彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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浴室で水滴の落ちる音と、真後ろで彼が裸体を晒していく音が生々しく、排水口へと流れていったはずの重苦しさがまた眼球の裏を圧迫する。柔らかな香りがした。夫だった若者から最後に薫った香子蘭バニラが懐かしくなる。
「極彩様」
 虚構の声で彼は呼んだ。
「泣いているのですか」
「いいえ、まさか。どうして?」
「ふと、なんとなくそう思ったのです」
 磨り硝子の扉が引かれる。それを合図に壁との会話を打ち切った。
「どうしてすぐに正体を明かさなかったの」
 2度、大きく水が跳ねた。そして灌水浴シャワーが響く。彼にしては返答が遅かった。大雨に紛れ、届いていないのかもしれない。それならば排水口に吸い込まれていってしまっても構わなかった。
「本当に貴方との者との間に関係があると思ったのです。もしくは俺ではない方の担当との間に…」
「だからそのまま続行してくれる気でいたの…成りすまして?」
「はい。いつ命を落とすか分からない仕事でしたから、彼の本懐であるなら…」
 腹から血を流していた姿はまだ覚えている。
「その人が、つるばみさんというの?」
 あずきはそのような名を口にしていた。幼馴染といっていたがどこかそれ以上のものを感じ取ってしまったのは邪推のような気がして考えるのをやめてしまう。
「はい。俺と背格好が近い彼が選ばれました。ご存知なのは藤黄殿と、一部関係者のみです」
「橡さんはどうなったの」
 目を閉じてしまう。血に湿った爆薬。婚姻届の住所。焼け爛れた痕。順々に欠片が繋ぎ合わされていく。
「分かりません。申し上げることはできませんが、危険な任務ですので…連絡が途切れたということがひとつの報せになります。現段階で、存命の可能性は高くないといえます」
 極彩は黙ってしまった。夫は、もともと真に契った夫ではなかった。しかし同じ者であったはずだ。磨り硝子の奥で夫に似た青年の白い肌が湯気に包まれている。
「極彩様があの場に来た時は驚きました。しかし同時に嬉しくもありました。俺では叶えられぬことですから。反面、激しくねたましくもありました。存在するはずのない男に対して」
 どう答えていいのか分からなかった。彼は髪を洗っていた。
「…色街、利用したことないけれど…好きとか、愛してるとか、大安売りの上っ面だけでも、商売男と遊んでるみたいで楽しかった。結局傍になんて居てくれないし、別に要らなかったけれど、期待した瞬間は今思えば幸せだったから」
 蛇口を捻る軋み。磨り硝子の扉が開け放たれ、湯気が裸体を覆う。濡れた髪から水滴が落ちる。
「いくらでも言います。今すぐにでも」
「湯加減はいかがでしたか。こちらへ。おぐしを拭いて差し上げます」
 棚にあった乾布を取り、両腕に広げる。裸体に水が伝っていく。
「そんな怖いカオなさらないでくださいな」
「自分で拭けますので」
 全裸であることも彼は気にする様子がなかった。大胆に水気を払い、極彩の用意した乾布を奪うと背を向ける。
「群青様」
 乱雑な手付きで、まるでやすりをかけているようだった。傷痕はあるが、滑らかな肌が抉れていく不安を湧かせた。
「行かないでください、色街」
 極彩は微笑を浮かべ、何の話だとばかりに首を傾げた。
「いくらでも言います。何度でも。出来るだけ貴方を傷付けない、貴方の望む言葉を…」
「そう言っていただけるだけで、とても嬉しいです。湯冷めしてしまいますよ」
 刀傷で凹みのあるしなやかな二の腕に触れる。水滴を潰し、吸い付くような質感があった。沸騰直前の薬缶に指を当ててしまったかのように手を引っ込めてしまう。
「そうですね」

 近くから寝息が聞こえる。警護の観点から布団では寝られないと話していた。壁に背を預け、刀を抱いて彼は眠っていた。喉が渇いたため起き上がると、長い睫毛も開いたらしかった。しかし同じ姿勢を保ったままで眠った振りを続けていた。動向を探られている。隣の居間にある水差しに向かい、口腔を潤すと布団の傍へ戻った。群青は微動だにしなかった。空寝は続き、極彩は目の前に立って見下ろしていた。
「あの人と同じ律動で息をするのね」
 返事はない。薄い毛布を分厚い布団の下から引っ張り出し、同居人へと投げ捨てる。
「あの人ずっと、咳してた。可哀想に…」
 上手いこと掛からなかった。四つ這いになりながら近寄り、毛布を掛け直す。止まっていた加湿器を点け、布団の中へ潜る。
「あの人の毛先も傷んでた。明日、余裕があったら枝毛、切らせてね」
 とうに目覚めている青年は無言を貫いていた。寝返りをうって誰もいない方向に目を閉じる。
「おやすみなさいって、あの人は謝りながら言ってくれた」
「…おやすみなさい。毛布をありがとうございます」
「知らない」
 後方から夫ではない男の声がした。

 仕事に行く群青へ握飯を持たせた。朝、台所を探っていると新しい生米や食材が入っていたのだった。彼は少し驚いた顔をしたが礼を言って出ていった。玄関でその背を見送ると、居間に戻り、余った玉子焼きや加工肉、竹輪胡瓜、焼鮭を胡麻を混ぜ込んだ飯をともに食らった。置かれた品々からも暫く人が住んでいたらしかった。朝食の後は洗濯物をしたり掃除をして、縁側にくる野良猫と遊ぶか、日光に任せ寝るかの退屈な時間を過ごしていた。昼頃に何者かが訪ねてきたようだったが玄関まで現れることはなかった。群青が夕方に帰宅し、再び握飯の礼をしたが挙動不審で、一度たりとも目を合わせはしなかった。それが感想らしかった。ごめんなさい。漠然と彼女は謝った。彼は顔を逸らし、それだけ不味かったのだと告げている。もうしませから。笑って伝えた。彼女は自身の作った物が美味しいとはいえないまでも、そこまで不味いとは思っていなかった。味覚が合わないらしい。夕飯は交替した警備の者が配達し、極彩が食べている間に群青は隣室に控えていた。
「お腹、減らないんですか」
「はい。先程いただきましたので」
「…そうですか」
 大きな卓袱台で極彩は夕飯を食った。
「明日から自分の食べる分は自分で作るので…いつまでこの生活が続くのか分かりませんが、食材だけ入れてください。他にやることもありませんし」
「分かりました。必ずお伝えします」
「それと、渡したお弁当、食べてくださってありがとうございます。もう押し付けるような真似はしませんから、安心してください」
 彼は俯いてしまった。極彩は揚げられた鯵を最後の一切れを口へ運んだ。

『愛は罰…ってさ、最近そんなこと言いはじめんだよ。お前はそう思う?』
 よく炒めた玉葱のような色合いの犬を撫でながら、その犬によく似た雰囲気の若者が憂いを帯びた目で訊ねた。伸びた紫陽花が癖のある髪に触れ、淡い青色の萼が揺れた。
『愛は惰性…ね。オレは大喜利がしたいワケじゃないんだけどよ。やりたいこと、やらせてやりたいんだけどなぁ。兄失格だわ、ホント』
 犬は愛でる若者に顔を寄せる。下手な苦笑いを浮かべた彼をただ見ていた。
『愛は罰、か。誰が言ったんだろうな』
 薄い毛布を掛けられた膨らみの前で彼は屈みこんでいた。
『あんまり悲しくねぇや。自己満足かな。オレなりにちゃんと可愛がってたつもりだからかな』
 汚れて解れた小さな毬が膨らみの傍に置かれていた。
『花折るの、嫌なんだわ。オレってひでぇヤツだな。可愛がってたつもりだったのに。泣けねぇし、花供える勇気もねぇ』
 肩越しに振り返り、人懐こい笑みを見せられる。
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