劇場の紫陽花

茶野森かのこ

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劇場の紫陽花 11

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***


オーディションの結果はその日の内に伝えられる。残念な事に、結果は不合格だった。当然といえば当然の結果かもしれないが、意気込んでいただけに落ち込みは深い。

「…はぁ、ミカになんて言えばいいの…」

“ヒロイン役を取ってくる”なんて宣言しておいてこの様だ、ミカにあわせる顔がない。

ふらりと劇場の中庭に出た佳世かよは、落ち込みのままベンチに腰かけた。劇場内からは悲喜こもごもな声が聞こえてくる、ヒロインになれなくても役がついた人はいるようで、何にも掴めなかった佳世はますます落ち込んだ。

あんなに協力してくれたのだ、この結果に、きっとミカも残念がるだろう。自分もミカに悲しい思いをさせるだけだった、こんな自分に、ミカが落胆して、もし部屋を出て行ってしまったらどうしよう。

「……」

そこまで考えて、佳世ははっとして顔を上げた。

いつの間にか、日常にミカが居る事が当たり前になっている事、その日常を壊したくないと思っているのだと、佳世は今、唐突に気づいてしまった。

「いや、待って、相手は化け猫なんだってば」

そう自分を笑ってみても、ミカのいない日常を想像する事は困難だ。いつの間に、側にいて欲しいと望むようになっていたのだろう、相手は化け猫なのに。

けれど、正体が何であっても、ミカはミカでしかない。

そう思ったら、胸の奥が不思議なくらい熱くなって、どうしてか落ち着かなくなる。まさかそんな、相手はミカなのに。


「お疲れー」

そんな風に、一人であたふたとしていれば、佳世の肩にポンと手が乗った。驚いて佳世が振り返ると、そこに居たのは、劇団の昔馴染みの先輩、絵美えみだった。

「絵美さん!」

絵美との再会に、佳世は驚くと同時にその目を輝かせた。絵美は、以前は長かった髪を切ってショートヘアにしていたが、それ以外は以前と変わらない。飾らない笑顔に、その装い。いつも不安があると話を聞いてくれて、劇団の中でもお姉さん的存在だった。

「久しぶりだね佳世!元気にしてた?」
「はい、」

元気に返事をしようとしたが、気持ちは空回り、笑顔だけをはりつけた腑抜けた返事になってしまった。絵美も佳世のオーディション結果を知っているのだろう、気遣うように背中を撫でてくれた。

「お疲れ様。でも、まさか佳世がオーディション受けにくるとはねー。どういう風の吹きまわし?」
「それは…たつみ先輩に偶然会って、もう一度挑戦してみようかなって」

まさか、正体不明の化け猫にせっつかれて、とは言えない。

「何よー巽先輩って、もしかしてあんたの彼氏?」
「…え?」
「恋の力かー。成る程ね。昔から佳世は妙に目を引く存在だったけど、自信がないのか周りと調和してばかりだったでしょ?でも、今日は誰よりも自信と熱意に溢れてさ、不器用な芝居が絶妙に佳世の魅力を煽ってくるのよね」

そんな風に思われていたなんて初めて知った。芝居が下手という言葉を、“不器用な”と変換してくれたのは絵美の優しさだろう、それでも、自分にも何らかの魅力を感じてくれていたのかと、普段の佳世ならその胸を喜びに満たして、下手したら泣いていたかもしれない。それくらい、絵美の言葉は嬉しいものだった。

それなのに、その気持ちも、目の前の違和感に掻き消されていく。

だって絵美は、巽の事を知らないと言っている。

「…あの、絵美さん、」

まさか、そんな筈はない。佳世はきっと聞き間違いだろうと絵美に尋ねようとしたが、タイミング悪く、劇場の中から誰かが絵美を探している声が聞こえてきた。恐らく劇団の関係者だろう。

「あ、ごめん、行かないと。私、今劇団の衣装作ってるの。佳世とまた一緒に舞台作れたら嬉しいよ」

待ってるからねと、そう笑顔で去って行く絵美を見送り、佳世は呆然とその場に立ち尽くした。

恋の力とか、そこに引っ掛かりを覚える余裕もなかった。
どう考えても、絵美が巽を知らないのはおかしい。知らないわけがない、だって絵美と巽は一緒に稽古をして、舞台に立っていたのだから。

「…ミカ」

先程のミカの眼差しが、不意に脳裏に甦る。自分を見ているようで、誰かを見つめているような悲しく揺れるあの眼差し。
それを思い出すと、佳世は弾かれたように走り出した。ミカに会いに行かなければと思った、そうしなければ、ミカがどこかへ消えてしまう気がしたからだ。

「え、」

だが、走り出した足はすぐに止まった。背中に傷のある黒猫が、佳世の脇をすり抜けて行く。

「ミカ…!」

中庭から劇場内に入って行く黒猫を、佳世は慌てて追いかけた。あの猫は、きっとミカに違いない。

「待って!ミカ!」

先程別れたばかりの絵美の脇をすり抜けて、黒猫の後を追って行く。“関係者以外立ち入り禁止”の札には躊躇したが、階段に張られたロープをくぐり二階へ向かった。古い劇場だからか、走れば床が頼りなく軋む。そういえば、二階へ上がった事は劇団員時代もなかった。

ミカは目的があるように、ある部屋に飛び込んだ。

「ミカ!あなた何か隠して、」

部屋に飛び込んで、佳世は言葉を飲み込んだ。そこには、ガラス窓を背に立つ巽が居たからだ。
その姿を見て、佳世は胸にあった疑問の答えを得た気がした。あぁ、やっぱりと思う半面、もうミカとは会えなくなるような予感がして、胸がどうしたって騒いで落ち着かなくなる。

「…絵美さんが、巽先輩を知らなかった。ミカ、あなた、誰なの」

それでも、確かめなければならない。それを、ミカも望んでいるような気がした。そうでなければ、猫の姿で誘い出したりしないだろうと。

「…僕は僕だよ。君の知るミカであり、忘れ去られた巽だ」

ミカはそう言って両手を広げる。背後の窓から夕日が差し込み、ミカの体を微かに照らし出す。それが、ただただ美しくて、現実にあるもののように思えなくて、ミカがこの美しさに消えてしまいそうで。そう思えば、胸の苦しみが佳世の全身を包み、手を、体を震わせていく。佳世はそれに耐えるように、ぎゅっと拳を握った。

「僕はもう、人ではなくなってしまった。この劇場の亡霊みたいなものだよ」

寂しそうに笑うミカに、佳世はその事実に驚く事も怯える事もなく、ミカに歩み寄る。震える手をどうにか伸ばし、ミカの手に触れてほっとする。温かい、佳世が知るミカの温もりが手のひらに伝い、佳世の震える心を少しだけ落ち着かせてくれるようだった。

ミカは、ちゃんとここに居る。
ミカは、どこへも消えたりしない、巽だって皆の中から消えたりしない。

佳世は、生まれた不安から視線を背け、心の中で必死に願いに頷いて、きゅっとミカの手を握った。



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