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揺蕩う夏オトズレ 6話放置/気紛れ兄+電波ワンコ弟/いとこ双子姉弟/百合要素
揺蕩う夏、オトズレ 1 夏の山で出会った不思議な兄弟といとこの双子姉弟に迫られる話。
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瑞々しい葉が光芒を隠しながらそよぐぎ、きらきらとさんざめいている。山道というほど急激な傾斜はなかったが、都会に暮らす霞澄にとっては慣れない足場であった。しかしクーラーを開け放つ店はなくとも緑を帯びた濃い影や微風、せせらぎの音などで涼しかった。そういう気分だけの問題でなく、夏日にしては気温自体、十分と涼しい土地である。
彼女は学業が一段落し、夏休みは避暑も兼ね、いとこの笠子深青の家を訪れていた。霞澄と同い年の女の子で、会うのはおよそ6年ぶりで、この地に来るのはさらに久しい。笠子家に挨拶を済ませ、霞澄はひとり懐かしさのある緑生い茂る道を散歩していた。この点において、2人は互いに何の疑いも持たぬほどマイペースだった。家族もまた、決して薄情な性分ではないけれど、良くも悪くも放任的であった。霞澄もそういうところが関わりやすかった。治安は良いようで、また、慣れ親しんだ土地の危うさというものを疑っていない様子だった。スマートフォンの電波も通信に困るほどではない。霞澄からしても危ないことをしようという魂胆はまるでなかった。
セミの鳴く小路を通り抜けていく。向かい側から花束を抱えた男がやって来る。霞澄も知っている。この先に墓地がある。彼女の知っている限り、遺跡のような様相で、住宅街に突然設けられている都会の墓園とは違った。
「こんにちは」
都会の仕草よろしく無言ですれ違うのは何か気拙い。こういう土地ではそういう心理が不思議と働く。霞澄自身がそこまで人見知りというわけではなく、物騒な世の中の防衛のため無視・無言を貫くという教育方針を取っていなかったこともある。
「おう、こんにちは」
遠目に見るとかなり若く感じられたが、近付くと中年の渋みが刻まれている男は日に焼けた面構えからそう印象と違わない、いくら豪胆な、悪く捉えると横柄な態度で挨拶を返した。花束はやはり種類からいって墓に供えるものらしかった。線香の匂いが鼻腔に届く。この先には墓地があり、さらにこの時期では珍しいことではない。死者が還ってくるという文化で、寺の稼ぎ時である。まだその期間には至っていないが、あらゆる事情によって多少は前後するものだ。
霞澄はそう大きくなく、山というのも憚られるような山の頂上を目指した。土地勘のある者ならば簡単な登山の経験がなかろうと散歩道といっても差し支えない。目の前を猫が横切り、こちらを向いた。人を小馬鹿にした顔で、何も見なかったかのように茂みへ入っていく。彼女は逃げるか逃げまいか試そうと猫を追った。道から外れるがそう簡単に迷うような場所ではない。しかし―
道に迷ったのかは、定かでない。少し外れただけでしんと自然の荘厳な感じをまざまざと見せ付けられた。鳥の囀りと、どこか遠くなったセミの声、それらが吸収されていくような空気感に、せせらぎが聞こえる。木々の濃い陰に呼ばれているような気がした。柔らかな土を踏む。
「おい、彼女」
花束を抱えたあの中年男性が戻ってきた。人気のない場所で異性に話しかけられると、特に年長者に話しかけられると身構えてしまう。彼は不用意に近付こうとはせず、そこに留まる。
「気ィ付けろぃや。その先行くと川があっから……苔が生してんでさ。コケ~りすっ転んで、足滑らせんようにな。なんせ、人気がねぇ。助け呼んでも誰も分からんぜ」
男はがははと剛気に笑ってまた麓のほうへ歩いていった。善意であった。警戒したことにいくらか罪悪感を覚えた。霞澄は茂みの奥に行く気を削がれ、線香の匂いが残る墓地だけ見て、いとこの家に戻った。
深青はクーラーのよく効いた部屋で漫画を読んでいた。
「おかえり霞澄ぃ。山なんかほっつき歩いても楽しくなかったでしょ。アイスでも食べればぁ?」
長い素脚をぱたぱたと揺らし、彼女は漫画本を閉じる。
「イケメンでもいればいいんだけど、いるわけないね、こんな山ん中に」
吊り気味の大きな目がちらと霞澄を見た。
「霞澄、いい男いたら紹介しなさいよ」
「うん……」
そう言う深青の4つ離れた兄は地元を出ているが、眉目秀麗な人物で彼を差し置いて霞澄も"いい男"はなかなか見つけ出せない。さらには深青にはやはり見目の良い双子の弟がいる。彼もまたこの地元を離れている。2人の美男子に囲まれ、父親もまた中年を過ぎても若き日のハンサムな面影を色濃く残している。この同性のいとこの目が肥えるのも無理はない。或いは、霞澄とは違う趣味嗜好をしている場合もある。
「霞澄はカレシとか興味ないか」
彼女はカレシが欲しいらしかった。外見でいえば、艶やかな髪、大きな目、小ぶりな鼻に形の良い唇、長い手脚に小顔では、霞澄の感覚からすると美少女といっても言い過ぎではなかった。美女というべき年齢かも知れないが、幼少期を知る立場のためか、まだ少女然としている。しかし性格に難があるようだった。霞澄が見る一般的な男性というものは、深青のような気の強い、大雑把で積極性と自信のある女は好まない。
「そういえば、山の散歩道の外れに川があるの?深青ちゃん、知ってる?」
「あ~ある。昔あそこで親父たちと魚獲ったりしたし」
「危ないの?」
「上流は危ないんじゃね?溺れて死んだ子いたし。なんで?霞澄、川遊びしたいの?プール行く?」
いとこの目がいくらか不審に翳った。霞澄は首を振った。
「お墓参りに来る人、いるんだね」
「そりゃ墓あれば墓参りに来る人もいるでしょ。無縁仏じゃなかったよね?誰かいた?」
「おじさんが来てた」
「おじさんか。まぁ素敵おじ様ならいいけど、素敵おじ様はこんなところに墓なんか持たないか。ああ、でも、たとえばハイキングが趣味で、先立たれた妻との思い出があるこの土地にわざわざ墓を買ったとか?それなら素敵ね。どれくらいのおじさん?息子とかいなかった?」
「40代くらいかな?日焼けしてるおじさん。1人だけに見えたけど」
彼女は明らかな、しかしパフォーマンス的な落胆をみせる。
「ま、気を付けなさいよ。人にも山にも」
そして日が暮れ、笠子家の団欒の中で夕飯を食らう。
深青のベッドの横に布団を敷き、クーラーの音の中で寝入っていると、ふと線香の匂いがして目が覚めた。布団を捲る。クーラーの息吹の他に、耳鳴りみたいに川のせせらぎが聞こえた。少し遅れてベッドの上でも動きがあった。
「枕変わると寝らんない?」
深青も起きていた。
「起こしちゃった?ごめん」
「いんや、別にあんたはカンケーない。クーラー寒くね?喉痛くなっちゃっただけ」
彼女はベッドから降りて壁に掛かっているクーラーのリモコンを操作する。室内の空気の流れが変わったのか、線香の匂いは消え、風変わりな耳鳴りも治まった。
「あーしと一緒に寝る?」
ベッドに戻ったいとこは布団を開いた。彼女の甘い匂いがする。
「大丈夫。楽しくて、早くに目が覚めちゃったのかも」
「3時だし。早過ぎだっての」
そうして迎えた朝の飯にはコーンビーフと卵を炒めたものにマヨネーズをかけてトーストで挟んだものとオレンジジュース、デザートにミニトマトが出た。深青は相変わらず部屋に籠っていたが霞澄は家事を簡単に手伝ってからまた山へと出掛けた。運動不足で少し太った感じがある。笠子家の飯は美味く、また家の面々は痩身にもかかわらず糖分や脂質について寛容だった。菓子やアイスや甘い飲み物が大量に用意してあった。霞澄もつい誘惑に乗ってしまうのである。同じ散歩道を歩くつもりだった。外ではセミが喧しく歓迎していた。玄関で靴を履いていると深青が後ろに立つ。
「まぁた散歩?飲み水持っていきなよ。頂上さん宅の商店、もうやってないんだ」
"頂上さん宅"とはこの山の頂上にある家2軒のことでそのうちの片方の家が小さな商店を営んでいた。この道の裏側は地域の子供たちの遠足として使われ、登山道として解放されていた。さらには自動車用道路も敷かれているから搬入については大して難儀しない。霞澄がその商店に最後に行ったのはかなり昔である。朧げに内装を覚えている。藤棚なんかもあった。
「今、どうなってるの?」
「あ、あーしの口から聞く?」
「やっぱ自分で見てくる」
「ま、ムリしないことね。都会の風に慣れちゃって身体には、こんな半端な山でもハードなんだから。スポーツドリンクあるから持っていきなさいよ」
彼女は踵を返し、台所に入っていき霞澄へよく冷えた有名なメーカーのスポーツドリンクを差し出したかと思うと手をすり抜け、伸縮性と通気性に優れたパンツのポケットに捻る込んだ。
「ありがとう」
「何かあったら連絡することね。迎え行ったげる」
「うん。そうならないように気を付けるよ」
意外と深青は面倒見が良い。サンダルにインディゴブルーのペディキュアが塗られた足を突っ掛け、霞澄を見送った。
昨日と大体同じ地点であの中年男とすれ違う。今日は手桶を持っていた。
「こんにちは」
また同じように挨拶をする。相手も昨日口を利いた人物と分かったのか、いくらか砕けた態度で挨拶を交わし、そして離れていく。線香の匂いが遅れてやってきた。振り返る。ばりばりとポロシャツの上から背中を掻く男の後姿が小さくなっていく。不思議な人だった。
頂上に行くまでには墓地の横を通った。そこも線香の匂いが濃く残っていた。木陰の下で濡れている墓跡が目に入り、それがあの中年男性の参った墓のようだった。他にも別のルートからこの墓地には合流するため、ただ霞澄が遭遇していないだけで、また別に墓参りをした者がいる可能性も十分にあり、断定はできない。墓地を通り抜け、暫く緩やかな勾配が続く。昨日引き返した場所も越している。あの墓参りの中年男性に言われるまでこの近くに川が流れていたことは知らなかった。そうこうしているうちに頂上へと着く。以前来たときとは大きく違っていた。道が整備され、溜池のような渋い緑色の沼には井戸を思わせる外構が築かれていた。深青の言っていたとおり商店は無くなっていた。建物自体が取り壊されていたのだ。今は廃材が積まれ、藤棚の残骸と思われる資材は錆びに錆びて霞澄の訪れなかった年月と、その間の雨風を感じさせる。代わりに別の場所に無人の休憩所が設けられていた。霞澄は基礎の跡を見つめ、記憶の中で商店の間取りをそこに馳せた。古めかしい銀紙に包まれたアイスが売っていたのを覚えている。ラムネ瓶も売っていた。小さな頃からたいそうな山に見えたが、大人になって登ると余程のことがない限り遭難者は出ないだろう。まず泊まれないことはなく、泊まる者もあるが、泊まらなければならないという規模ではない。野生動物もクマは出ず、最も危険なのはイノシシの突進である。そういう登山ともいえないような山だ。木々の作る陰の下、セミの声を聞き、目を閉じる。自然というには人の手が入り込み過ぎているが、それでも都会より贅沢な土地の使い方をしている。土を踏み、樹木は猛々しい根を張り巡らせて人を転ばせようと画策している。セミの抜け殻はあちこちに飾られ、トンボは上品に空を飛んでいた。洗われていく感じがある。汚れたつもりもないけれど。ここはそういう山だ。思い出がさらにどこのたいそうな山よりも、ここを高尚なものにする。
風景も随分変わって見えた。ソーラーパネルが空いた土地に敷き詰められ、知らない建物がぽつぽつ見えた。いつの間にかナイター設備の球場もできたらしい。相変わらず市役所は市内で最も高い。そしてこの地域で幅を利かせている大きな工場も数を増やしてはいるが、本部は記憶の中とそう変わりがない。遠くが薄らとブルーを帯びて透けていき、空と同化している。その果てに今は暮らしている。
霞澄は離れるのを惜しく思ったが、感じ取れるものは感じ取り切った気になった。まだ笠子家には世話になる。また来たくなればダイエットも兼ねて登ってくれば良い。どうせ、笠子家の魅力的な食の前には逆らえないのだ。それでいて夏休み明けに後悔するのが目に見えている。元来た山道を戻る。山頂から降りたとき、前に人はいなかったはずだがおそらくどこかの脇道から合流したらしく、視界から消えるか消えないかというところで他に下山者がいる。服装からして若く見えた。金をかけて装備を整えるような山ではないが、夏の緑の中である。虫は多く、転べば岩の剥き出した地面もある。枝も伸びている。しかしその者は膝から下が素足であるように見えた。その脚の形、歩き方や背格好、服装などからいうとまだ若いようだ。部活動の自主鍛錬だろうか。追うつもりはなかった。しかし道が同じなのである。そして先を行く下山者は道から外れて茂みに入っていった。歩き慣れた様子だったため、霞澄の意識からも外れていく。同時に、あの墓参り帰りの中年男性から自分がどう見られるのか分かってしまい、彼女はひとり苦笑した。先を歩いていた者が茂みに入っていった地点を通り越してすぐ、「うわぁ!」と悲鳴が聞こえた。谺する。霞澄はびっくりして声のほうに駆け付けた。せせらぎが聞こえ、そこには空気そのものがほんのりとグリーンを帯びているような澄んだ流れの小川があった。少年か青年か判断のつかない人物が尻餅をついている。夏霞の足元の近くで泥濘みに滑った跡があった。
「大丈夫?」
霞澄は腕を伸ばした。人懐こげな顔をした、快活そうな若い男は遠慮も人見知りもなく彼女の手に応えた。元々足場が悪く踏み張ることは難しく、相手は平均的な体格の男である。軽く彼女の身体は水面に引き寄せられた。若者の傍に落ちる。水が繁吹き、瞬く間に水に浸かった膝下と肘までが濡れていく。霞澄は同年代か、それか少し年下くらいにも思える若い男を瞥見する。無表情で、彼女を見下ろしている。日に焼けた髪と顔、やんちゃぶりを窺わせる頬の傷、大きな円い目、甘い印象を与える口元。犬のような風貌で、なかなかの好男子である。だが愛嬌の映えるその顔は表情が無いと退廃的な感じがある。ガラス玉みたいな大きな目に緑が揺れるのを霞澄は見つめていた。
「お~い、大丈夫け?」
まだ四つ這いになっている彼女は後ろからまた別の声がするのが聞こえた。振り返る。
「おいおいおい」
嗄れた声には焦りが満ち満ちていた。
「おい、彼女。大丈夫か?」
少し高くなったところからあの墓参りの男が木に手をついて見下ろしている。ちらと隣を見ると、先に川に浸かっていた若い男の姿などなかった。何の音も気配もなく、消えている。水の流れすら変わらなかった。
「あれ……?」
周りを見渡すが、忽然とあの若い男は姿を消した。
「足でも痛めたかぃや」
墓参り帰りの中年男性も霞澄以外の誰かを認識している様子はなかった。
「もう1人、いたんですけれど……」
霞澄のそれはほぼ独り言と化していた。小さなぼやきを豪放な感じのする30代後半から40代半ばといったところの男は聞き逃さない。
「もう1人?お嬢ちゃんの他に誰かいたんかい?」
人の好さそうな顔が厳しいものになった。
「はい……でも、流されたとかじゃないみたいです」
川の流れは緩やかだった。
「どんなやつ?男かい、女かい」
「20歳前後の男の人でしたよ。大学生か高校生だと思うんですが」
「……そうけ。タヌキに化かされたんと違うかい。エキノコックスには気を付けなはれ」
中年男性はガリガリと後頭部を掻いた。それからポロシャツでその手を拭くと霞澄に手を伸ばした。
「じじいの手触んのイヤだと思うけんども後でうんと洗いやっせ。おれぁ枡谷。不審者じゃねぇから先に名乗っとく」
筋肉質な腕が木漏れ日に瑞々しく照った。まだ強壮な肉体をしている。霞澄は硬い掌を頼った。霞澄は簡単に足を滑らせたが、彼からすると小娘ひとりを引き上げるのは容易いとばかりだった。
「スマヒョは無事け?」
黒々と、否、老化か日焼けか焦茶は混じるが白髪は今のところ目に入らない男は霞澄をじろじろと見たが、突然ばつが悪そうに顔を背けた。枡谷とか言っていた。霞澄はスマートフォンを入れたポケットがなんとか水没を免れ、起動することを確認する。
「ありがとうございました。今、これしかないですが……」
まだ口を付けていないスポーツドリンクを差し出すと、枡谷とかいう男は太い眉を顰めた。
「いくらちょいと涼しくても夏だべや。水分補給しねぇとまっじぃぞ。そりゃ受け取れねぇよ。他に飲みもんあんのかい」
「あ……でも、何かお礼がしたくて……」
「よせやい。別におれぁ無事だが、それもらってお嬢ちゃんが脱水症状なんてなっちまったら目覚めが悪ぃよ。無事帰りやっせ。それがお礼さな」
枡谷は霞澄から離れようとした。
「ま、待ってください。麓にわたしがお世話になっている家があるので、そこでジュースの1本くらい、お礼させてください」
「……ほぉ。ま、またタヌキに化かされちまうと大変だからな。その家まで送ってやらぁね。いいから、一口それ飲んで落ち着きやっせ」
彼は筋肉逞しい腕を組んだ。霞澄が手にするスポーツドリンクを飲むまで許さないという感じで、それは彼女を暑気中り患者か何かと決めてかかっている様子だ。霞澄からしても、他にあの不思議な人物の説明のしようがない。喉の渇きも眩暈も吐気もないが、暑気中りを認めざるを得ない。言われたとおりに未開栓のスポーツドリンクを飲んでいる間に続く熱中症がいかに怖いかについての講釈、蘊蓄(うんちく)からしてもそれを裏付けた。
彼は足元に置いた手桶をまだ持っていた。中にビニール袋に包まれた小さなコンビニ弁当みたいなものが傾くのも構わず入っている。霞澄がそれに目を止める。
「墓参りしてたんでさ。途中にあるんべ。あそこに菓子置き忘れて、戻ってきちまったっつーワケ。そしたらおまはんの悲鳴が聞こえたっつう話よ」
悲鳴を上げていたらしかった。そういう覚えはなかったが、恥ずかしくなってしまう。登山道に戻る。下山するときと、登るときでは見え方が違った。霞澄はそろそろ墓地が近いことに気付く。同時に、初めてこの男に注意された地点であることに気付いた。
「食うかい、みたらし団子。コンビニで買ったもんでも仏さんに供えたもんじゃ憚られるんべ」
枡谷は手桶をハンドバッグよろしく腕に引っ掛け、コンビニ袋の中を晒す。
「コンビニの食いもんは腐らんからな。まぁ大丈夫だんべ。カピカピになってたら悪ぃんね」
「さすがに悪いです。助けてもらって、お団子までいただいてしまうのは」
霞澄なりの本心だが、相手は婉曲的な拒否と受け取ったらしかった。しかし嫌な顔はせず、豪胆に笑う。
「そうけ。まぁ、こんな知らんじじいに食いもんなんぞ貰いなさんな。世の中物騒だからな」
線香の匂いを掻き分け、やがて笠子家に着く。枡谷は出てきた深青に親はいないか訊ねた。そして深青に引っ張られ、入れ違いに笠子の伯母が出てくる。深青に引っ張られ霞澄は風呂場に入る。
「も~、何してんのよ。あのおっさんが不審者だったらどうすんの?もっと危機感持ちなさいよ」
早々と下着に剥かれ、シャワーを浴びせられてしまう。脱衣所と浴室を仕切る戸が壊れ、撥水加工されたカーテンが掛かっている。
「こんなにびしょ濡れでさ。スマホ大丈夫?ああ、大丈夫ね。何、パスコード付けてないの?パスコードくらい付けておきなさいよ。覗くわよ」
いとこはカーテンの奥からきぃきぃと怒った。よくそこまで怒ることがあると感心してしまうほどだ。
「たまたまあのおっさんが律儀にうちまで挨拶しに来るような人だったから良かったもんを」
「……ごめん」
謝ると、いとこは少しのあいだ黙った。シャワーがタイルを打つ。
「変質者は、あんたみたいなのを狙うんだから」
追撃の止まらない喧嘩中の子供みたいだった。
「うん……心配してくれてありがとう」
「心配なんか、別にしてないし」
風呂から出ると、枡谷はもう帰っていた。すぐに彼から離れたことをいくらか済まなく思いながら深青に自室へ連れ込まれる。彼女は一人好きにみえてなかなか人懐こい。クーラーの効いた空間で火照った肌を覚ます。深青はベッドに座り、霞澄が保湿クリームを肌に塗り込み、着替えるのを眺めていた。
「頂上、見てきた?」
「見てきた。本当に、何もなかった。なんだか知らないうちに変わってて、ちょっとだけ……寂しいな。見下ろした街も」
「ふぅん。あんたは変わらないのにね」
霞澄は頬を膨らませて深青をみる。吊り気味の目が悪戯っぽく光る。
「あーしは別に、都会に擦れてなくて安心したケドね!」
故意的に嫌味たらしく言うものだからそれはフォローにはなっていなかった。
彼女は学業が一段落し、夏休みは避暑も兼ね、いとこの笠子深青の家を訪れていた。霞澄と同い年の女の子で、会うのはおよそ6年ぶりで、この地に来るのはさらに久しい。笠子家に挨拶を済ませ、霞澄はひとり懐かしさのある緑生い茂る道を散歩していた。この点において、2人は互いに何の疑いも持たぬほどマイペースだった。家族もまた、決して薄情な性分ではないけれど、良くも悪くも放任的であった。霞澄もそういうところが関わりやすかった。治安は良いようで、また、慣れ親しんだ土地の危うさというものを疑っていない様子だった。スマートフォンの電波も通信に困るほどではない。霞澄からしても危ないことをしようという魂胆はまるでなかった。
セミの鳴く小路を通り抜けていく。向かい側から花束を抱えた男がやって来る。霞澄も知っている。この先に墓地がある。彼女の知っている限り、遺跡のような様相で、住宅街に突然設けられている都会の墓園とは違った。
「こんにちは」
都会の仕草よろしく無言ですれ違うのは何か気拙い。こういう土地ではそういう心理が不思議と働く。霞澄自身がそこまで人見知りというわけではなく、物騒な世の中の防衛のため無視・無言を貫くという教育方針を取っていなかったこともある。
「おう、こんにちは」
遠目に見るとかなり若く感じられたが、近付くと中年の渋みが刻まれている男は日に焼けた面構えからそう印象と違わない、いくら豪胆な、悪く捉えると横柄な態度で挨拶を返した。花束はやはり種類からいって墓に供えるものらしかった。線香の匂いが鼻腔に届く。この先には墓地があり、さらにこの時期では珍しいことではない。死者が還ってくるという文化で、寺の稼ぎ時である。まだその期間には至っていないが、あらゆる事情によって多少は前後するものだ。
霞澄はそう大きくなく、山というのも憚られるような山の頂上を目指した。土地勘のある者ならば簡単な登山の経験がなかろうと散歩道といっても差し支えない。目の前を猫が横切り、こちらを向いた。人を小馬鹿にした顔で、何も見なかったかのように茂みへ入っていく。彼女は逃げるか逃げまいか試そうと猫を追った。道から外れるがそう簡単に迷うような場所ではない。しかし―
道に迷ったのかは、定かでない。少し外れただけでしんと自然の荘厳な感じをまざまざと見せ付けられた。鳥の囀りと、どこか遠くなったセミの声、それらが吸収されていくような空気感に、せせらぎが聞こえる。木々の濃い陰に呼ばれているような気がした。柔らかな土を踏む。
「おい、彼女」
花束を抱えたあの中年男性が戻ってきた。人気のない場所で異性に話しかけられると、特に年長者に話しかけられると身構えてしまう。彼は不用意に近付こうとはせず、そこに留まる。
「気ィ付けろぃや。その先行くと川があっから……苔が生してんでさ。コケ~りすっ転んで、足滑らせんようにな。なんせ、人気がねぇ。助け呼んでも誰も分からんぜ」
男はがははと剛気に笑ってまた麓のほうへ歩いていった。善意であった。警戒したことにいくらか罪悪感を覚えた。霞澄は茂みの奥に行く気を削がれ、線香の匂いが残る墓地だけ見て、いとこの家に戻った。
深青はクーラーのよく効いた部屋で漫画を読んでいた。
「おかえり霞澄ぃ。山なんかほっつき歩いても楽しくなかったでしょ。アイスでも食べればぁ?」
長い素脚をぱたぱたと揺らし、彼女は漫画本を閉じる。
「イケメンでもいればいいんだけど、いるわけないね、こんな山ん中に」
吊り気味の大きな目がちらと霞澄を見た。
「霞澄、いい男いたら紹介しなさいよ」
「うん……」
そう言う深青の4つ離れた兄は地元を出ているが、眉目秀麗な人物で彼を差し置いて霞澄も"いい男"はなかなか見つけ出せない。さらには深青にはやはり見目の良い双子の弟がいる。彼もまたこの地元を離れている。2人の美男子に囲まれ、父親もまた中年を過ぎても若き日のハンサムな面影を色濃く残している。この同性のいとこの目が肥えるのも無理はない。或いは、霞澄とは違う趣味嗜好をしている場合もある。
「霞澄はカレシとか興味ないか」
彼女はカレシが欲しいらしかった。外見でいえば、艶やかな髪、大きな目、小ぶりな鼻に形の良い唇、長い手脚に小顔では、霞澄の感覚からすると美少女といっても言い過ぎではなかった。美女というべき年齢かも知れないが、幼少期を知る立場のためか、まだ少女然としている。しかし性格に難があるようだった。霞澄が見る一般的な男性というものは、深青のような気の強い、大雑把で積極性と自信のある女は好まない。
「そういえば、山の散歩道の外れに川があるの?深青ちゃん、知ってる?」
「あ~ある。昔あそこで親父たちと魚獲ったりしたし」
「危ないの?」
「上流は危ないんじゃね?溺れて死んだ子いたし。なんで?霞澄、川遊びしたいの?プール行く?」
いとこの目がいくらか不審に翳った。霞澄は首を振った。
「お墓参りに来る人、いるんだね」
「そりゃ墓あれば墓参りに来る人もいるでしょ。無縁仏じゃなかったよね?誰かいた?」
「おじさんが来てた」
「おじさんか。まぁ素敵おじ様ならいいけど、素敵おじ様はこんなところに墓なんか持たないか。ああ、でも、たとえばハイキングが趣味で、先立たれた妻との思い出があるこの土地にわざわざ墓を買ったとか?それなら素敵ね。どれくらいのおじさん?息子とかいなかった?」
「40代くらいかな?日焼けしてるおじさん。1人だけに見えたけど」
彼女は明らかな、しかしパフォーマンス的な落胆をみせる。
「ま、気を付けなさいよ。人にも山にも」
そして日が暮れ、笠子家の団欒の中で夕飯を食らう。
深青のベッドの横に布団を敷き、クーラーの音の中で寝入っていると、ふと線香の匂いがして目が覚めた。布団を捲る。クーラーの息吹の他に、耳鳴りみたいに川のせせらぎが聞こえた。少し遅れてベッドの上でも動きがあった。
「枕変わると寝らんない?」
深青も起きていた。
「起こしちゃった?ごめん」
「いんや、別にあんたはカンケーない。クーラー寒くね?喉痛くなっちゃっただけ」
彼女はベッドから降りて壁に掛かっているクーラーのリモコンを操作する。室内の空気の流れが変わったのか、線香の匂いは消え、風変わりな耳鳴りも治まった。
「あーしと一緒に寝る?」
ベッドに戻ったいとこは布団を開いた。彼女の甘い匂いがする。
「大丈夫。楽しくて、早くに目が覚めちゃったのかも」
「3時だし。早過ぎだっての」
そうして迎えた朝の飯にはコーンビーフと卵を炒めたものにマヨネーズをかけてトーストで挟んだものとオレンジジュース、デザートにミニトマトが出た。深青は相変わらず部屋に籠っていたが霞澄は家事を簡単に手伝ってからまた山へと出掛けた。運動不足で少し太った感じがある。笠子家の飯は美味く、また家の面々は痩身にもかかわらず糖分や脂質について寛容だった。菓子やアイスや甘い飲み物が大量に用意してあった。霞澄もつい誘惑に乗ってしまうのである。同じ散歩道を歩くつもりだった。外ではセミが喧しく歓迎していた。玄関で靴を履いていると深青が後ろに立つ。
「まぁた散歩?飲み水持っていきなよ。頂上さん宅の商店、もうやってないんだ」
"頂上さん宅"とはこの山の頂上にある家2軒のことでそのうちの片方の家が小さな商店を営んでいた。この道の裏側は地域の子供たちの遠足として使われ、登山道として解放されていた。さらには自動車用道路も敷かれているから搬入については大して難儀しない。霞澄がその商店に最後に行ったのはかなり昔である。朧げに内装を覚えている。藤棚なんかもあった。
「今、どうなってるの?」
「あ、あーしの口から聞く?」
「やっぱ自分で見てくる」
「ま、ムリしないことね。都会の風に慣れちゃって身体には、こんな半端な山でもハードなんだから。スポーツドリンクあるから持っていきなさいよ」
彼女は踵を返し、台所に入っていき霞澄へよく冷えた有名なメーカーのスポーツドリンクを差し出したかと思うと手をすり抜け、伸縮性と通気性に優れたパンツのポケットに捻る込んだ。
「ありがとう」
「何かあったら連絡することね。迎え行ったげる」
「うん。そうならないように気を付けるよ」
意外と深青は面倒見が良い。サンダルにインディゴブルーのペディキュアが塗られた足を突っ掛け、霞澄を見送った。
昨日と大体同じ地点であの中年男とすれ違う。今日は手桶を持っていた。
「こんにちは」
また同じように挨拶をする。相手も昨日口を利いた人物と分かったのか、いくらか砕けた態度で挨拶を交わし、そして離れていく。線香の匂いが遅れてやってきた。振り返る。ばりばりとポロシャツの上から背中を掻く男の後姿が小さくなっていく。不思議な人だった。
頂上に行くまでには墓地の横を通った。そこも線香の匂いが濃く残っていた。木陰の下で濡れている墓跡が目に入り、それがあの中年男性の参った墓のようだった。他にも別のルートからこの墓地には合流するため、ただ霞澄が遭遇していないだけで、また別に墓参りをした者がいる可能性も十分にあり、断定はできない。墓地を通り抜け、暫く緩やかな勾配が続く。昨日引き返した場所も越している。あの墓参りの中年男性に言われるまでこの近くに川が流れていたことは知らなかった。そうこうしているうちに頂上へと着く。以前来たときとは大きく違っていた。道が整備され、溜池のような渋い緑色の沼には井戸を思わせる外構が築かれていた。深青の言っていたとおり商店は無くなっていた。建物自体が取り壊されていたのだ。今は廃材が積まれ、藤棚の残骸と思われる資材は錆びに錆びて霞澄の訪れなかった年月と、その間の雨風を感じさせる。代わりに別の場所に無人の休憩所が設けられていた。霞澄は基礎の跡を見つめ、記憶の中で商店の間取りをそこに馳せた。古めかしい銀紙に包まれたアイスが売っていたのを覚えている。ラムネ瓶も売っていた。小さな頃からたいそうな山に見えたが、大人になって登ると余程のことがない限り遭難者は出ないだろう。まず泊まれないことはなく、泊まる者もあるが、泊まらなければならないという規模ではない。野生動物もクマは出ず、最も危険なのはイノシシの突進である。そういう登山ともいえないような山だ。木々の作る陰の下、セミの声を聞き、目を閉じる。自然というには人の手が入り込み過ぎているが、それでも都会より贅沢な土地の使い方をしている。土を踏み、樹木は猛々しい根を張り巡らせて人を転ばせようと画策している。セミの抜け殻はあちこちに飾られ、トンボは上品に空を飛んでいた。洗われていく感じがある。汚れたつもりもないけれど。ここはそういう山だ。思い出がさらにどこのたいそうな山よりも、ここを高尚なものにする。
風景も随分変わって見えた。ソーラーパネルが空いた土地に敷き詰められ、知らない建物がぽつぽつ見えた。いつの間にかナイター設備の球場もできたらしい。相変わらず市役所は市内で最も高い。そしてこの地域で幅を利かせている大きな工場も数を増やしてはいるが、本部は記憶の中とそう変わりがない。遠くが薄らとブルーを帯びて透けていき、空と同化している。その果てに今は暮らしている。
霞澄は離れるのを惜しく思ったが、感じ取れるものは感じ取り切った気になった。まだ笠子家には世話になる。また来たくなればダイエットも兼ねて登ってくれば良い。どうせ、笠子家の魅力的な食の前には逆らえないのだ。それでいて夏休み明けに後悔するのが目に見えている。元来た山道を戻る。山頂から降りたとき、前に人はいなかったはずだがおそらくどこかの脇道から合流したらしく、視界から消えるか消えないかというところで他に下山者がいる。服装からして若く見えた。金をかけて装備を整えるような山ではないが、夏の緑の中である。虫は多く、転べば岩の剥き出した地面もある。枝も伸びている。しかしその者は膝から下が素足であるように見えた。その脚の形、歩き方や背格好、服装などからいうとまだ若いようだ。部活動の自主鍛錬だろうか。追うつもりはなかった。しかし道が同じなのである。そして先を行く下山者は道から外れて茂みに入っていった。歩き慣れた様子だったため、霞澄の意識からも外れていく。同時に、あの墓参り帰りの中年男性から自分がどう見られるのか分かってしまい、彼女はひとり苦笑した。先を歩いていた者が茂みに入っていった地点を通り越してすぐ、「うわぁ!」と悲鳴が聞こえた。谺する。霞澄はびっくりして声のほうに駆け付けた。せせらぎが聞こえ、そこには空気そのものがほんのりとグリーンを帯びているような澄んだ流れの小川があった。少年か青年か判断のつかない人物が尻餅をついている。夏霞の足元の近くで泥濘みに滑った跡があった。
「大丈夫?」
霞澄は腕を伸ばした。人懐こげな顔をした、快活そうな若い男は遠慮も人見知りもなく彼女の手に応えた。元々足場が悪く踏み張ることは難しく、相手は平均的な体格の男である。軽く彼女の身体は水面に引き寄せられた。若者の傍に落ちる。水が繁吹き、瞬く間に水に浸かった膝下と肘までが濡れていく。霞澄は同年代か、それか少し年下くらいにも思える若い男を瞥見する。無表情で、彼女を見下ろしている。日に焼けた髪と顔、やんちゃぶりを窺わせる頬の傷、大きな円い目、甘い印象を与える口元。犬のような風貌で、なかなかの好男子である。だが愛嬌の映えるその顔は表情が無いと退廃的な感じがある。ガラス玉みたいな大きな目に緑が揺れるのを霞澄は見つめていた。
「お~い、大丈夫け?」
まだ四つ這いになっている彼女は後ろからまた別の声がするのが聞こえた。振り返る。
「おいおいおい」
嗄れた声には焦りが満ち満ちていた。
「おい、彼女。大丈夫か?」
少し高くなったところからあの墓参りの男が木に手をついて見下ろしている。ちらと隣を見ると、先に川に浸かっていた若い男の姿などなかった。何の音も気配もなく、消えている。水の流れすら変わらなかった。
「あれ……?」
周りを見渡すが、忽然とあの若い男は姿を消した。
「足でも痛めたかぃや」
墓参り帰りの中年男性も霞澄以外の誰かを認識している様子はなかった。
「もう1人、いたんですけれど……」
霞澄のそれはほぼ独り言と化していた。小さなぼやきを豪放な感じのする30代後半から40代半ばといったところの男は聞き逃さない。
「もう1人?お嬢ちゃんの他に誰かいたんかい?」
人の好さそうな顔が厳しいものになった。
「はい……でも、流されたとかじゃないみたいです」
川の流れは緩やかだった。
「どんなやつ?男かい、女かい」
「20歳前後の男の人でしたよ。大学生か高校生だと思うんですが」
「……そうけ。タヌキに化かされたんと違うかい。エキノコックスには気を付けなはれ」
中年男性はガリガリと後頭部を掻いた。それからポロシャツでその手を拭くと霞澄に手を伸ばした。
「じじいの手触んのイヤだと思うけんども後でうんと洗いやっせ。おれぁ枡谷。不審者じゃねぇから先に名乗っとく」
筋肉質な腕が木漏れ日に瑞々しく照った。まだ強壮な肉体をしている。霞澄は硬い掌を頼った。霞澄は簡単に足を滑らせたが、彼からすると小娘ひとりを引き上げるのは容易いとばかりだった。
「スマヒョは無事け?」
黒々と、否、老化か日焼けか焦茶は混じるが白髪は今のところ目に入らない男は霞澄をじろじろと見たが、突然ばつが悪そうに顔を背けた。枡谷とか言っていた。霞澄はスマートフォンを入れたポケットがなんとか水没を免れ、起動することを確認する。
「ありがとうございました。今、これしかないですが……」
まだ口を付けていないスポーツドリンクを差し出すと、枡谷とかいう男は太い眉を顰めた。
「いくらちょいと涼しくても夏だべや。水分補給しねぇとまっじぃぞ。そりゃ受け取れねぇよ。他に飲みもんあんのかい」
「あ……でも、何かお礼がしたくて……」
「よせやい。別におれぁ無事だが、それもらってお嬢ちゃんが脱水症状なんてなっちまったら目覚めが悪ぃよ。無事帰りやっせ。それがお礼さな」
枡谷は霞澄から離れようとした。
「ま、待ってください。麓にわたしがお世話になっている家があるので、そこでジュースの1本くらい、お礼させてください」
「……ほぉ。ま、またタヌキに化かされちまうと大変だからな。その家まで送ってやらぁね。いいから、一口それ飲んで落ち着きやっせ」
彼は筋肉逞しい腕を組んだ。霞澄が手にするスポーツドリンクを飲むまで許さないという感じで、それは彼女を暑気中り患者か何かと決めてかかっている様子だ。霞澄からしても、他にあの不思議な人物の説明のしようがない。喉の渇きも眩暈も吐気もないが、暑気中りを認めざるを得ない。言われたとおりに未開栓のスポーツドリンクを飲んでいる間に続く熱中症がいかに怖いかについての講釈、蘊蓄(うんちく)からしてもそれを裏付けた。
彼は足元に置いた手桶をまだ持っていた。中にビニール袋に包まれた小さなコンビニ弁当みたいなものが傾くのも構わず入っている。霞澄がそれに目を止める。
「墓参りしてたんでさ。途中にあるんべ。あそこに菓子置き忘れて、戻ってきちまったっつーワケ。そしたらおまはんの悲鳴が聞こえたっつう話よ」
悲鳴を上げていたらしかった。そういう覚えはなかったが、恥ずかしくなってしまう。登山道に戻る。下山するときと、登るときでは見え方が違った。霞澄はそろそろ墓地が近いことに気付く。同時に、初めてこの男に注意された地点であることに気付いた。
「食うかい、みたらし団子。コンビニで買ったもんでも仏さんに供えたもんじゃ憚られるんべ」
枡谷は手桶をハンドバッグよろしく腕に引っ掛け、コンビニ袋の中を晒す。
「コンビニの食いもんは腐らんからな。まぁ大丈夫だんべ。カピカピになってたら悪ぃんね」
「さすがに悪いです。助けてもらって、お団子までいただいてしまうのは」
霞澄なりの本心だが、相手は婉曲的な拒否と受け取ったらしかった。しかし嫌な顔はせず、豪胆に笑う。
「そうけ。まぁ、こんな知らんじじいに食いもんなんぞ貰いなさんな。世の中物騒だからな」
線香の匂いを掻き分け、やがて笠子家に着く。枡谷は出てきた深青に親はいないか訊ねた。そして深青に引っ張られ、入れ違いに笠子の伯母が出てくる。深青に引っ張られ霞澄は風呂場に入る。
「も~、何してんのよ。あのおっさんが不審者だったらどうすんの?もっと危機感持ちなさいよ」
早々と下着に剥かれ、シャワーを浴びせられてしまう。脱衣所と浴室を仕切る戸が壊れ、撥水加工されたカーテンが掛かっている。
「こんなにびしょ濡れでさ。スマホ大丈夫?ああ、大丈夫ね。何、パスコード付けてないの?パスコードくらい付けておきなさいよ。覗くわよ」
いとこはカーテンの奥からきぃきぃと怒った。よくそこまで怒ることがあると感心してしまうほどだ。
「たまたまあのおっさんが律儀にうちまで挨拶しに来るような人だったから良かったもんを」
「……ごめん」
謝ると、いとこは少しのあいだ黙った。シャワーがタイルを打つ。
「変質者は、あんたみたいなのを狙うんだから」
追撃の止まらない喧嘩中の子供みたいだった。
「うん……心配してくれてありがとう」
「心配なんか、別にしてないし」
風呂から出ると、枡谷はもう帰っていた。すぐに彼から離れたことをいくらか済まなく思いながら深青に自室へ連れ込まれる。彼女は一人好きにみえてなかなか人懐こい。クーラーの効いた空間で火照った肌を覚ます。深青はベッドに座り、霞澄が保湿クリームを肌に塗り込み、着替えるのを眺めていた。
「頂上、見てきた?」
「見てきた。本当に、何もなかった。なんだか知らないうちに変わってて、ちょっとだけ……寂しいな。見下ろした街も」
「ふぅん。あんたは変わらないのにね」
霞澄は頬を膨らませて深青をみる。吊り気味の目が悪戯っぽく光る。
「あーしは別に、都会に擦れてなくて安心したケドね!」
故意的に嫌味たらしく言うものだからそれはフォローにはなっていなかった。
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