彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 天藍は歪んだ笑みを向けた。脇で菖蒲は嫌悪を滲ませ、横目で麗らかな笑顔を見ていた。
「思慮深さの要求される慎重な問題を、随分と滑稽こっけい洒脱しゃだつに仰せになられる」
 二公子へ乱雑な礼をすると、菖蒲は包布団の中の生命を絶やしに向かっていった。
「思慮深さを要求される慎重な問題、か。人には子を成す価値しかないことを前提にしている悪しき主張だな。困るね。オレごと否定しているよ。流石、子持ちは違うね。オレには一生分からないよ」
 塩を振り撒いていく清潔感の欠けた男の後姿を追いながら天藍は呟くように言った。
「群青、多分君を待ってるよ。君のいないうちは離れ家にあの片輪にしちゃった子住まわせるよ。寒くなるしさ。君のかわいがってる飼い猫だなんて知れたら大変だからね。ちゃんと信用のある人を傍に置くから安心して。君の大切な人形モノだもん、ね」
 主は頬に走る傷を指先でとんとんと叩きながら女の口元へ屈んだ。艶紅の乾いた唇がそこに触れる。よく出来ました。顔面を走る傷に唇が返される。
「君は、君の叔父上がオレを裏切った以上に君の叔父上を裏切ったけど、君の叔父上の形見はオレのここにある…君が望むならいつ帰って来てもいいんだよ」
 揖礼し、庭に繋がる廊下を進んだ。すでに牛車の脇で群青が待っている。
「遅れてごめんなさい」
「今着いたばかりですので」
 決まりきった文句を並べ、荷物を拝借します、と言って車内へ運ぶ。
「お乗りください」
 外に出るため小袖を二公子から与えられていたが、これも脚が開きづらかったため群青は工具箱によって足元に段差を設けた。車外で御者の会話が聞こえた。少しして、彼も車に乗る。目的地まで一切会話はなかった。これから住むという家は長春小通りの少し東側にある川沿いの雁木がんぎづくりの商店街の裏の住宅地にあった。立派な家屋で、広い庭園があった。小さな花壇や垣根を見る限り、人の手が入っているらしい。玉砂利の敷かれた縁側の下には野良猫が丸くなり、訪問者の様子を探っている。近付いて行こうとしたが呼び止められる。
「中を確認してまいります。ここで少しの間お待ちください」
 牛車から多くはない荷物を降ろし、群青は家屋へ入っていく。軒下には汚れた雪が残っていた。
「問題ございません。お待たせいたしました。どうぞ、お入りください」
 息を切らせ、彼は周囲を見回している極彩の前に駆け戻る。そして中へと促した。荷物を持とうとする前に片腕で彼は軽々と持ち上げてしまった。玄関から落ち着いた匂いがした。板張りの大きな居間とその奥に畳の部屋がひとつ設けられていた。窓も襖も全て開け放たれ、曇り空が床に照っていた。
「わたくしは夜まで帰りませんが、そのうちに護衛の者が参ります。客人はその者を通しますが、万が一手違いが生じることもございますので、極彩様ひとりで出ることのないようお願いします」
 覚書おぼえがきを読むように流暢りゅうちょうに喋り、仕事へと向かっていった。荷物を解き、間取りを調べる。台所の窓の奥から見えた裏庭の楓が誘うように揺れていた。気体燃料を熱源にした調理用加熱器が設置され、かまどは調味料置場と化していた。冷蔵庫が低く唸り、壁には扇風機がまるで台所一帯を監視しているように首を突き出していた。水場の奥の窓の外でまたもや庭木が手招きしている。玄関へと走った。足音が響く。幼い復讐者が黒煙と化し、空に溶けていった塔に急いでいた。まだ護衛らしき者の姿はなかった。ただ一目見るだけでいい。叔父がこの世から、人の世から放たれていく様を一瞬でも目にしなければならない。そういった義務感に襲われたのだった。石塀を抜けた直後、目の前に臙脂の平服が飛び込んだ。薄荷の匂いが鼻先を掠める。何度か包容されたことのある柔らかな香りはよく知ったものだった。
「どちらに向かわれるんです」
 略礼服ではない群青が立っている。冷めた表情は仕事にしか興味が無いといった様子で、申し訳なさそうに目を泳がせ俯く姿はない。思わず後退る。彼も離れた分、距離を詰めた。突発的な行動に発散しきれない体温が音もなく爆ぜ、冬の乾いた空気に冷えていく。
「もう一度お訊きします。どちらに向かわれるおつもりです」
「火葬場に行きたいのです」
「なりません」
 あずきという娘を自邸に連れていった時と同じ、殺伐とした雰囲気に呑まれかける。
「一目だけでも、」
「なりません」
 失礼します、と彼は一礼してから彼女の肩に触れた。暴力的で拘束するような加減で、家へと帰らされる。玄関扉が静かに、しかし威圧を含んで閉められた。扉を揺する。しかし外側から押さえ込まれているらしかった。式台で屈み、履物を手にする。
「ご自身の立場をよくお考えください」
 見透かしてでもいるのか、扉越しからそう聞こえた。
「事の次第では、縛り上げても地下牢に幽閉しても構わないと仰せつかっています。出来ることならそうしたくありません。勝手ではございますが、ご理解ください」
 履物を放る。
「わたくしと顔を合せるのが耐え難い苦痛であるとおっしゃるなら大至急担当を外れます」
 無言のまま居間へと入り腰を下ろす。開け放たれている大窓から風が吹き込む。髪が踊り、毛先が口元を撫でた。朧げでありながら澄んだ冬が薫る。弱く、すぐに消えた。両手で顔面を覆い、深く床に伏す。数秒間のことだった。上体を起こしたはいいが、そのうちに眠気が訪れ、3日ぶりに沈んでいくまま身を任せた。


 青年が唇を噛み、手首を切る。血液が滲んだ。勿忘草の湯呑へ落ちていく。花柄に覆われた腕を伝い、ゆっくり滴っていく。血は固まらず、湯呑に流れていく。青年は咳き込みながら花弁を散らす。
『息子に、って、え、オレっちをデすか…』
 人懐こげな少年が驚きに吊り目を丸くする。
『お伝えしづらいことですが、正直に申し上げて、長くて二ヵ月ふたつき…冬は越せないかもしれません』
 肌荒れを加速させそうな深刻な顔をする若者が言ってしまった後に眉を歪める。
『確かにうち来たけどよ、お兄さん怪しくねェ?あ、でもなんかちょっと似てまさぁね。顔がじゃなくて』
 暑苦しそうな男が興味深そうに顔を覗き込んだ。
 ゆっくりと湯呑の中に血が満ちていく。
『どうか、お嬢様をよろしくお願いいたします』
 小柄な少年が膝を着き、頭を垂れた。
『いいんけ、縹あんつぁ。がりっぱか背負うぶうん?』
 白髪に真っ白な肌の男がいやらしく笑った。
『縹様…ごめんなさい。あっちなら、もっと…』
 真っ暗な部屋で猫目の少女が身を強張らせ泣きながら謝っている。
『縹、オレにもしものことがあったら弟たちのこと、頼むよ』
 蜂蜜色の大きな瞳が弱気で陰った。

 目が開く。慣れたものとは違う天井が視界に広がり、淡い色の土壁も、背に当たる床の感触も住み慣れた場所とは異なっていた。掛けられた毛布に身体は二度寝を求めている。天井に照明器具はあるが、行灯あんどんのみで照らされた室内は薄暗かった。開け放たれていた障子や窓はすべて閉ざされている。すぐ近くにある卓袱台の上には保温樹脂膜に包まれた食事が置いてあり、傍には小さな手紙が添えてある。「ご意向に沿えずすみませんでした。納屋におりますので、用件の際は遠慮なくお呼びください』と相変わらず左に傾いた癖の強い筆跡で綴られていた。
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