彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 客が顔見知りというやりづらい時間を過ごし、残りわずか10分のみ、従業員と客は役割から解放されることを許されていた。
「次はどうなさいますか。『松の膳組み』ですと初回は割引になりまして、さらに泡風呂のお付けしまして、こちらは入浴中のお客様を…」
 説明する極彩に半裸のまま桃花褐は接近した。帰り、待ってる。彼は囁いた。反射的に垂れ目を捉える。
「ンなら次は松の膳組みも考えてみまさ。今度はどんなスゴイことしてくれんのか楽しみだぃね」
 大袈裟に語り、彼は服を身に着け帰っていく。あとは清掃、着替えをこなせば退勤だった。天晴組に報告することは何ひとつなく、長くなりそうな仕事に肩が凝る。若い店長に絡まれながら清掃をしているところで支配人からの呼び出しを喰らい、店奥に向かった。支配人に会うのは初めてだった。葉巻煙草を咥えた大柄なよく肥えた男で、通った鼻梁や切れ長に幅広い二重瞼が印象によく残る顔立ちと脱色した髪は長く顔を隠し、痩せていたならばどこか色街の商売男にありがちな風貌だった。
 こういう仕事は初めてだと聞いているケド、本人の口からも確かめたいところだね。本当カナ?
 葉巻煙草を吸いながら支配人は問う。名は恋焦こがれと専用冊子に印字されていたが本名かどうかは分からなかった。極彩は問いを肯定した。ふん、と支配人は軽蔑するような響きを持って鼻を鳴らす。
 色街とは坩堝だね。その中でも当店ここは特殊だ。
 低く唸りながら支配人は極彩を見ることなく喋る。鼻にかかった声はまるで媚びているようで吐息が混じった。相槌を打って話を促す。
 何故ここは特殊なのだろう?客は何を求めて色街を彷徨う?どうしてこのような提供サービスを求めた?そのようなことは…考えなくていい。理屈も理由も原因も求めるだけ無駄さ。答えなんぞないのかも知れない。ただ店を切り盛りする者なりに考えてみた。
 室内を曇らせる煙は少し洒落た酒の風味を帯びていた。
 人は人の認識無しに自我を保っていられない…たとえばこの部屋から私が消えたとしよう。君は、君が君自身でいるという認識は一体君以外、誰が保証する?君自身がこの室内の空気に過ぎないかも知れないのに?
 支配人は両腕を広げ、重厚な木製机に背を向けると、目隠し簾の掛かった窓を眺めた。極彩は相槌を打つ。
 ここの客はここの従業員、つまり君たちにその認識を求めているのさ。新人の君にはまだ許されていないが、ここで育っていくのなら時として痛みを与えながら、時にはその身と良心を捧げて。行為、立場、外見…それだけの承認では満足がいかなかった、疑っている、自信がない、飽いてしまった―無条件にまっさらなただそこにある肉体を自身を、精神を知ってほしい―そういう者たちの居場所だよ。誇っていい。君たちは救済者だ。だから客を…否、客の欲望のみでも愛することだ。支配人として君に言えるのはそれだけさ。そのことを頭に入れて働いておくれ。
 ふふん、と支配人は上機嫌に鼻を鳴らした。極彩は一礼して部屋から出る。再び若い店長に絡まれた。何を話した、どう思った、と。支配人は色街中のの殿御倶楽部という男性が女性を接待する形態の飲食店で天辺を取ったことがある実力者らしかった。女に身体を売って名を上げる愛魁あいらんとは違うのだと彼は付け加えた。愛魁は色街に於いて最高級の性接待を行う店の男性だと極彩は聞いていた。若い店長はさらにこの辺りの情勢を着替える彼女に遠慮もなく延々と話した。着替え終わり、帰路につこうとする極彩に若い店長は送っていくと言ってきかなかった。肩に腕を回され、体重を預けられながら店を出るとすぐに呼び止められる。つい先程3時間も接客した男性客が隣の別の男など気にもせず彼女に近付いた。若い店長の腕が女性従業員の肩を引き寄せる。目の前を塞いだ大男の笑みが深まった。
「出待ちは禁止ですので…」
 極彩は小さく会釈をして桃花褐の脇を通り抜ける。よく知らない潜入先の男の腕が重かった。先程の客ということは店長も分かっているようで、根掘り葉掘り仕事中のことを聞かれた。結婚退職や出産休暇を予見し面接の段階で恋人や配偶者の有無を確認され、さらには客との交際は禁止だと念を押され、説教の途中で別れた。不言通りの特に人の多い通りだった。腕を乗せられていた肩を解した。遠回りだったが半ば強制された不言通り経由で蟄居先へ帰った。九蓮ちゅーれん宝燈ほうとう街方面は工事のため防壁が張り巡らされていた。それは恨言の貼り紙や卑猥な落書きだらけになって道を塞いでいる。どこか喧騒が離れて感じられた。威勢のいい呼び込みや喧しい男女の諍いの悲鳴、子供を呼ぶ親の声、読み上げられる商品名、跳ねる油、鉄製の玉杓子とぶつかり合う丸底鍋。すべてを掻き消してまた爆音が響くのではないか。行き交う人々が肉片と化して、焼け焦げていくような空想が視覚を蝕む。辺りを漂い、空腹を刺激する大蒜にんにくひしおの香りが血生臭く変わるのではないかと。呼吸が乱れた。気のせいだと思っていた。軽いものだと思った。息が吸えていないような感覚に陥り、必要以上に息を吸う。肺が消滅したかのように、そして体内が空洞と化したかのように呼吸を急く。
「嬢ちゃん」
 あたかもずっと近くにいたというような態度で背後から抱き竦められる。背中を熱い手が摩った。
「大丈夫だ、大丈夫。落ち着いて吸うんだ…―吐いて」
 行き交う人々と繁華街の風景が閉ざされる。知った匂いが鼻腔を抜け、大きく膨らみ凹んだ胸の動きが和らいだ。胸の奥の違和感が消えていく。
「桃花褐さん…」
「ああ。嬢ちゃんの頼れる用心棒参上だ。安心してくれや」
 後頭部にも厚い掌が回った。素肌を見てしまった割れた腹と硬い胸板の境目に頬を寄せてしまうと、電撃が頭の中を走るみたいだった。
「ごめんなさい」
 彼の筋肉質な身体を突き撥ねて、距離を取る。背と頭を包むしなやかな両腕が緩まる。
「助けてくれてありがとう」
「いいや、役に立てたならよかった」
 人懐こく彼は笑う。
「大切な仕事だから、お願い。あそこにはもう来ないで」
「大切な仕事?」
「そう。ああいう風にするのが好きなの。貴方には関係ないでしょ」
 桃花褐の豊かな感情表現がすべて消える。繁華街の雑踏に気を取られ、また不穏な心地に囚われる。掻き乱される。目の前の男と、数秒後には耳を襲うかも知れない爆音と悲鳴の空想に。一度離れた手にまた掴まれる。
「ひとりにして。感謝していることはいっぱいあるけれど、今は…お願い。ひとりにして。仕事上のことでも、踏んだり罵倒したりごめんなさい。あの店は合わないでしょう?もう来ないで…とまでは言わないけれど、わたしを指名しないで」
 彼は黙ったまま止まっている。まだ何か決定的な拒絶が必要らしかった。しかし言葉はこれ以上出てこなかった。侮蔑的な双眸を睨んで踵を返す。より遠回りになるが帰れない道ではなかった。
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