18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」

結局は俗物( ◠‿◠ )

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揺蕩う夏オトズレ 6話放置/気紛れ兄+電波ワンコ弟/いとこ双子姉弟/百合要素

揺蕩う夏、オトズレ 4

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 川まで辿り着くと鈴城すずきの兄はすんと黙って霞澄かすみを突き放した。相変わらずの似合わない麦藁帽子に、昨日と同じシャツを着て鈴城の弟・爽夏さやかは釣り糸を垂らしていた。
「霞澄さん!ちゃわわ!」
 彼は霞澄の姿を認めると、腕を開いて抱きついた。
「約束どおり来てくれたんだ。夢の中のこつ、覚えててくれたん?」
 彼女はある一言にぎくりと強張らせた。逞しい筋肉に巻き付かれ、それは相手に伝わってしまったかも知れない。
「夢?」
「覚えてない?ぽわわ~って、」
―あんなナカヨクしたのに。
 _かまをかけられているのだ。そうでなければ、人の夢を他人が見抜けるはずがない。
「キモチヨカッタ。またしようねぇい。ぽわぽわ~」
 彼は腕で何度か霞澄を締め上げる。
「な、なんの話?」
「ほへへ。夢の話!」
 爽夏は無遠慮に彼女の頬にキスをする。
「爽夏。俺はそろそろ帰るから、帰りは早瀬を送ってやれ」
「うん。おうち帰るまで一緒ぉ」
 鈴城の兄はそそくさと登山道のほうへ行ってしまった。すると爽夏の抱擁が解かれる。釣りに戻り、霞澄もその横に屈んだ。
「兄ちゃんかっこいいでしょ?きゅ~ん」
「うん?うん」
「好きぴっぴになる?」
 冷やかしているのかと爽夏を見ると、彼は意外にもしかつめらしい面持ちをしていた。
「え……うーん。素敵な人だと思うけれど、会って間もないし、そういう風には考えられないかな」
 彼の兄である。気を悪くしないように語調も表情も柔らかくした。
「じゃ、オレのこと好きぴっぴになってくれるカノーセーもありゅ?」
「もう、何言ってるの」
 爽夏は不敵に笑って釣竿を上げた。魚が引っ掛かっている様子はない。
「今日の釣りはおっしまい。霞澄さん、お山デートしたい」
 鈴城の弟に引っ張られ、霞澄はよろけた。登山道には戻らず、川沿いを歩く。そのうち橋が見えた。渡れるらしい。しんと静かになり、手摺のない平坦な木板だ。熟知というほどこの山を知ってるわけではないが、それぞれのルートを大体思い描ける程度には把握しているつもりだった。だが登山道を外れると寂れた川があり、そこに橋がひっそりと架かっていることはまったく知らなかった。
「夏休み、どっか行ったりしないの?」
「どっか行こうとはしてたよ」
「予定が変わっちゃった?」
 何気なく話題を振ったが返事からして複雑な事情を匂わされる。キラキラとした活気のある目に捕まる。
「霞澄さんと会っちゃったから、今年の夏はお山遊び!」
「ああ、そういうこと」
 彼は繋いだ手を放し、霞澄に抱きついて頬擦りをした。それは1人の距離感のおかしな男というよりも大きな犬の認識だった。
「霞澄さん好きぴっぴ、好きぴっぴ」
「何する予定だったの?旅行とか?」
「ぐるぐる~。なんだっけ。忘れちゃった!アタマ真っ白。でも楽しいこつ!」
 頭の横で指を回し、何か考えている様子だったが、最終的には白い八重歯を見せて笑った。
「お兄さんとどっか行ったりはしないの?」
「しな~い。兄ちゃんは兄ちゃんで遊ぶもん」
 雑談を交わしながら山の中を歩いていく。ほとんど霞澄が質問し、爽夏は捉え所のない戯けた返しをする。彼からは特に何か訊かれたりはしなかった。インタビュアーになった気分だ。
「霞澄さんはぁ、」
 彼は立ち止まった。その姿は鈴城の兄とやはり同胞きょうだいである。間を持たせようとしたつもりだったが、行き過ぎていたかも知れない。一喝されるのかと思った。彼女は身構える。
「一緒に暮らしてる男の子のこつが苦手なんだね」
 あまりにも脈絡のない一言だった。霞澄はこの者にそれについて何か話しただろうか。言った覚えがない。
「どうして、そう思うの」
 いとこの存在は明かした。しかしそこに異性のいとこが含まれていることまでは言っていない。彼女は爽夏に対して様々な質問をしたが、そこに沿った自分の体験を話せども、いとこの話題は挙がらなかった。
「ほへ。霞澄さんのこつならなんでも分かるよぉ」
 霞澄は捉え所のないことばかり言う爽夏から目を側める。
「仲直りさせたげる!楽しみにしてて」
「え、何?何かするの?」
 まさか笠子かさご家に向かって、真青に直接何か言うつもりなのか。霞澄は食い付かざるを得なかった。
「仲直りするの」
 この爽夏という若い男が急に不気味なものに感じられた。外見のままの年齢ならばどこか言動、挙動に白痴的な部分があったがとりあえずのところ会話は通じていた。しかし言ってもいないことを見抜かれている。不審人物に対するものとはまた別の不安を抱かせる。
「い、いいよ。わたしの問題だし、自分で解決する」
 口調が少し強くなってしまった。
「そうなん?でも霞澄さんだけの問題かな?はてなはてな」
「どういうこと?」
「いとこの子、霞澄さんのこつ好きだよ」
 ふいにあのいやらしい、思春期の穢れた光景が脳裏を突く。感情に反し、理性は真青にすまなく思った。愛想笑いを取り繕う。
「いとこだからね。爽夏くんがお兄さんのこと好きっていうのとは兄弟といとこだからちょっと違うかも知れないけだ、大体同じだと思うな」
 爽夏は可愛い子ぶったあどけない貌で、しかし真面目な色を残し、首を振った。麦藁帽子の留紐がたわむ。
「違うよ。霞澄さんのいとこの子の好きは、オレが兄ちゃんのこつ好きっていうのと違うもん。らぶらぶぽわわ~ん、しゅきしゅき、きゅんきゅんずきんずきんってやつだもん」
 彼は頬を膨らませた。霞澄は眉根を寄せる。
「爽夏くん、わたしのこと揶揄ってる?」
「揶揄ってないよ。分かるもん。霞澄さんのこつならなんでも分かる。霞澄さんもこのこつ、ホントは気付いてる」
「やめてよ」
 爽夏は唇を尖らせた。霞澄は急に冷えていくのを感じた。手は嫌な汗をかく。
「霞澄さん、ちょっとぷんぷん」
「怒ってないよ。びっくりしちゃって。この話はちょっとやめよう?真青くんに……いとこの男の子、真青くんていうんだけど………真青くんに失礼だ」
 真青が悪いのではない。男の肉体の業である。真青は強過ぎる女 同胞はらからに肩身の狭い思いをしながらも擦れることなく優しく温和な人の好い性格をしている。そういう親戚のデリケートな部分をここで語らうのは後ろめたい。侮辱に値する気がした。
「はわわ」
「ごめんね、空気壊すようなこと言っちゃって。でも、お願い。他の話しよ?もっと楽しい話………なんて、何かあるかな」
 霞澄自体、引っ込み思案なところがあり、コミュニケーション能力にも、話題のレパートリーにも上手い話し方にも相手の話を聞く力にさえ確信はないと自己評価を下していた。
「オレも、反省する。霞澄さんのいとこの子のお話してめんちゃい」
 彼は俯いてしまった。そしてこれから行こうとしていた先を指で差す。
「オレもう帰る。送れないけど、でもこの先行くといいよ。そしたら、霞澄さんのこつ待ってる人いるもん」
 爽夏は拗ねているらしかった。指の先の木々の奥に、何かしらの目印らしき赤いリボンテープが見えた。登山道でよく見る素材と巻き方である。そこを見据え、爽夏を視界から外した。数秒もかからなかったその瞬間に、足音もなく彼は帰ってしまった。霞澄の前には誰もいない。
「待ってる人って誰?……―爽夏くん?」
 返事はない。もう一度少し大きめに呼ぶが、こだまするだけだった。
「……ごめんね、つまらなくさせて。気を付けて帰ってね」
 独り言だった。彼女の声は誰もいない来たばかりの道に吸い込まれていく。セミの鳴き声に囲まれ、隔絶されたような場所だった。ひとりになると、段々と自身に対する怒りが湧いた。上手く躱せなかったものか。気の利いたこと返しをして躱せたかも知れない。悪いことをした。済まないことをした。俯く。急に暑くなる。待っている人物とは誰だろう。今日紹介されるはずだった彼の知り合いだろうか。霞澄は赤いテープリボンに近付く。すると登山道に出た。頂上が見えている。そこまでこの山を登っていたという感覚はなかった。こういう近道があったらしい。頂上の展望台に到着したその時、見覚えのある人と鉢合わせる。相手も汗に照る額に手を這わせながら人懐こげな目を丸くした。
「枡谷さん」
「おっ、覚えててくれてたんかい。笠子さんのお嬢ちゃん」
「笠子さんはいとこの家で、少しの間お世話になってるんです。早瀬っていいます」
「ほぉ。いいねぇ、若いうちに親戚と遊んでおくってのぁいいもんだ」
 手拭いで顔中の汗を拭きながら枡谷は豪胆に笑う。爽夏が待っていると言っていた人物はこの者ではあるまい。
「山登りが日課かぃや」
「健康のために。運動も兼ねて」
 こう連日顔を合わせれば、そう思われるのも無理はない。
「枡谷さんはどうして?」
「オレぁ車さ。そこに駐車場あるんべ。頂上こっちにも用があったんさね」
 南側のルートに登山道と舗装道路が合流する地点が確かにある。頂上ほどではないが、そこも展望台となっていた。古びたトイレがあり、地元で有名な噂では夜間になると猥雑な使われ方をしているという。
「そうだったんですね。枡谷さんも山登りかと思っちゃいました」
「さすがに夏に山登りはきちぃよ。オレぁ人より暑がりなんだ。早瀬のお嬢ちゃん、あんた涼しい顔してっけど、きっちり水分補給と休憩するこったな。じじいの小言は耳障りなもんだけんども、夏場の説教は聞いてくれや」
 彼は快く笑う。まだ童心を忘れていない目が眇められて、年齢を感じさせずに見せる白い歯が若々しく、霞澄の網膜に灼きつく。そこで別れたが、陰送りを起こし、枡谷の輪郭もまだそこにある。中年男性なりの自虐をするが、それに嫌味がないのはあの者の雰囲気のせいだろう。荒っぽい喋り方のくせ語調は教え諭すようで、下卑た響きがなく親しみやすさがあった。彼と同じくらいかそれ以上の年代からいやらしい言葉を吐きかけられたり、怒鳴られたりすることがあったために霞澄はあの年代以上の男を一括りに多少の苦手意識はあったが、枡谷からはそれを感じなかった。しかし、こうして連日短時間のうちに話が完結するからだろう。互いに遠慮があり、互いにあまり事情を知らず個人的な背景を詮索しないからだ。それによって成り立っている好印象であることを霞澄は理解していた。画面の奥のアイドルに夢中になるのと細部は違えど同じ構造である。何より枡谷は、霞澄や深青みお真青まおの親の世代より少し若いか同じくらいである。
 彼女は枡谷のことを我が物として意のままにできるかのような考えを起こし、己を恥じた。ほんのりと甘酸っぱい感じを抱いていたらしい。
 焦り、落ち込み、照れる忙しい山登りだった。廃材置き場と化した商店跡地の横にある展望台を目指すと、着くまでもなく、待っているといった人物が誰だか分かった。日焼けも厭わず太陽に炙られ、薫る風に吹かれる後姿が特徴的だ。黒のフーデッドスウェットシャツに踝を出したジーンズ。日に当たり発光してるのかと思うほど眩しくキャンバススニーカー。街を見渡しているようだった。外見が都会では珍しくない、むしろ大半を占める俗っぽい現代的な若者そのものだが、自然に身を浸す関心があるらしい。
 霞澄が声を掛ける前に、白い顔が彼女を振り返って頸に垂れたフードに隠れる。
「隣、来なよ」
 彼はふいと鼻先を街のほうに戻した。促されたとおり、その隣に立ち、同じように街を望んだ。景色はシャーベットみたいな淡いブルーを帯びている。
「爽夏と何かあった」
 鈴城の兄の声は静かに溶けていく。
「わたしが悪いんだけど、ちょっとした言い合いになっちゃって。喧嘩とかじゃないんだ。でも、楽しく遊ぶって空気じゃなくなっちゃったから。爽夏くんが、自分は帰るけどここに行くようにって……」
 夏の山の匂いとしか言いようのない、甘くもなければ苦みもなく、臭さもないが季節の色の乗った微風に包まれる。黒い毛並みが白い輪を携え、小さく踊った。
 話を聞いているのかいないのか、鈴城は黙っている。
「ごめんね。弟さんと、そんな感じになっちゃって」
 彼はまた返事もせず沈黙するものかと思われた。数秒はセミの鳴き声ばかりでほぼ無音に近かった。
「爽夏が地雷でも踏んだ?」
「わたしが過剰反応しちゃったんだと思う。上手く―」
 真青との痛々しい空気の中で寒々とした会話を白々しく繰り広げたことと重なった。
「―ああ、やっぱダメだな。ごめん」
 霞澄は弁明を諦めてしまった。言葉にすればするほど墓穴を掘っている気がする。それだけでなく、実際に惨めになった。
「俺、弱音聞かされに来た?」
 嫌味なのか、本当に確認しているのか、分からないのだ。口調は前者のようで、首を傾げ窺うように見る目は後者のようでもある。坂道を転がりかけている彼女はそれを前者と受け取った。口を開けば反省か弱音しか吐けない今、霞澄は沈黙を選んだ。いずれにしろ不快にさせるのなら、積極性などないほうが良い。中身が伴わず繕うだけなら、沈黙の殻に閉じ籠るほうが良い。
 日焼けしていない青白さすらある顔がひょいと霞澄を向いたまま直らない。
「爽夏なら甘やかしてくれる」
 この場に於いて弟の名を出すというのはやはり嫌味で間違いないか、面倒臭い女に付き合いきれぬと突き放されている。真青に始まり爽夏と続き、爽夏の兄とまでも、ぎすぎすしている。
「甘やかしてほしいわけじゃ、なかったんだけれど……ごめんなさい。今日は人と喋らないほうがいいみたい。また、明日……会えたらね」
 適当に切り上げて帰ろうしたが、鈴城の手が伸びて霞澄を摘まむ。引っ張られ、彼女は隣に戻った。
「会えたらね、って何。どういうこと。会うよ」
「爽夏くん次第だから」
 一瞬戸惑った。そういう話だったはずだ。弟と遊ぶなら迎えにいくという。ならば弟と遊ぶ約束があるのが前提になる。だがこうなっては爽夏はまだ遊ぶと言うだろうか。
「会う。会うよ。アイツはあんたのこと、好きだ」
 それは友人としてであるはずだ。だが真青からの爽夏のことがあった後では何か心苦しいものがある。霞澄は俯いてしまう。
「明日、あの場所で、鈴城くんがいるかどうかだね……」
 喋り方は固くなり、語尾は消えて行く。
「爽夏があんたと遊ばないっていうなら俺が遊ぶ」
 霞澄はゆっくりと目を上げ、鈴城を窺った。人と遊ぼうとするようなタイプには見えなかった。弟とは違った独走ぶりで、こちらは結果がどうであれ人に合わせられる・合わせられない以前に人に合わせようとする意思すら希薄で気紛れな感じがあった。そもそも何をして遊ぶというのか。
「だから、あんたとは会う」
 返事に窮し、今度は彼女が沈黙する番だった。
「迎えにいくし、送る」
 長く濃い睫毛が重いのか、彼の目瞬きはスローモーションの機能が働いてみたいだった。眠りに入る前に横柄な態度で人を見つめている成猫のそれである。
「甘やかす練習」
「だから別に、甘えるとか、甘えないとか……」
 手を握られる。日向にいたくせ汗ばむこともなく冷たい。鈴城の真意が分からない。愚痴に付き合わされて呆れているのではなかったのか。貌は不機嫌そのもので、だのに瞳には霞澄を映そうとする。絡まる指は緩く、いつでも切り離せた。汗ばんでいくのが恥ずかしい。 
「早瀬も、俺に甘えれば」
「い、いいよ。またつまらなくなることしか言わなくなっちゃうし。多分、言わなかったら表情カオとか態度こえとか雰囲気くうきに、出ちゃうんだろうし。甘えるなって言ってくれたほうが、ヤバいなわたしって、自分のこと、ちゃんとできる」
 彼の空と大気、景色の影を吸い込んだ双眸は霞澄を真っ直ぐ捉えたまま、小首を捻る。
「…………」
「…………」
 見つめ合ったまま、またもや沈黙する。セミが鳴いている。アブラゼミだろう。街の音が空気に緩和され、こうこうと聞こえた。
「早瀬」
 ずいと白い首が伸びてくる。顔面の距離が詰まりその分、霞澄も背を引いた。手は繋がれたままだ。
「何?」
 気紛れに呼んだとしか思えないほど、彼はぬぼっと霞澄を見ている。季節外れの花を思わせる色味の唇は開かない。
「鈴城くん」
「何?」
 彼女から呼べばすぐに応える。
「なんでもない」
 まるで仕返しになってしまった。鈴城に繋がれていた手が引き寄せられる。
「なんでもなくない。何?早瀬」
「鈴城くんが、わたしのこと先に呼んだから……」
「聞きたい?俺の話」
「気には、なる」
 彼はふわりと眉を上に動かした。不思議そうな顔をしているが、霞澄からすればこの男のほうが不思議だ。微風に手を突っ込んでいる気になる。
「聞きたくないなら言わない」
「聞きたくないってほどじゃないけれど……」
「聞きたいって言えよ」
 彼はふいと目を逸らした。手も放され、彼女の手は垂れていく。外方を向いた美しい横顔は拗ねていた。
「き、聞きたい。聞かせてよ。教えて?」
 彼は眉間を狭め、睫毛を伏せる。痛みに堪えるような表情をされた。それは肉体的には強いものではないかも知れないが、悩みに痛んでいるような。
「爽夏があんたと約束する気なかったら、俺が、早瀬に会いにいっても、いい?」
 そういう話を先程までしていた。霞澄は訳が分からなくなった。その話は終わっている。いずれにしろ会うということで合意してはいなかったか。
「うん」
 了承した途端、彼は一瞬で顔色を変えてまたこちらに首を曲げた。
「爽夏くんと3人はだめなの?」
―深青ちゃんと3人はだめなの?
 ふと懐かしい会話が甦る。
「それはだめ」
 目の前の彼が言ったのか、記憶の中の真青が言ったのか、彼女は瞬時に判断ができなかった。
「分かった」
「早瀬」 
 横から伸びてきた手にふたたび指を遊ばれる。体温も残っていないほど冷たい。
「うん?」
「早瀬、別のこと考えてた」
 どうやら顔に出ていたらしい。鈴城の声は低くなった。それでも蕩かすような甘い質感がある。
「ごめん」
「……許さない」
「ごめんね」
「許さない」
 冷たく乾いた指は強く彼女の湿しとりを帯びた指の間に入り、掌の甲を掻く。
「ごめんなさい」
「許さないよ」
「許して」
「許してほしい?」
 頷いた。表情に乏しい口元に、意地の悪そうな笑みが浮かぶ。
「許してあげる」
 彼は距離を詰めた。肩がぶつかる。暑苦しげなフード付きのスウェットシャツに彼女の腕が減り込んだ。
「早瀬」
「何」
 静寂である。こてんと肩に黒髪が乗る。
「早瀬」
「何?」
 気が付くと、そろそろ帰ったほうがよい頃合いだった。時間の経過が早く感じられる。
「わたしそろそろ帰る」
「……早瀬」
「暗くなる前に帰らないと、遊べなくなっちゃうよ」
 笠子家に心配はかけられない。それについて言及されたなら、山登りはやめてしまうかも知れない。
「送る」
「鈴城くんが帰るの遅くならない?」
「うん」
 ひぐらしが鳴いている。それが空はまだ明るいくせ夕方の訪れを強調する。冬なら視界が利かなくなるほど暗くなっていたことだろう。
「俺、このセミ、嫌いだな」
 アブラゼミやミンミンゼミのうるささや見た目の気持ち悪さを嫌がる者は多かったが、ヒグラシの鳴き声自体を嫌がるのはあまり聞いたことがなかった。金木犀の扱いに似ている。あの腐卵臭いや異臭、刺激臭にも属さない甘い香りを嫌う者がいる。
 繋いでいた手を放され、山を下りていく。足を踏み外したところを抱き留められる場面もあった。華奢に見えて体幹はしっかりしているらしい。キャンバススニーカーは乾いた土を滑る様子はない。待ち合わせ場所の墓地まで来た。彼は突然立ち止まる。線香の匂いが漂っていた。そういう季節のそういう時期が近い。頼りない白い煙が彼を包む。そういう位置に立っていた。
「早瀬」
「うん?」
「ここで、ばいばい」
「うん。送ってくれてありがとう。気を付けてね。弟くんにもよろしく」
 霞澄は手を振った。鈴城はぼんやりしている。
「早瀬」
「何?」
「夜、会いに行きたい」
「えっ、ちょっと。それは困る」
 鈴城は首を振った。夜に異性に会うのも躊躇われることだ。しかも訪問されるのは笠子家である。家まで来るにしろ、抜け出てこいと言われるにしろ迷惑か心配をかけることになるのだから霞澄も引き下がれない。
「早瀬の夢の中で………会えるようにする」
 爽夏と同じパターンだ。何かそういう流行りがあるらしい。
「うん。おうちまで来ちゃだめだよ?わたしの実家おうちじゃないから」
 彼が頷いたのが見えた。
「じゃあね、また明日」
 相変わらず反応は薄い。手を振り返すこともなく、ぼけっと突っ立っている。霞澄はなるべく彼の姿を視界に入れ、身を捻りながら歩いたが、つまずいて前を見たその短い時間で、鈴城は山に消えてしまった。
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