彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 天晴組に敷地前で報告を求められる。若苗診療所で組長に報告したことを伝えても、極彩か、或いは自殺未遂を常習する彼等の組長を信用していないらしく、再び報告を求められる。解雇されたことを口にすると彼等は互いに目を配り合い、労わりの言葉をかけた。至急二公子へ報せると言ってひとりが城の方角へ走っていった。おそらく夜に来るのだろう。耳鳴りがする。腹に入れた果物が鉛になったようだった。吐き気を抑えて屋敷に入る。居間も台所も寝室も片付いている。棚に隠した酒類を眺めて、しかしやはり飲む気にならなかった。日が沈む前にどこかへ逃げ出したくてたまらなかった。だが用はなく、そのようなことができるはずもなかった。下手を打てば天晴組の若者が斬られる。それをみて蛇のほうが可愛いくらいの悍ましい男は愉しむに決まっていた。
 大丈夫ですよ。大丈夫です。大丈夫。
 淡藤から贈られた念をそのまま唱える。何も「大丈夫」という気はしなかった。落ち着かないまま空が暗くなっていくのを待つ。日が随分と伸びている。今日を何とか切り抜ければ、明日からは自由かも知れない。二公子には顔面に傷もなく、乾燥し枝毛だらけの人工的に巻かれた髪とは違う綺麗な毛の人形がある。それならば二公子の言葉に反することもなく、同衾を迫って悲鳴を上げることもないだろう。寒さに身が震え、褞袍どてらに包まった。がちがちと歯が鳴った。縁側の奥の塀に馬が現れた。いななきが聞こえる。二公子が来たのだ。息が詰まった。玄関扉が叩かれる。声が出なかった。極彩様。戸を叩き、伴う声は二公子のものではなかった。褞袍を手放せないまま震える膝で玄関へ迎えにいく。カラカラと引戸を開く。花婿姿までみた既婚者男性が立っている。思わず手が動いて開いてしまった分の隙間を埋めた。
「極彩様」
 扉を隔てて彼は呼んだ。訝しみながらまた引戸を滑らせる。二公子の遣いとして訪問したと説明される。極彩はこの男・群青の肩越しに2人ほど連れがいることを認め、居間へ通した。梅昆布茶を淹れて出し、群青の対面に座す。身形が綺麗になっている感じがした。傷んで跳ねていた髪は艶を持ち、櫛で整えられている。荒れがちだった唇にも肌にも張りがあり、色も良くなっていた。若い夫婦の生活を思わせる。狐という琵琶弾きの夫にはきちんと妻をしていられただろうか。していられなかった。ひとりの世界に入り込みかける。
「ご結婚おめでとうございます」
 形式的な祝の挨拶を述べる。彼はゆるゆると頭を振った。
「あ…いいえ…その、ありがとうございます」
 群青は表情を強張らせ動揺した。彼もまた婚前の神経症だったために気を浮つかせ、その矛先として選んだ相手を前に拙い思いをしているらしかった。長い睫毛の奥で瞳が惑っている。
「それで、用件は」
「二公子から謝礼金を預かっております」
 彼は後ろに控える者から風呂敷に包まれた金と銀の水引の付いた赤い封筒を渡され、極彩へ差し出した。
「お受け取りください」
「しかし…」
「どのような結果であれ無関係な極彩様に協力を仰ぎ巻き込むことになったのは変わりありません。どうかお受け取りくださいまし」
 金箔の練られた赤い封をおそるおそる受け取る。
しかと頂戴しました」
「それから何かひとつ、望みや欲しい物はありませんか」
「はい?」
 望みや欲しい物があれば叶えると、二公子から。群青は説明を加える。紅の義手。海の見える家。折られた簪の修理。紫暗との面会。
「夫と暮らしたいと言ったら?」
 一切目を合わせようとしない群青の眉間が寄った。
「冗談です。莫大な金がほしいです」
「何にお使いになるんです?どの程度?」
「金なぞいくらあってもいいものでしょう。そうですね、色街全域を買って取り潰せるような額です」
 調子に乗るな!後ろの若者が怒鳴った。しかし群青の腕に制されて唸った。
「何故」
「あの腐った場所をすべて取り潰して、気の違った病人たちを放り込む診療所を作るためです。焼き払うのではなく取り潰すんですよ!飽くまで、取り潰して、立ち退いてもらうんです!焼き払うのではなく!婚前憂鬱症も治せるような…費用は小麦餅ぱん小麦煎餅くっきぃを作って賄うんです。それが望みです…というのは嘘です。望みだけならば金はかかりませんからね!」
 気違いめ!また後ろの若者が怒鳴った。群青は彼を振り返って黙らせる。
「嘘は聞いておりません。もう少し現実的な望みをお聞かせ願います」
 群青は顔を伏せ、いくらか口調を強めて言った。
「紅と暮らしたいです。莫大なかねが現実的でないなら。癲狂病み診療所の街が作れないのなら、紅と暮らしたいです」
「旦那様でなくてよろしいんですか」
 彼はゆっくりと顔を上げた。咎めるような眼差しに射される。
「所帯なんぞ持ったら、色街に通えなくなりますからね」
 女豹倶楽部の客や店の外で聞いた世間話を真似る。群青は露骨に表情を暗くした。
「話はそれだけですか。それだけですね」
 黙っている城勤めに帰るよう促した。彼は後ろに侍る部下らしき若者たちを下げた。怒鳴っていた若者は群青に反抗しかけたが結局は極彩を睨んで出ていった。ひとり残った群青に極彩は顔を顰める。床を泳ぐ瞳はまだ目の前の女を見ようとせず、この場に留まったくせその薄く小さな唇を動かしもしなかった。極彩からも口を開かず飽いた態度を晒して用を待つ。ちらと見た大窓で塀の上を野良猫が歩いている。
「お茶、淹れ直します」
 極彩は群青に出した湯呑に手を伸ばす。彼も手渡そうとしたらしく湯呑に手を伸ばした。冷たい指とぶつかる。咄嗟に謝ると同時に衝突した手は彼女の手首を掴んで勢いよく引っ張った。湯呑が転がり、梅昆布茶が床に広がる。
「あ…っ」
 面積を増す茶に気を取られていた。群青から薫る慣れた匂いが状況を知らせる。背に腕が回り、意外にも筋肉のある胸へ頬を寄せている。力強い抱擁の中で暴れた。
「す、すみません、勢い余って…」
「勢い余ってこんなことをするんですか!放してください!」
 拒絶を口にして背に回った腕が落ちる。積極的に解放する気はないらしかった。
「妻帯者の自覚は?最低だと思います。わたしが色街に居たからといってここはそういう店ではありませんよ」
 群青を突き飛ばして台所から布巾を持ってくると梅昆布茶の池を拭いた。彼は突き飛ばされた体勢のまま固まっていた。まるで帰る気配がない。
「夫を持ちながら他の人に迫られた、わたしも人のことは言えませんね。ご放念ください」
 嫌味を言ってやれば何か考えているらしき双眸が、濡れた布巾と湯呑3つを片付けに台所へ向かう女の姿を捕まえる。梅昆布茶を淹れ直し新しい湯呑と急須を運ぶ。卓袱台を群青との間に割り入れ、そこへ盆を置いた。彼の視線は極彩の手を追っていた。
「菖蒲殿とはどのような関係なんですか」
「群青殿とわたしの関係そのままです」
「では、」
「城のめいで監視する者と監視される者ということですね」
 急須を円を描くようにゆったりと回しながら茶を淹れる。彼は液面を凝視していた。
「それでは何もない…?」
「勢い余って抱擁するということもありませんね」
「…すみません」
 群青は項垂れて謝った。
「その一杯を飲んだら帰ることです。あんなに可愛らしい娘はなかなかいません。彼女の心配の要素(たね)になるつもりはありません。わたしはすべてを忘れます」
「…はい」
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