蔦屋と写楽

坂本 光陽

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五月興行③

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 蔦屋の耕書堂こうしょどうは日本橋通油町とおりあぶらちょうにあり、洒落本や浮世絵などを手掛ける有力な地本問屋じほんどんやとして知られていた。

 誰よりも早く目を覚まし、静かな通りを散歩するのが、蔦屋重三郎の密かな健康法になっている。四〇を超えた頃から身体のあちこちが痛むが、今日も多くの仕事をこなさねばならない。

 耕書堂の前に戻ってくると、薄汚れた男が顔を伏せてうずくまっていた。
 酔っぱらいか? 立ち退かせようと歩み寄っていくと、そいつが顔を上げた。
「蔦屋殿、できましたよ。版下絵、二八枚だ」
 
 十郎兵衛だった。頬がこけて無精ひげを伸ばしているが、その眼は爛々らんらんと光り輝いていた。しばらく見ない間に、こんな表情をするようになったのか。蔦屋の驚きは、それだけにとどまらなかった。

 大広間の畳の上に広げられた二八枚の版下絵を前にして、蔦屋は腕組みをしたまま、茫然としていた。もちろん、版下絵の迫力に圧倒されていたのだ。

 こんな役者絵は見たことがなかった。たどたどしさが残る線は相変わらずだが、大胆に誇張された役者たちの個性は、他の絵師にはなかったものだ。この場合の「個性」は「毒」と言い換えてもいい。

 人気女形の「ぐにゃ富」こと中山富三郎の表情は不気味だったし、三代目大谷鬼二と市川男女蔵の感情もむきだしである。舞台上で見せた演技そのままの臨場感だった。
(この素人絵師に賭けた俺の眼に狂いはなかった)
 目の前の二八枚は間違いなく、十郎兵衛にしか描けない役者絵である。

「蔦屋殿、いかがですか?」
 十郎兵衛から声をかけられて、蔦屋は我に返った。
「……いける。これなら、いけるぜ」
 喉の奥から絞り出すようにそう言うと、十郎兵衛に向き直った。

「間違いなく、今まで見たことのない役者絵だ。よくぞ、描いてくれた。俺は一目で惚れこんじまったぜ。こういう絵が欲しかったんだ」
 蔦屋は十郎兵衛に向かって、両手をついた。
「斎藤十郎兵衛殿、まさに型破りの役者絵だ。これなら江戸じゅうをあっと驚かせることができる」

 この時、蔦屋は初めて「十郎兵衛」と正しい名前を口にした。しばらくして、そのことに十郎兵衛は気づいた。ようやく絵師をして認められたということだろう。それは同時に、東洲斎写楽誕生の瞬間でもあった。

「ん、どうしたい、斎藤殿」
 蔦屋が怪訝けげんな顔で訊ねたのは、十郎兵衛の眼に涙が浮かんでいたからだ。
「いや、何でもありません」そう言って、指先で目元をぬぐった。「蔦屋殿、次は何を描けばいいですか?」
「そう急かさんでくれ。まずは、この版下絵から版木をつくる。彫師を待たせてあるんだが、この絵を見たら度肝を抜くだろうな」

 浮世絵版画は分業によって作られる。彫師は版下絵をもとに版木を作り上げ、摺師が版木を使って版画を摺り上げるのだ。絵師が担当するのは、版下絵の作成と色の選定だった。

「斎藤殿、この二八枚には耕書堂の命運がかかっているんだ。ドカンと勝負をかけてやるぜ。背景はすべて、雲母摺きらずりでいこう」

 雲母摺とは、ニカワ液に雲母粉きらこ貝の粉末を溶かしたものを刷毛で塗り付けること。豪華な雰囲気を出すために考案された手法である。

「その他の色に関しては、斎藤殿の受け持ちだ。想を練っておいてくれ」
「承知しました。早速とりかかりましょう」
 そう言った時、十郎兵衛の腹が鳴った。
朝餉あさげをつきあってくれ。どうせ何も食ってねぇんだろ?」

 蔦屋が大きな笑い声をあげたので、十郎兵衛もつられて笑った。
 二人の仕掛ける浮世絵は、はたして、世間をあっと言わせることができるのだろうか?
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