彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「どうかなさったのですか。お怪我を?」
 己を拒んだ人間にも桜は寛容な態度を向ける。慌てた様子で駆け寄ってくるのであった。あまりにも無邪気であった。極彩は彼に危害が及ぶのを恐れた。
「来てはだめ」
 肌荒れのわずかに治まった若い面構えには不安を帯びているくせ迷いはなかった。
「御主人」
「ここで会ったことは忘れて、お行きなさい。わたしは大丈夫だから……」
「お怪我ですか、ご病気ですか」
 桜は半歩、後退りかけていた。仕えていた女の後ろにいる男に威圧されたのだろう。
「桜……」
「御主人を返してください」
 繊細なところのある、感受性の強い少年だ。彼は理解してしまったのだろう。この有様が合意ではないと、分かってしまったのだろう。
 懇願に返答はなかった。
「か、か、返してください……その御人おひとを、返してください……」
 桜は背丈こそ、特別小柄というわけではなかったが、腕っ節に自信があるような性分でも、喧嘩上等という主義でも、体格からして膂力りょりょくがあるわけでもなかった。そして気が強いわけでもないのだった。
「返してください、お願いします……!」
 桜は膝から崩れ落ち、両手をつくと頭を伏せた。
「お願いします!返してください!御主人を返して」
 徐々に姿勢が低くなっていく。
「姉さん」
 翡翠はあたかも彼女に選択権があるかのように呼ぶ。まるで彼女の返答次第では手放してやるぞとばかりである。
「降ろしてください」
「いいよ、姉さん。放してあげる」
 何が彼の気を変えたのだろう。純朴な少年の嘆願が胸に響いたとでもいうのか。
 翡翠は極彩をその場に降ろしたのではなかった。桜の元へ歩み寄り、大きな荷物を渡すかのようだった。しかしその嫋やかな腕で、人をひとり抱えることができただろうか。やはり彼には膂力が足らなかった。彼は自らを下敷きにすることで、面目を保った。
 大荷物を失った翡翠はただ桜の前で豎立じゅりつしていた。
「姉さんによこしまな思慕を抱いたら、そのときは、殺す。必ず」
 極彩は咄嗟に両者の間に割り入った。両腕を広げ、桜を庇う。
「俺はいい子なんだよ、姉さん。姉さんの大切なものを壊したりなんてしない。俺はいい子なんだよ、姉さん」
 翡翠は屈んだ。そして桜を守ろうとする姉の唇を吸った。逆らえば勝てない。彼女は拒絶を諦めた。ここには桜がいる。
「じゃあ、行くね、姉さん。また会いにいきます」
 年下のあかの他人の女をまだ姉だと錯誤している男は去っていった。そのまま消えるのかと思えば。突如として振り返り、姉がまだそこにいるのか確かめるのであった。狂人の機嫌を損ねるのは賢明ではない。特に今は、巻き込みたくない者が傍にいる。
 漸く、翡翠の姿が見えなくなる。
「御主人……あの……」
「ありがとう、助けてくれて」
「ご、ご無事ですか?どこか、お怪我を……?」
 彼女は首を振った。一刻も早くこの純粋無垢な元召使いと別れたかった。
「児童虐待」
「え?」
「子供に乱暴したの」
 罪状はそうであった。桜は目を剥いた。そして唇を戦慄かせた。以前とはいえ仕えていた相手が極悪な外道と知れて、嚇怒かくどしているのかもしれない。
「嘘……ですよね?」
 極彩は裸足のままそこへ立った。
「いいえ。本当のこと。ありがとう桜。元気でね。ここで出会でくわしたことは忘れてちょうだい」
 立ち去ろうとしたとき、袖を引っ張られる。それが桜らしくなかった。言葉がすぐに出ないらしかった。目を白黒させている。
「怪我をします!宿へ立ち寄ってください」
 彼は力強く彼女の腕を掴んでいた。
「桜……」
 純真な眼差しに彼女は弱かった。
「足を切ったら大変ですから。お店が開くまで待っていてください」
「大丈夫よ、わたしは」
「いけません。お急ぎだというのなら、固布を巻かせてください。ないよりは。足の保護になります」
 結局、彼女は桜の背に乗って、彼の泊まる宿へ向かっていった。柘榴の営む宿だった。けれど店主は帳場にはいなかった。時間は早朝である。
 一度訪れたことのある部屋で、彼女は足を清められた。桜は彼女について何も訊きはせず、最近の当たり障りのないことを語って聞かせる。
「このあと、手術があるんです」
 静寂が訪れかけたとき、桜はそれを恐れているかのように口にした。
「まだ駆け出しなんですけど、僕を助手として引き受けてくれるところがあって。今度、切ってみないかって。数こなすしかないから。久々なんですけど。僕が主導は初めてで……」
 極彩は縮こまっている桜を横目で見遣った。
「だからちょうどいいのかもって思ったんです。弱気になっていたので。御主人に会えて、気が引き締まりました」
 彼は俯いていたが、やがて顔を上げた。そして見慣れた情けない微笑を浮かべるのだった。彼は、彼が憧れだといつか口にしていた群青にはなれない。この少年は真っ直ぐだ。垢も生臭さもない。
「ちゃんと食べてるの」
「はい、もちろん。柘榴さんがお心遣いくださいますし、僕も働いていますから」
「そう。それならいいけれど。医者の不養生では大変だから。しっかり食べて、よく休んで」
「それは御主人もです……」
 彼女はふと、意地の悪そうに笑った。
「なんて、まだあなたの御主人様気取りね。桜、もういいの。よく尽くしてくれたけれど、わたしはあなたが思うような人ではないし、縹さんが亡くなった時点で主従関係はもう終わり。それでもよく働いてくれて、わたしを慮ってくれてありがとう。でももう大丈夫。あなたは強いから。手術、あなたが望むとおりになることをわたしも望む」
 結局、宿の履物を借りて彼女は帰った。しかし桜の巻いた布はほどかず、牢屋へ戻る。
 ほんの数時間の出来事が実際よりも長く感じられた。壁から吊るされた板の寝台に丸まって眠る。肌寒い。そして寝たいだけ寝て、昼頃に目が覚めた。すでに飯が届けられている。肉料理でった。彼女はそれが何の肉なのか外見だけで判じることはできなかったけれども、早朝のことが甦った。この肉はおそらくウサギなのであろう。白い毛並みの可愛らしい小型の獣に違いなかった。二公子ならばやりかねない。
 食欲はなかった。あったかもしれないが、失せてしまった。
「彩、帰ってきた?」
 脚のない膳を突き返すと、この囹圄れいぎょに朗らかな声が谺する。格子の奥に近侍もつけず、単身で天藍が現れる。否、ある意味で単身ではなかった。白い布に覆われた手は絆綱きづなを握っていた。繋がれているのは白い毛尨けむく。無邪気に跳ねている。進行方向を理解せず、気紛れな方向に移動するため、天藍はその都度、歩を進め、立ち止まり、白い毛玉を見下ろしている。
「さすがと言うべきか、彩と群青の子はかわいいなぁ」
 丸みを帯びた身体についたさらに小さな丸いものがぴこりぴこり、上下する。
「ほら、お前のお母さんだよ。名前は……どうする?白藍びゃくらんじゃ、オレとの子だものね」
 黙っていても、二公子が勝手に決めるのだろう。
海棠かいどうだ。お前は今日から海棠だよ。かわいいなぁ」
 二公子はウサギを抱き上げ、頬擦りする。
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