彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 目線の先に蟄居先が見えてきた頃に苦しげな声で呼ばれたため足を止めた。反応するより速く汗ばんだ腕が胸元に回り、背中が他人の体温に覆われる。知っているそれは普段よりも熱い。耳と首にかかる乱れた呼吸は飄々としたその人物には珍しかった。
「探した」
「どの面下げてここに来たの」
 汗によって湿った腕を振り払う。しかしその者は容易に放さなかった。
「銀灰くんを巻き込んでどういうつもり」
 腕を掴んで叩き落とし、垂れた目と対峙する。街灯の下で余裕がなさそうな垂れ目が熱を籠め、日焼けした肌が汗で白く照っている。自身の巨躯を支えるのも一苦労といった様子のその男は普段の状態でないことは瞭然で極彩はたじろいだ。
「洗朱風邪?」
 しかし洗朱風邪は少しずつ鎮まっているようだった。発熱はあるようだが空咳は今のところ聞いていない。
「…かもな」
 話すのも重労働なようで熱い吐息を混じらせながら短く答えた。おそるおそる硬そうな髪が張り付いた額に手を伸ばす。背伸びをすると彼から掌に額を当てた。元使用人のような検温はできなかったがそれでも人の通常の体温とは思えないほどの熱さだった。汗に濡れた額が掌を滑り、押し殺した悲鳴をこぼしながら頬へと移る。極彩は汗ばんだ男の頬から手を引いた。
「とりあえず、歩ける?」
 払ったばかりの腕を拾い自身の肩に回す。肌に触れた途端彼、桃花褐は苦しそうに唸った。
「いい…嬢ちゃんに用がある」
 桃花褐は無防備な極彩の首筋へ鼻先を埋めようとする。
「やめて。わたしは紅玉るびぃさんじゃない」
 桃花褐は低く鳴いて密着する女の身体を突き飛ばした。下唇を噛んで汗とは違う色の付いた雫が顎から滴っている。
「悪り。逃げちくり。何するか分かんねェ」
 両手を開いて彼は下唇から流れる液体を拭った。
「…何、どうしたの?」
 浅かった呼吸が今は慎重なほど深かった。息吹が街灯の明かりで淡い夜の中に響く。
「本当に洗朱風邪なら、治療しないと」
 もう一度桃花褐の腕を取ろうとした。
「あの店…予想外に危ないかもな…さっさと辞めたほうがいい…」
「どういうこと。やっぱり嵌められたの」
「いや、ハメたのは、」
「やめて」
 彼はまた唇を噛んで熱っぽい息を繰り返す。そのうち頭を抱えた。
「休んでたほうがいいと思うけれど。帰れないなら牛車でも…天晴組の人に言って泊めてもらう?」
「…いきなり来ちまって悪かった。帰るわ、どうかしてたぃな」
 桃花褐は緩慢な動きで踵を返した。
「桃花褐さん」
 彼は極彩の声に反応したが足を縺れさせた。汗ばんだ肉体を支えようとしたが視界の端で街灯が宙の一箇所を炙り出した。反射的に巨躯の前に跳び、時雨塗りの短刀を抜いた。桃花褐が脇で膝を着き、彼に気を取られた。甲高い金属音が眼前で鳴り、ほんの一瞬だけ柄に力が入った。稲光のような一瞬で、頭巾で目元以外を覆った者が見えた気がしたがそれが見間違いでない確信が持てなかった。
「狙われてるの?この前も…」
 焼菓子店の帰りに会った時も不穏な空気を纏っていた。
「もしかして女豹倶楽部の人?」
 潜入捜査を命じられるような店だ。
「嬢ちゃん」
 警戒を解けず短刀を構えたまま桃花褐の前に屈む。彼は極彩の肩に縋った。血の滴る厚い唇が接近したが掌で受ける。それでも彼は鼻の頭を押し付け、犬のように頬擦りした。
紅玉るびぃさんに言っちゃうよ」 
 唇が掌を柔らかく食み、歯が当たった。垂れた目を瞠って彼は首を引いた。
「嬢ちゃんしか、見てねェつもりだったんだがな」
 口説いてねぇよ、とは続かなかった。真剣みさえ含んでいる。極彩は顔を顰めた。
「病人の譫言は聞かないって決めてるから」
 桃花褐は自身の肩を抱いて白くなるほど爪を立てた。じっと地面ばかりを凝らし、戦慄く身体と喉が焼けそうなほどの息を抑えている。
「とりあえず上がって」
 起き上がる気配のない巨体に手を差し伸べる。
「…あんさんの匂いと声で、こんなくらくらすんのに、いいのかい」
「水風呂くらい浴びていったら」
 桃花褐の血で汚れた口に手巾を噛ませる。彼はくぐもった声を漏らし、片手は相変わらず肩を握り潰さんばかりに白く力を込めていた。空いた腕を借り、蟄居先へ連れ帰る。熱が伝わり、極彩もまた暑さに汗を浮かべた。敷地の入口を警備している天晴組は桃花褐を訝ったが、意味深長な目配せをして仕事先の名を出せば、同じく意味ありげな眼差しを返して中へ通すことが許された。すでに居間にいた淡藤に一言告げて汗だくの男を風呂場に押し込める。
「本当に風呂かい」
「汗でも流して、頭も冷やしたら」
 脱衣所の乾布を放り投げる。垂れた目が潤みながら虚ろになったり、女を捉えたりした。火照った顔が極彩を壁に挟んで迫った。唇が近付き、極彩は重い身体を押し返した。
「どうしたの?洗濯するから」
「…洗濯は、自分でする」
「そう?使い方分かる?」
 桃花褐は額に爪を立てる。極彩は簡単に洗濯機の説明をした。
手巾これ、汚しちまって悪かった」
 血の付いた手巾を受け取り、隅にある屑籠に捨てる。
「桃花褐さんに合う着替えないから悪いけれど、暫くは布を巻いていて」
 厚手の乾布の場所を教え居間へと戻る。淡藤は普段よりさらにいくらか引き締まった表情で彼女を迎えた。
「首を突っ込んで申し訳ありませんが、どちらです?」
「女豹倶楽部の迷惑な客です。何か聞き出せないか探ってみようかと」
「なるほど…しかしあの…姫様。若様が、その…」
 淡藤は言いづらそうに瞳を逸らし、膝の上で手を組んだり、解いたりした。
「妙な関係にはなりません。店の規定ですから」
「それならば安心いたしました。調査のほう、よろしくお願いいたします」
 淡藤は小姓を連れて帰っていった。男児の期待と落胆の目に気付かないふりをして見送る。玄関から風呂場へ移り、水の音を聞くと弟へ運ぶ食事を温め直した。風呂場の扉が開き、腰に布を巻いただけの男が現れた。
「ご飯は食べられそう?」
 彼は首を振ったため居間へ促す。軽食は摂らせているが弟が腹を空かせているのではないかと思うと気が急いた。
「ごめんね、銀灰くん。ちょっと人が来ていて。今日はここで食べてくれる?」
 弟は開け放った檻の奥で雑誌を片手に鉛筆を握っていた。謎解きが最近の趣味らしく、分からない部分は質問された。
「おかえりっす。分かったっす。いただきます」
 天晴組が帰った後はここ最近は居間で過ごしたが、弟を桃花褐に会わせたくなかった。
「お替りまだあるから、台所までなら来ても大丈夫だよ」
「はいっす」
 弟は両手を合わせ一言挨拶すると鰤の照り焼きに箸を伸ばす。甘藍かんらんの味噌炒めにも白米に手を付ける前に口へ運んでいた。
「姉ちゃんは?」
「わたしは食べてきたから全部食べちゃっていいよ」
 嘘だったが弟が腹いっぱい食べられるのなら一晩の空腹など些事だった。冷えた水を持って居間に戻り気怠げに背を丸める男の前に座った。
「落ち着いた?」
 熱を含んだ双眸は虚ろなままで、間を置いてから訊き返される。冷えた硝子杯を渡すと彼は頬に当てた。
「布団敷くから」
「いい…帰るわ。悪かったな」
「その格好で?服、洗ったんでしょう?」
 居間や座敷牢まで届くほどの洗濯機の低い轟きは確かにあった。
「なら、あんさんは離れていてくれ…このままじゃ、本当に…」
 桃花褐は悪そうに笑ったが、目が合うと苦しげに眉を顰めた。
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