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カナンガの祈り 20話放置/差別表現/ふたなり女/クール攻め

カナンガの祈り 16

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 ナオマサは耳元で譫言うわごと を聞いて寂れた公園のピクニックスペースに背中の少年を降ろした。自販機で水を買う。少し飲ませてから、ハンドタオルを濡らして熱くなっている額に乗せた。目の腫れはさらに大きくなっている。様子を見ながらロージャに電話をする。
「ぃヤ……ヤダ………やだ」
 突如、病熱に侵された少年が魘され端末を持つナオマサの腕を掴もうとする。
「ヤダ、やめテぇ……ッ」
 服を引っ張り、耳から端末を剥がそうとしている。それでいて意識ははっきりしていなかった。少年は耳をつんざくような拒絶の悲鳴を上げた。しかし彼を無理矢理に犯した看護師に引き渡すしかなかった。コール音が響き、結局繋がらなかった。泣き出した怪我人は吃逆を起こす。ナオマサは以前にアカミネから贈られたシフォンガーゼのストールで首や肩を包んだ。腫れた目蓋や頬の間で目の覚めた金色の双眸が彼女を見ていた。
「何があったか聞いた。けれど君をあの看護師に預ける。内面の準備をしておいてほしい」
「……あのしと、軍人さん………あのしと、軍人さん、おでノ…故郷おうち………壊したカラ……」
 爪が通常の半分ほどまで切られている指はナオマサの衣服を摘んで放そうとしなかった。
「彼が君にしたことは到底許されることではない。法的罰が下るような事柄だ。だが、今、君を治せるのは彼しかいない」
 ナオマサは残った水を飲ませようとした。少年は顔を背ける。
「ロージャの……コトは、スキ。デモ、あのしと、軍人さんだたカラ………大嫌い。おで、こんなコト、なる前は、」
 また吃逆が怪我人の肉体を揺さぶった。
「おで……自分のコト、きたならしいテ、思ったコトなかた。穢いテ言われテモ………」
 苦しげに深い呼吸をする動きがナオマサの肌にも伝わった。
「軍人さんよりモ………穢くナイて、思テタ…………おで、この国ノお世話ニ、ならナイ……」
 この少年との付き合いは決して長くないが、彼から恨みがましいことを聞いた覚えはなかった。明るく穏やかで活発な少年の印象が変容していく。愚鈍なほど能天気な気性の裏に意志があった。
「デモおで、やぱ、きたなかタ。ソレデモ、軍人さんハ、やぱり、ヤダ………おでのコトここに置いてッてヨ」
 上手く開閉できていない目から彼は数えるほどの涙を流した。衰弱した身体は自然治癒するまで保たないかも知れない。
「死ぬかも知れないぞ」
 腫れてもなお小さい顔はこくりと頷いた。赤く染まり膨れた指が花を覆うセロファンを軋ませた。
「それは自分に向けた花束か」
「ラヴァンドラ姉ちゃんの……」
 チャンダナは饒舌になったかと思うと意識がぷつりと無くなった。ナオマサは肝を潰し、口元に掌を翳した。息はまだある。安堵した瞬間、電話が鳴った。ロージャーク看護師だった。彼は噛み付くように用件を訊ねた。
「見つけました」
 返事はなかった。電子音の奥から気配も消えた。しかし電話は切れていない。
<どこにいる?>
「セントラルパーク脇の西公園です」
<すぐ行く。栴檀の様子はどうなんだ>
「水を飲ませました。熱があります。先程までは少し意識もありましたが今は眠っています」
 会話の途中だと思っていたのはナオマサだけで、通話は切れた。生温くなったハンドタオルで汗を拭く。十数分後にタクシーが公園の外に停まったのが見えた。月にも挑発的な美貌が顰め面をして高圧的にナオマサを捉えた。そしていくらか動揺を滲ませて重傷の想い人を見遣った。溜息とともにロージャは地面に膝を着く。隈は濃く顔色が悪い。憔悴していたのが見て取れた。
「独りにして悪かった」
 意識の無い少年に対しては非常に優しかった。その声音はマシュマロ乗せミントキャンディバークのキャラメルソースがけを思わせる。ナオマサは一方的に寄せる過大な恋心に寒気がする半分で、目の前にある叶うことのない恋慕に苦々しい思いもした。おそらく何がいけないのかこの少年は本人には言わないのだろう。そしてこの本人も、自らの手で作った別の理由に囚われている。ナオマサも告げたりするつもりはなかった。看護師はカヤハラ同様に軽々と意識の無い怪我人を抱き上げタクシーに運んだ。世間体を気にしてか、高過ぎる自尊心か、はたまた効率か、ナオマサの重い荷物はカナンの前でなくともアカミネが持つことがあった。それをふと彼女は思い出す。あの男から贈られたストールはチャンダナに巻かれ、看護師は休む間もないようだった。タクシーの横で看護師もナオマサのほうを向いていた。また逃げ出して呼び出される予感がした。ナオマサはタクシーの助手席に乗った。
 今度は下水道を通らなかった。そのまま雑居ビルに入る。ボードゲーム知育教室の貼り紙で窓を塞がれた建物のすぐ隣にあるレンガの外装が特徴的なビルだった。看護師はかなり疲れているようだったが腕の中の少年に向ける眼差しは変わらず柔らかい。2人だけの世界の真後ろを付いていくのは慣れていた。チャンダナはベッドに寝かされ、看護師はその寝顔を眺めるようベッドに肘を付いて床に座った。
「すぐに始めるが、その前にエナドリを買って来る。栴檀を見ていてくれ」
「わたしが買ってきます。少し休んでいてください」
 彼は色濃く隈の浮かぶ目をナオマサに向けた。何を言われたのか理解するのにも時間を要している。
「……すまない。ナイトメシアの青いやつを頼む」
 眠気覚ましの効果があるエナジードリンクのひとつで、青は最も薬理作用が強かった。炭酸飲料ということだけは知っているがナオマサは飲んだことがなく、カナンやアカミネもそういうものを飲んでいるのを見たことがない。近くのコンビニエンスストアに寄ってナイトメシアの青缶を買う。闇病院は他にも学習塾や歯科医院、個人経営の居酒屋が並んでいるような生活感溢れる風景の中にあった。病室に戻ると看護師は静かに帰ってきたナオマサには気付いた様子がなく、ベッドへ前のめりになっていた。伏せる背中だけが目に入る。寝ている少年の前髪を長い指が繊細な仕草で掻き分ける。形の良い額の真上で、切なげに美男子は目を伏せた。唇が皮膚に重なる。頬に添えた手は躊躇いがちにシーツの上を滑った。少年の肌から離れた唇も、額から小振りな鼻を通り越し破れた唇へ吸い寄せられていく。
「意識の無い相手にそういうのはまずいです」
 指先を腫らした手と一方的に繋いだ手が痛く苦い。
「………悪かった」
「買ってきました」
「ありがとう」
 彼は小銭を出したがナオマサは受け取らなかった。タクシー代を払わせてしまっている。エナジードリンクは看護師をさらに青白くした。同じ建物に籠っていたらしい闇医者がやってきて、手術はクリーム色のカーテンに似た衝立スクリーンの中で行われた。地響きのするような機械音の中でナオマサはやっと帰路に就く。空は明るくなっていた。時間の感覚が狂っていた。踵は鈍く痛み、脹脛は張っていた。途中でセントラルパークに寄って休んだ。2日は徹夜したような疲労感に襲われすぐには動けなかった。ベンチに背を預け、曇り気味な空を見上げる。他にベンチは空いているというのに隣にスーツの男が座った。肩に真っ赤なヘッドフォンを掛けている。ナイトメシアの緑缶を手にスティックチキンを齧っている。薬品で作られたようなパイナップルの匂いがした。
「やっぱ、ケミカルなんだよなぁ~」
 隣に座った男は独り言ちる。ナオマサは一瞬気を取られた。
「やっぱケミカルなんだよなぁ?」
 彼女の視線に気付いたのか、スーツの男は顔を近付けた。まだ若く、髪は明るく燻んだ色に染まっている。そして前髪の奥にやはりナオマサは鏡に映る自身を見出した。顔を逸らした。そばかすの有無を差し引くとコピーしたように似ている気がした。
「何でもかんでもチーズ入れときゃいいみたいなのが透けて見えてんだよなぁ~」
 若いスーツの男は目を合わせたまま独り言を続ける。スティックチキンからハーブソースの匂いが淡く漂う。
「透けて見えてんだよなぁ?」
 首を伸ばして彼はナオマサに迫った。
「なんちゃらド田舎ヒルズってこっから東で合ってる?」
 ヒルズの付く地名はここにはひとつしかない。これから帰る場所だ。
「はい」
「あざっす。肥やし臭くって鼻が曲がりそうだ」
 彼女は話が終わったのものかと思った。
「肥やし臭くって鼻が曲がりそうだよなぁ?」
 噛み付くようにスーツの男は言った。まだ身体は疲れていたがナオマサは逃げるようにベンチを発った。もうカナンの起きている時間だ。今から帰るとメッセージを入れておく。家では何もできないふりをしている夫の支度が無くなり、まだ寝ていて欲しかったが、ゴミ出しはある。独りでいるカナンの顔を見に足を引き摺った。
 自宅に着きカナンが出迎えた。朝帰りを揶揄われる。根掘り葉掘り訊かれることはなかった。日の光に照らされる彼は少し寂しそうで抱擁を交わす。優しい匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「朝食はもう召し上がりましたか」
「まだです。イノイは?もう食べてきましたか」
「まだ食べていません」
 兄代わりと密着していると空腹を覚えた。同時に食欲よりもまだ抱擁していたかった。
「あの人がいないと、こういう習慣もダメになってしまいますね」
「わたしが作りますから休んでいてください」
「大丈夫。イノイがゆっくりしていて。お昼近いしちょっと重いのでいいかな。保険屋さん来るし、ちょうどいいや」
 ナオマサはリビングに行こうとするカナンを引き止める。
「インスタントにしませんか。すべて作らなくても……大変ですから」
 カナンはアカミネの前で意地を張る。良い夫であろうとする。ほぼすべて手作りだ。彼は妹分に苦笑いを浮かべた。本当は料理もアイロン掛けも好きでないことをナオマサは知っている。この機会に食器洗い機も買ってしまうのがいい。朝飯を食い終わると保険屋が来る前にナオマサはまた外に出た。共有ガーデンで日光を浴び、時間を潰していると電話が震えた。看護師からだった。繋げた瞬間、手術中に抜け出したことの小言が第一声だった。その様子から手術は成功したことが窺えた。相槌や返事の隙もない。彼は眠そうに怪我の様子と施術箇所と処置方法、経過と今の容態を一方的に話した。それから互いに無言になると気拙げに謝った。
<巻き込んですまなかった>
「いいえ」
<そのうち目が覚めると思う。あの男は、俺に治されるのが嫌なら身投げすると言った。俺は栴檀を死なせたくない>
 何も返しようがなかった。相槌も打てなかった。同時に着信が入ったらしく耳に当てている端末本体が大きく振動した。短い間隔で何度も端末が震えた。
<栴檀の行く場所がもう無いなら、俺が作る。あんたは、どうする?>
「どうしもしません」
<ずっと俺の家に縛り付けておいてもいいか>
「双方の合意があるのなら口を出す立場にありません」
 看護師は黙った。疲れ果て途中で眠ってしまったのかも知れない。その間も同時着信によって端末は何度もバイブレーションする。
「そろそろ切ります」
<やめてくれ、切るな。2人きりになったら、きっとまた栴檀に手を出す。どうしていいか分からない>
「まずは休むことです」
<駄目だ。通報してくれ。俺を私人逮捕してくれ……>
 軍警駐在署まではそう遠くない。しかし起こってもいない事件で軍警は動かない。特に性暴行は親告罪で、放浪穢多が被害者になると予見されるなら尚更だ。
「落ち着いてください」
<触りたい。どうしたらいい。苦しい……>
 理解不能な感覚だった。端末は頻りに震えている。バッテリーがグリーンから警告のイエローに変わっている。
「このまま寝ることです。バッテリーが切れるまで繋いでおきますから」
 連続する着信が止まった。バッテリーゲージは充電推奨の赤に近付きオレンジ色になっていた。端末の奥は静かになり息切れのような大きい吐息が聞こえた。しかしふと目を側めたナオマサの視界に一台の車が留まった。駐車場に向かってきている。酩酊しているのかと疑うほど目に余る乱暴な運転で、突撃事故のような停まり方だった。駐車スペース2つ分を斜めに占領している。同じ車種か似た車であることを願ったが、虚しくも運転手はナオマサのよく知る男だった。車のことを気にする様子はなく、普段の嫌味なほど余裕のある優雅な佇まいとは反対に慌ただしかった。忘れ物を取りに来たならいい。しかし彼女の頭にあったのはカナンへの逆恨みに等しい報復だった。別居を告げられたのだ。外聞ばかりの尖った矜持しか持ち合わせていないあの男を刺激しないはずがない。保険屋の訪問も、通話中であることも忘れて後を尾けた。開け放たれた玄関扉から言い争う声が聞こえる。幸いにもアカミネはすぐに出てこず、一度エントランスに戻り、廃人になったような世帯主が駐車場に帰るのを見張っていた。保険屋のことはもう二の次でナオマサは自宅に帰った。スマートフォンのバッテリーはもう切れていた。乱れた革靴を揃える。保険屋はまだ帰っていない。リビングから話し声が聞こえた。足音を殺したつもりだったがリビングからカナンが顔を出した。
「ああ、イノイ。帰っていたんですね。まだ……ごめんなさい」
「いいえ。部屋におります」
 少し顔が赤らんでいるような気がした。澄んだ目がいつもより大きく感じられる。
「お嬢さんですか?」
 保険屋も顔を出した。妙に馴れ馴れしい手付きでカナンの肩や腕に触れた。まるで長い知り合いのように。染めて何日か経っているらしき茶金髪の保険屋と目が合った。セントラルパークでコンビニエンスストアの飯に文句を言っていた、あの田舎コンプレックス持ちの若者だ。しかし彼は変質者同然に絡んだ女のことを忘れているらしかった。
「こんちは~。お邪魔してます」
 それよりも態度や口調や風貌からして軟派げな若い男が、カナンに触っていることのほうがナオマサにとっては重要なことだった。アカミネは陋劣な男だが、それでもカナンの大切な夫だ。だからこそある程度のことには目を瞑り、口を挟んだりはしなかった。
「同席しても構いませんか」
 カナンは少し驚いた。直後に柔らかな微笑を浮かべる。
「うん、一緒に話聞こっか」
 彼は赤らんだ顔を手で扇いだ。田舎コンプレックス持ちの保険屋はカナンの背中に触れた。冷笑的な諦観主義と二分しているスキンシップの激しい距離感の掴めない最近の若者の代表的な例だった。カナンの隣の席に着く。話はもう終わりのほうだったらしく、提携している会社がやっているミュージカルのチケットを3枚渡された。
「まぁ、気分転換になるといいですよ。マンネリズムは戦争の始まりですから………ああ、その、だから、戦争っていうのは二夫喧嘩のことを言ったのではなく………そう、つまり、退屈は人類の敵!ってコトです」
 カナンは熱っぽい眼差しを保険屋に向けていた。その保険屋はカナンではなくナオマサに説明をする。開催ホールがどこだとか、主演俳優がどうだとか、書類と手帳に交互に書き込みながら喋っていた。彼女はろくすっぽ聞いていなかった。カナンの眼差しが気になった。顔色も目も熱っぽい。
「ああ、2枚にしておきます?それともお嬢さんのお連れ様と4枚がいいですか?売れ残ってるんで3枚でも4枚でもいいですよ。あ、売れ残ってるって、いつまで経っても結婚できないってコトじゃないですよ!」
 隣を見た。ぼんやりしながら保険屋を見ている。保険屋はナオマサのほうに椅子を向け、前のめりになりながらわざとらしいほど正しいペンの持ち方で書類を完成させていく。
「あ~、ごめんなさい。ボク、話が長くって。お疲れですよね。ああ!別に、夜まで頑張っちゃったんですか?という意味ではなく!」
 返事をしない2人に、彼は嫌味ったらしく、しかし颯爽とした態度で繕った。
「ああ、じゃあボクと行きますか?なんちゃって」
「え…?」
 カナンは蕩けた顔をする。アカミネ以外に見せてはいけないような表情で、ナオマサ自身もまた直視できなかった。
夫奥おくさん、お嬢さん、ボクで」
 チケットを1枚1枚指して保険屋は言った。ナオマサは眉を顰める。隣の兄代わりはまだ呆(ほう)けている。震える唇が小さく開いた。目は潤み、虚ろだ。
「夫に、訊いてみないと…」
「火喃、少し水を飲みましょう。あまり体調が良くないみたいです」
 白い手まで薄紅色に染まっている。彼は額に触れ、少し暑そうな素振りを見せた。保険屋の手がその額にむけ不躾に伸びた。彼女はそれを阻む。
「少しお熱があるかも知れませんね。ああ!別に二夫の熱がどうこう言おうっていうんじゃないんですよ!」
 拒まれた手を撫で、保険屋はあっけらかんとしていた。
「ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
「いいえ。すべて済んだら着替えを手伝いますから、まずは横になりましょう」
「ごめんなさい、保険屋さん」
「いーえ。もうすぐ帰りますんで」
 カナンの肩を支えて二夫の部屋に運んだ。ベッドに寝かせる。寒いのか少し震えていた。カナンはリビングに戻ろうとする妹分の腕を引いた。
「どうしました」
「ううん。なんでもない」
「水を持ってきます」
「大丈夫……保険屋さんが帰った後で……」
 生温かい手はナオマサの腕を上り、彼女の額に口付けた。幼少期の頃、就寝前によくやっていた。リビングに戻り大きく肘を開いて字を書く保険屋の対面に座る。そばかすと、自分に似た顔が軽率な笑みを浮かべている。
「すぐ帰りますよ、すぐに!ああ、別にさっき追い返した旦那様のことを言っているのではなく……」
「すみません」
「とんでもない」
 書類をテーブルに叩き位置を揃えて保険屋は鞄にしまった。控えが渡される。チケットはまだどちらの所有か曖昧なところにある。
「素敵な夫奥おく様ですね」
「ありがとうございます」
 保険屋の手がチケットを3枚まとめ封にしまった。
「こんなド田舎でも開催するなんてスゴいなぁ~。掃き溜めに牡孔雀。肥溜めに。肥やし臭いド田舎に」
 スーツの若い男は突然調子を変え独り言ちた。
「こんなド田舎で開催するなんてスゴいなぁ?」
 そしてセントラルパークでされたように叱り付けるような声音に変わる。同じ目付きが重なる。
「火喃さんによろしく」
「はい」
 帰り際になってカナンは玄関へ出てきた。保険屋を見送るつもりらしい。
「ごめんなさい。お見苦しいところを見せて、途中で退席してしまって……」
「いーえ!お大事になすってくださいや。審査通りましたらまたご連絡さしていただきますんで」
 玄関扉に若い保険屋が消えるまでカナンは心ここに在らずといった様子で突っ立っていた。
「旦那様…?」
「大丈夫。ごめんね。どうしたんだろう……」
 赤みのある顔が気丈に笑みを作る。彼はナオマサの腕を無造作に拾い、手を握ったり掴んだりして遊んだ。指先は変に冷たく掌は熱を持って汗ばんでいる。
「着替えましょう」
 ベッドに促した。寝間着を出し、皺感のあるリネンのシャツを脱がせる。彼はぼんやりしたまま幼児のようにナオマサの腕や肩に触りたがる。背中には汗が滲んでいた。タオルで拭く。自分で着ようとはしなかった。潤んだ目は病的なものを感じる。爪を撫でたり、指の長さを確かめられ、彼女はくすぐったさに手を引っ込めた。
「水を持ってきます」
 彼は自分で寝間着を替えられるものだと思っていた。しかし上半身を晒したまま動こうとしない。
「旦那様」
「……うん?あれ、何だっけ。ごめん」
「いいえ」
 妹分は首を振り、すべて着替えさせてから布団に押し込んだ。水と共に生薬を持ってくる。アカミネは風邪薬というものを信じなかった。複雑に畳まれた薬包紙を解いてカナンの口を開かさせる。彼は妹分にべったりとしがみついた。水を飲ませるのも一苦労だった。服を摘み、腕を掴もうとする。
「旦那様」
「なんだか……よく分からないんですけど、変な気分で…」
 着替えの時に下着を押し上げる興奮を垣間見たが彼女は見ないふりをした。よくあることだ。疲れた時にナオマサもそうなった。彼女は考えたくもなかったが電話奥から聞こえた謎の吐息からしてあの看護師もおそらくそうだ。
「寒気はありませんか。咳は?」
「ありません。ああ、そうだ……ぼくたちのほうで出て行くことにしました。すぐに住む場所を決めて、荷物を纏めないと……」
「まずは身体です。大旦那様も病身を追い出すほどの方ではないはずです」
 世間体があるのだから。
 広いベッドにひとり残し、アカミネに連絡をするか否か充電中のスマートフォンの前で逡巡する。
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