていたからだ。彼の演技力は巽と同じ、いやそれ以上かもしれない。

役によって、表情や体の動かし方まで全然違う、心根から役に染まっているような、舞台のセットなど一つもないのに周りの背景まで見えてくるようだ。それでいて、自分勝手じゃないのが素人同然の佳世にも分かる。佳世がしどろもどろになっても、それが自然の流れだったかのようにフォローをして、さりげなく軌道修正をはかる。ここが舞台なら、佳世はさぞ助けられた事だろう。

でも、相手は猫だ、化け猫だ。
佳世はそれが、何だか面白くない。フォローされるのは自分の力不足のせいなのは分かっているが、それでも悔しいものは悔しい。

その悔しさが思いがけず態度に出してしまうと、「そうそう、本気出てきた?」と、ミカは楽しそうに言う。完全に見透かされている、そう思えば、佳世の中には闘志がメラメラと燃えたぎるようだった。

猫のくせに、芝居が出来るなんて本当に何者なのだろう。


それに、ミカの才能は、芝居だけではなかった。
ミカは家事についてもとても優秀だった。料理や洗濯、掃除にと何でもこなせるし、買い物に行っても食材の目利きに予算も上手く使ってくれる、重い荷物を持つのにも一役買ってくれた。しかも、それを苦もなく率先してやってくれるし、仕事をして帰ってくる佳世を気遣ってくれているようだった。
芝居の上では、ミカには敵わない事ばかりで腹立たしいが、その他の事については、助かる事ばかりだった。



そして、今、この時も、ミカはその家事の才能をいかんなく発揮している。
包丁さばきも板につき、料理をする手は淀みない。
それにと、佳世はチラリとフライパンを振るうミカを盗み見る。
ミカだと分かってはいるが、その姿は巽そのものだ。七分袖から覗く腕も、細身ながらもしっかりした体つきも楽しそうな横顔も、見れば見るほど巽でしかなく、佳世は嫌でもドキドキしてしまう。

巽と共同生活をしたらこんな感じだろうかと、つい夢を見てしまう、いや、夢を見ない方がおかしいだろう。


「何だ?そんなに空腹か?」

思わず凝視していると、ミカが不思議そうに首を傾げるので、佳世は「ち、違います!」と慌ててキッチンを離れ、テーブルの準備を始めた。

「僕の料理の腕前は天下一品だからな、完成が待ち遠しくなる気持ちは分かるよ」

自信満々で上機嫌な背中に、佳世は途端に気が抜けて溜め息を吐いてしまう。

巽との同棲気分に浸れるのも、ミカが口を開かない間だけだ。口を開けば、目の前の巽はミカでしかなく、せっかくの夢見心地も一気に冷めてしまう佳世だった。



「はい、今日はチャーハンにしたよ」

だが、それでもご飯は美味しい。青野菜が入った具沢山のチャーハンは、野菜がシャキシャキして米もパラパラとしている、まるでお店の味だ。佳世が「美味しい!」と目を輝かせれば、ミカは満足そうに頬を緩めた。

「猫のくせに、一体どこで覚えたの?」
「くせに、とは何だ。化け猫だって、やる時はやるんだよ」
「だから、料理はどこで覚えたの?」
「見様見真似でやっただけだよ」

ミカは平然と言ってのけるが、佳世は絶対嘘だと思いながら、スプーンを口に運んだ。見様見真似でプロの味が出せるなら苦労はない。

本当に、彼は何者なのだろう。もしかしたらミカは、こんな風に人に化けて生活した時期があったのだろうか。

佳世は、対面に座ったミカに視線を向ける。安い食材で作ったチャーハンを食べるミカは、まるで高級店でディナーをいただいているような上品な手つきで、スプーンを口に運んでいた。


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