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桜と星と初こいと24
しおりを挟むそれから数日後、槙はぼんやりと学校の廊下を歩いていた。手には生徒達の頭痛の種である、プリントの束を抱えている。
悩んでいても日々は続く。毎日は忙しいし、夜は寂しく思っても、朝になれば慌ただしい一日の始まりだ。
織人もまだ真面目に授業を受けているようだが、あれから槙のアパートにやって来る事もない。織人に距離を置かれていると感じてしまえば、バイト先に様子を見に行く事も、二の足を踏んでしまい、最近は、まともに会話も出来ていない。
可愛い弟が、いよいよ自分の元から離れるのか。
それは、槙にとっても望む事だ、間違って自分なんかを好きになったりしないで、ちゃんと、もっといい人の側にいるべきだ。
槙はそう自分に納得させ、こんな風に自分を納得させているのも、弟が離れていくのが寂しいだけだと、また自分を納得させて。だが、それをいくら繰り返しても、どうしても胸がもやもやとしてしまう。
「ぼーっとしてると転ぶぞ」
階段を上がる途中、いつぞやのように声を掛けられ振り返ると、階段の下には織人がいた。槙は驚くと同時に駆け寄ろうとしたが、案の定足を縺れさせ、体が宙に浮いてしまった。
「え、」
「槙!」
それに驚いたのは織人も同じだ。こちらを振り返ったかと思えば、そのまま倒れてくる槙を見て、織人は慌てて階段を駆け上がり、その体を受け止めた。
まるで、織人の体に飛びつくような格好になってしまったが、どっ、とぶつかる衝撃も織人の胸に吸い込まれ、槙の体はすっぽりとその腕の中に収まってしまった。
お陰で顔面から床にめり込む事はなかったが、両腕を広げて真正面から織人に飛び込んだので、持っていたプリントを華麗にばらまいた挙げ句、階段の周囲でその様を目撃した生徒には、盛大に笑われてしまった。
「何やってんの槙ちゃん!」
「相変わらずどんくさーい!」
「都築先輩カッコいい…」
それに、「え」と反応したのは槙だ、誰か織人をカッコいいと言っていた。自分が笑われるのは気にならないが、織人の事をついさっきまで考えていたからか、槙の耳は目敏くその言葉に反応していた。しかし、織人がそれに気づいた様子はなく、槙の耳元には溜め息が聞こえてきた。
「なんで注意したのに転ぶんだよ」
「う、うるさい!ありがとな!」
はっとした勢いに任せ、反抗と感謝が同じテンションのまま言葉が出た槙に、織人は思わずといった様子で笑った。久しぶりに見た笑い顔に、何だか胸が騒めいて、満たされていくような気さえするから落ち着かなくなる。
「盛大にばらまいたな」
槙とは逆に、織人は落ち着いた様子で槙の体から手を離すと、床に散ったプリントを拾い始めた。
近くの生徒も、「仕方ないなー」と言いながらプリント拾いを手伝ってくれる。槙は「ごめんごめん」と、慌ててプリントを拾いながら、そっと織人の背中に目を向けた。
その背中からは、怒ってるとか、気まずそうといった様子は何も感じられない。いつもの織人と変わらないのに、それならどうして距離を置かれているように感じるんだろうと、槙はまた胸の奥がもやもやとして落ち着かなかった。
もう、自分に興味がなくなったからだろうか。片思いも実らず、兄としても頼りないなら、織人が自分に興味をなくしても仕方ないのかもしれない。
そう思えば、なんだか胸の内に冷たい棘が刺さったみたいで、槙はそれ以上、織人を見ていられなかった。
「気をつけてよー、槙ちゃん」
「うん、ありがとうな」
生徒からプリントを受け取ると、槙は戸惑いつつ織人を振り返った。
「ん」と、拾ってくれたプリントを渡されたが、槙は顔を見る事が出来ず、俯きながらどうにか笑顔を浮かべて礼を言った。しかし、俯く槙を不思議に思ったのか、織人が顔を覗き込んできたので、槙は驚いて飛び退いた。
「わ、近!」
「また転ぶって」
「お、お前が!」
そう言いかけて、視線を合わせれば上手く言葉が紡げず、槙はうろうろと視線を彷徨わせた。
槙の様子のおかしさは恐らく織人に伝わっているのだろう、再び溜め息の気配がして、槙はきゅっと胸を痛めた。きっと、呆れて行ってしまうのだなと思っていれば、予想に反して、俯く頬に手が触れた。
「ちゃんと飯食ってんの?」
「え…、」
「それに、寝れてる?」
織人は少し屈んで、俯く槙の表情を心配そうに覗き込む。親指が頬の上をなぞっていくので、恐らく目の下に出来た隈を見て心配しての行動だろうが、それすら上手く受け止められず、槙は慌ててその手から逃れた。
「く、食ってるし、寝てるから!」
いつも通りを心掛けたが、笑ってみせる筈の顔は引きつってしまった。織人は訝る視線を向けていたが、やがて納得したのか、それとも諦めたのか、「ならいいけど」と踵を返した。その背中を見たら、無性に寂しさがこみ上げてきて、槙は思わず声を掛けていた。
「あ、なぁ!」
「何?」
だが、振り返った織人はやはり普段と何ら変わらない様子で、その顔を見たら、槙は何も言えなくなってしまった。
「…いや、なんでもないや」
そう言うと、織人は少し首を傾げただけで、そのまま行ってしまった。
自分の家にも来なくなって、学校に来ても顔を合わす機会も少なくて。それなのに、織人は以前と何ら変わらない。
おかしいのは自分の方だと気づかされたみたいで、何も言葉が出てこなかった。
触れられた手に甘えそうになって、その支えがもう自分の元にはないと思ったら、その現実を認める事が怖くなった。
今だって、たまにはうちに来ないかと言いそうになった。それよりも、聞く事があるだろう。バイトは忙しいのかとか、根をつめてないか、体を壊してないかとか。
織人の為に聞く事は、いくらでもあるのに。
「…自分の事ばっかだな、俺」
織人の気持ちを受け取れないと突き返したのは自分だ、いずれは距離が出来る事は分かっていた筈なのに。
織人に、もう頼っちゃいけない。そう思えば、不意に文人の姿が頭を過った。
昔もこうやって、自分中心に物事を考えていなかっただろうか。文人に気持ちを押し付けていなかったか、無理な選択を迫った事はなかったか。もしかしたら、自分が覚えていないだけで、いや、自分の存在自体が、文人にはやはり足かせになっていたのかもしれない。
槙は無意識に胸元のネックレスを握りしめた。
家族への愛と、自分への愛。それを天秤にかけた時、傾いたのはどちらだろう。選びきれずに、文人は自身の命を捨ててしまったのだろうか。
それとも、文人は優しいから、愛してもいないのに自分の事を突き放せなかったのだろうか。文人のお陰で学校に通えて、勉強をして、そんな生徒に迫られて。もし突き放したら、また学校も勉強も放り出すかもしれないと、無理をして合わせてくれたのだろうか。
そんな優しさいらないのに、構わず俺を切り捨ててくれたら良かったのに。
槙は、ぎゅっと唇を噛みしめると、足早に階段を駆け上がった。
文人をこんな風に失うくらいなら、振られる方がずっと良い。手酷く振ってくれたら、きっと諦められたのに。
「…諦め、られたかな」
今だって、まだ手放せない。痛みになって傷になって、絶対消えないようにと、槙は更に深く傷を抉っている。その痛みの先に、どうしてか織人の姿が見えて、槙はその姿を懸命に頭から追い払った。
揺れるなと、槙はただ自分に言い聞かせていた。
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