彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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加湿器が吹く湯気を動き力が湧くまで観察していた。毛布から出た上体は寒かったが、床の下は温かかった。火照るような温かさで、部屋の中にいるだけで逆上のぼせそうだった。立ち上がり、納屋へと向かう。外は息が白くなるほど寒かった。玄関を出ると護衛らしき武装した者が見回りをしていた。簡潔に自己紹介され、納屋に向かうことを告げ、その者も同行した。必要以上に大きな屋根付きの停車場に通じるように納屋はあった。中では小さなランプが揺らめき、群青は燈火の届かない闇に紛れていた。
「どうかなさいましたか」
 護衛が持っていた明かりで納屋全体を灯す。
「寒いでしょうから…母屋おもやに移りましょう。護衛の方も…」
「そういうわけにはゆきません」
 護衛の者も断った。
「凍死してしまいます。わたしひとりで過ごすには広いですから」
 極彩は空間の割りに小さいランプを拾い上げる。護衛の者にも声を掛ければ、もうすぐ交替の時間なのだと答えた。真っ暗になった納屋から群青は彼女を追った。
「極彩様」
「寒かったらおっしゃってください」
 母屋へ入る前に群青に呼ばれたが彼には応えず、玄関脇に立った護衛の者へそう言った。
「どこか体調でも悪いのですか」
「いいえ」
 入ってくる様子がないため、玄関扉を閉めようとしたがその前に群青は身を割り込ませた。ランプを奪ったまま居間へ戻る。彼は狼狽しながら玄関を上がった。極彩は知らないうちに現れた毛布を畳みはじめ、群青は戸惑いながら彼女を窺っていた。互いに無言だったが、毛布をしまい、彼に背を向けるやいなや極彩は口を開いた。
「叔父は…縹さんは焼かれましたか」
「はい」
 静寂は再来した。加湿器が湯気を漏らしながら呻いている。
「今はどうか、お休みください。お湯も沸かしておりますから…」
「…わたしが気苦労でおかしくなったとでも思っているんですか。違います」
 極彩はくすくすと笑う。男は行灯の赤い光に照らされながら見惚れているらしかった。眉が微かに寄り、瞳にわずかな希求が燈っている。
「群青様にひどいことを沢山言ってしまいました。謝って許されるものではございませんが…」
 頭を下げるが、群青の手によって阻まれる。両肩を掴み、しかし女の肉感を確かめてしまうとびっくりした様子で離れていった。
「何をおっしゃるんです。極彩様が謝ることなど何もございません!謝っても許されぬことをしたのはわたくしのほうです」
 緋色に浮かぶ床板を極彩はじっと見下ろしていた。
「何があったか忘れてしまいました」
 男の美しい顔に痛苦が炙り出される。
「わたしの惨い仕打ちに比べれば、取り立ててどうということはなかったのでしょう。申し訳なく思うのです。償いたいのです」
「疲れていらっしゃるんですね。布団を敷きます、湯浴みは明日の朝にでも…」
 彼は面食らっていた。
「群青様」
 返事にならない上擦った声を溢す冷えた頬を掬った。彼は歯を喰いしばっていた。唇が掠めるほど接近する。
「営む?」
 強く突っ撥ねられ、女は力のまま畳に転んだ。
「正気でいらっしゃるなら、心底軽蔑いたします…!許すとか償うとか…そんな、身体で…」
 男は逼迫しているらしかった。肩が上下し、長い睫毛の奥で眼が血走っている。
「そうしたいのかと思ったのです。間男になれると、以前おっしゃっていたでしょう?」
「貴方が俺を求めているなら…こういうことでは、…ないんです」
 群青は怯えながら女へ手を伸ばす。しかし彼女は応じない。
「湯を浴びてきます。どうか気を悪くしないでください」
「気を悪くすることはありません。極彩様の傍におります。極彩様と共に居られるまで」
 風呂場に行きかける極彩の腕を取り、彼は目の前に迫る。大切なことを話しているらしかった。彼女は妖しげな笑みを軽々しく彼に向け、入浴の支度をはじめた。
「極彩様。俺は本気です。娼館に行けとか情婦じょうふとか…そんな話ではないんです。ただこの想いだけでも、届いて欲しかったから…」
「群青様は胡乱なお言葉が好きですね」
 着替えを抱き、台所に繋がる風呂場へ向かった。
 赤や黄の花が側面に描かれた軽金の浴槽には淡い緑色を帯びた湯が張られていた。隣に半裸の男はいない。回された腕も、触れる掌もない。ひとりでいる。湯船の設置された壁の対面には鏡が灌水かんすい浴装置の留具に掛けられていた。水の音ばかりが響き、項垂れながら後頭部に雨が降る。肌を掻き毟りたくなった。優しい微笑の保護者が脳裏に現れ、濡れていく。髪が濡れ、身体が濡れ、視界が滲んでいく。喉が引き攣れ、意図せず漏れた声が吃逆と化す。浴室の扉が緩やかに叩かれた。大丈夫ですか、と柔らかに問われる。唇を噛んだ。撥水加工された小さな瓦状の床が水に殴られ続ける音だけが彼に応答する。極彩様。疑いを含んだ調子で再び扉が叩かれ、名を呼ばれた。
「失礼します」 
 湯気の奥の磨り硝子に青年の影が映る。震えた口元が平静を装う。
「逃げてません」
「…そういうことではないんです。早まった真似をいたしました。すみません」
 邪心は本当にないようだった。事務的な態度で彼は女の無事を確認したらしく、すぐさま出ていった。風呂上りに台所で顔を合せた途端、彼は改めて無礼を詫びた。
「わたくしのことは、空気と思ってくださって結構ですので」
「覗きも容認してください、ということでしょうか」
「ぜ、全然違います…!」
「冗談です。長湯をしてしまったので、少し冷めてしまいましたから、湯を足してくださいませ」
 居間の奥の部屋には布団が敷かれていた。入浴に向かったと思っていた群青は水差しを運び、部屋の脇の縁側とを分断する廊下に腰を下ろした。
「入浴しないのですか」
「お気遣いなさらず」
「その間にわたしが逃げたら、大変ですものね」
 肯定は曖昧なものだった。
「脱衣所で待ちます。寒いですから、しっかり温まってください。群青様とお話しもしたいです」
 長い睫毛と睫毛が大きく開いた。眠そうな夫だった若者の眼差しによく似ていた。
「しかし…」
「一緒に入り直しましょうか」
 驚いた表情は固まったままで、縦に振るべきか、横に振るべきか決められないでいるようだった。
「長湯はいたしません」
 彼は右腕を吊る布を外した。結び目をき、皺を伸ばしながら畳んでいく。夫だった若者が宿の寝椅子や寝台に散らかった衣類が放られていく様がふと蘇った。包帯もほどかれ、木板が現れる。武器の類は仕込まれていなかった。乾燥し節くれだった指が丁寧に包帯を巻いていく。夫だった若者の体温を混ぜ合った手の形を思わせた。
「以前貸していただいたお召物一式、後でお返しします。長らくお借りしてしまっていてごめんなさい」
 風呂場へ移動し、台所で群青は椅子を持ち出し、座っていろとばかりに脱衣所に置いた。彼は極彩に背を向け、衣類を脱ぐ。蕎麦切山でできた脇腹の傷は黒ずんで残っていた。引き締まった筋肉が牡鹿を彷彿させた。夫だった若者とは違う、暗い色の髪が背を滑っていく。傷んだ毛先だけはあの男の茶髪のように色が抜けていた。
「俺が監視されているみたい…です、ね…」
 彼はわずかに目元を染め、苦笑した。下帯に手を掛けるが彼女を気にする。
「壁とお話していますね」
「すみません」
 壁と対面し、カビや経年で黒く汚れた撥水加工瓦の溝を迷路のように辿っていた。
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