彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「踏まれるのは好きですか?踏むのは?」
 問の意味も分からず、聞いてさえいなかった。ただただ石黄の行動に驚くばかりで、思考が追い付かない。
「色街のとあるお店に入ってください。調べてほしいことがあるんです。違法賭博と脱税と営業法違反のことなんですけど」
 毒を打ち込まれたことのある肩口を踏みにじられる。傷は塞がっているが痕は消えずにあった。痛みにはならない疼きがくすぐったい。
「はいって、言ってください。承諾してください」
 足が女の肌に沈む。石黄の頬がわずかに紅潮し、さらさらとした前髪の奥で澄んだ瞳が粘着質な艶を含んでいる。浅く弾んだ息遣いに彼自身はまるで気付いていないようだった。掠れた声が淡く色を持った唇から漏れ出て、そこには軽侮けいぶの笑みが忘れられている。足の親指が傷のあった箇所を押した。眇められた瞳がまた妖しく艶めく。城の庭園で二公子に向けられた興奮と同じ類のものだった。不快な汗が背中と衣類の間を蒸し、蚊を殺す要領で乗せられた足を叩いた。石黄は我に返ったらしく、足を退け瞠目する。慎ましやかな小さな口に清々しくも陰険な綻びはまだない。
「私のこともお踏みになりますか」
 極彩は上体を起こし、無言で視線がぶつかっていた。先に彼が口を開いた。
「そういう趣味はないです」
「ないと困るんです。そういう趣味のお店なので」
 真面目な態度を取り戻していたが、耳を疑う内容だった。黙っている極彩の肩に彼は触れた。揉むような手付きで肩や二の腕を往復する。不気味な挙動はさらに彼女を無言にさせた。
「もちろん、若様の許可は下りています」
 石黄は可愛らしく首を捻った。さらさらさらとした前髪に縁側から入る光が輪を落とす。極彩は返事に窮し、床の模様を訳もなく眺める。肩や二の腕の肉感を確かめていた手が彼女の胸の膨らみに触れた。柔らかい。彼は彼女よりも驚いた様子で呟いた。
「な、に…?」
 石黄から身を捩る。宙に残った手は無邪気に女の胸に沿った形をしていた。薄い色の瞳が名残惜しげに極彩を追う。表情を失った彼はさらに不気味を増し、以前宗教的儀礼に則り生米を振りかけた小さな亡骸と重なった。炎症を起こした片目もよく似ている。石黄は這うように極彩に近付く。恐怖を覚えて後退った。しかし彼は距離を詰め、女の脹脛を掴んでは膨らみを揉みしだく。甘えるような上目遣いで迫られ、気味の悪さで喉が引き攣った。そのまま脚を辿り、彼女の下肢に乗り上げた。浅い呼吸が途切れ途切れに聞こえた。
「若様に怒られちゃう…」
 虚ろな瞳で彼は口角を吊り上げた。女の腰を掴み、伸びた手が胸に添えられる。鳥肌が止まらなくなった極彩はゆるゆるとかぶりを振った。荒い息に掠れた呻き声が重なり、衣類に手がかかる。視界が一瞬だけ白く爆ぜ、彼の肌理きめ細やかな頬を張った。繊細な毛は風が奏でる体鳴楽器を思わせる華奢な音を立てた。打たれた頬に胸を包んだ掌を当て、彼はどこでもない一点を凝らしていた。
「帰って…ください…」
 震えて裏返った。石黄は初めてそこに他者がいることに気付いたような反応を示した。直後、目にも留まらぬ速さで極彩は背骨を床に叩き付けられる。腰部に他人の体温があった。馬乗りに跨られ、見上げた先には青年が逆光していた。目が合った途端に胸元を鷲掴まれ、布が裂けた。切れ端が舞う。驚く間も与えられずに拳が降った。容赦のない殴打に唇が熱くなり、そして湿った。甘く錆びた独特の風味が口腔に広がる。半開きの笑みが接近し、鼻先が彼女の皮膚を掠った。切れた唇の端が濡れ、鋭く痛む。ざらついた質感が粘膜の上を動き、極彩は彼のよく櫛の通された髪を引っ張った。離れようとするぎらついた目からは正気が窺えない。離さずに華奢な身体を床に敷く。今度は彼女が馬乗りになり、強く結んだ拳で狼藉者を殴り付ける。頭を守ろうとする石黄の片手が極彩の顔を突っ撥ね、指が彼女の頬に減り込んだ。皮膚の荒れた片方の目元へ鋭利な物を突き立てたくなる衝動に見舞われる。石黄は唸った。ごめんくださ~いと外から間の抜けた声が響いた。爪を剥いて彼の澄んだ瞳を抉るために振りかぶった腕が止まる。だが隙を突かれ、石黄は極彩の下から這いずって脱した。訪問者のいる玄関扉に行くらしかった。卓袱台の下に置いた時雨塗りの美しい短刀を抜いた。刀身を抜くと耳を撫でられるのかと思うほど心地のよい冷感が鼓膜を摩っていく。
「白梅ちゃん!」
 鞘を捨てたと同時に呼ばれる。指先に柄の滑らかな質感が蘇る。
「いるんすか?いるんすよね?」
 石黄は芋虫のようで、その後姿を刺し殺そうとする衝動が嘘のように打ち砕かれてしまい、居間の壁に放り投げた。声を発しようとした芋虫を背後から捕らえ、小さな口に指を入れる。首を後方に曲げてやると、喉から空気が漏れていった。
「会っちゃくれないんすか」
 いとこの声に宥められていく。偽りの関係を築いた共謀者が打ち解けたかった快男児の溌剌とした態度はまだ以前の明るさを取り戻していない。両腕の中で薄気味悪い青年が戦慄いている。指が噛まれ、彼女の手も震えた。
「色々とこじれてるのは分かってるんす。でも白梅ちゃんと姉弟きょうだいとして、オレっちは、一緒に…養父とうさんの願いに沿いたいっすから。それに白梅ちゃんとも…義兄にいさんには迷惑かけないっすから!もちろん。オレっちは離れに住むし…」
 言い慣れていない無理矢理ながらも強引に押し出した感じがくすぐったくなった。子供が必死に役割を全うしようとしている。両腕で捕縛している妖怪じみた青年のことなど忘れ、人語を話す扉を見つめていた。義兄など存在しないのだと訂正を呑み込む。その下で不気味な青年は声帯を軋ませ、玄関扉に向かおうと足掻く。指がぶつりと切れた。唾液が廊下に滴っていく。赤い色が混じっていた。
「白梅ちゃん…桜ちんが会いたがってたっすよ。この話、嫌かも知れないっすけど…桜ちんもどうしていいか分からないんだと思うんす。引くに引けないみたいなんすよ。ちょっとピリピリしちゃってて、ずっと難しい本ばっか読んでるんすよ」
 極彩は唇を齧った。眉間に皺が寄ってしまう。歯を立てられている指先が熱くなった。力を入れていたはずの腕から青年が擦り抜け、激しい回転を繰り出し、側頭部を強かに打ち付ける。廊下の壁が鈍く鳴った。破れた皮膚がじわりと違和感のある体温を集めて再生していく。喉奥からわずかに花の風味が漂った。だが呑気にその様を観察しているうちに蹴りが腹に入った。悲鳴を上げそうになり腕を噛む。玄関扉をじっと眺め、嘔吐感に堪える。不快な唾液が止まらず、袖を濡らした。
「オレっち、白梅ちゃんが心配っす」
 前髪に生白い指が通っていく。生え際が引っ張られ、顔を上げさせられた。無邪気な顔をして石黄は極彩を覗き込んでいる。極彩も応じたが、視覚を放って聴覚に集中していた。外で子供が必死に気を遣っている。
「桜ちんのこと元気にできるの白梅ちゃんだけなのに、オレっちは白梅ちゃんのために何もできねっす」
 肩を掴まれ、石黄の無邪気な笑顔を仰ぐ。彼は拳に手巾を巻いて、女を殴る。荒れた肌に覆われた目元を訳も無く凝視した。ひよこを思わせた世話係によく似ていた。
「でも、白梅ちゃんの味方でいさせてほしいんす」
 青年から興味を失くし、極彩は床へ寝そべりながら暴行に甘んじた。首を逸らして逆さまになった玄関扉を視界に収める。少年のまだ感情を隠すには経験不足な沈んだ色に、胸が苦しくなった。殴打がやむと、目の前から体温が消える。不穏な金属の摩擦が聞こえ、ぼうっと流れていく白い袴を視線を引かれる。布が巻かれた手で薄い金板が鋭い光を放つ。玄関扉に向かっていた。極彩は飛び起きた。いとこを殺されるかもしれない。呼吸を忘れ、脳天を鈍器で打ち付けられるかのような衝撃が走った。彼の襟首を掴んだ。天晴組の羽織がはためく。
「ウバッタクセニ…ボクカラ…」
 ぶつぶつと呟いて石黄は極彩を振り返る。道理も原理も分からないが、嫌でも気付かされてしまうことがある。この青年は秋の空に溶けていった黒煙と別個体には違いないが彼に違いなかった。小さな刃物を握る手首の血流が止まるほど強く締め上げ、大雨の日の濁流に似た瞳を睨んだ。
「ごめんっす、白梅ちゃん。もう帰るっすよ」
 いとこの姿は見えなかったが、犬歯をみせて笑っていることだけは容易に想像できた。反応のひとつも返さず、石黄と睨み合う。
「家人が応じていないにもかかわらず不当にこの管理区に留まった…それだけで逮捕できるんですよ。特別管理区侵入罪っていうんですけど」
 けろりと態度を変えて石黄は突然にこにこと笑みを浮かべはじめる。先程までの取っ組み合いなどまるで事実ではなかったとでも言わんばかりで、彼の中ではそれが真実でさえあるようだった。冗談か本気か、彼は銀色の腕輪を揺らした。気が利いていることに両腕用で、短い鎖がその2つを繋げている。
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