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覚醒した彼女
奪う男、護る男
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「俺から逃げるつもりか? いや、違うな。俺から逃げられるとでも思ってるのか?」
興俄は逃げようとする彼女の腕を掴み、己の方へ引き寄せた。
「無駄だ、逃げようとしても」
「やめ……」
必死で身を捩ろうとするが、しっかりと押さえつけられて身動きが出来ない。
「やっと逢えたのだ。逃がしはせぬぞ」
低い声で囁かれ、冬華の背中がぞくりとする。拘束される痛み。彼女の五感で感じる全てが絶望の淵へと落としていく。必死に抵抗を試みるものの思うように力が入らず、とても彼の力には敵わない。誰か気がついてと心の中で祈るが、助けは来ない。その間にも横たわる母の身体からはおびただしい量の血が流れていた。
こうなったら力を使うしかない。人を傷つけるために力を使った事は一度もなかった。しかし今、目の前の男を倒さなければ母を助けられない。冬華は目を瞑り全身に力を籠める。
『お願い、この人を倒したい。彼を傷つけて。彼の動きを止めて』
必死にそう願った。すると身体がバラバラになる感覚がやって来た。これは行けると思った次の瞬間、自分自身だけが吹っ飛んだ。身体が壁と床に叩きつけられる。何が起こったのか彼女には理解できない。腕が、足が、背中が痛む。倒れたまま目を開け視線を動かすと、興俄は無傷で立っていた。彼はゆっくりと仰向けに倒れている冬華に近づいた。
「ほう、その力で俺を殺そうとしたのか。だが、お前の力は他人を傷つけることはできないようだな。諦めろ、お前は俺に従うしかないんだ」
倒れたままの彼女の唇が微かに動く。呼吸と共に吐き出した声は彼の名前を呼んだ。
「……鷲く…ん」
その名を聞いた興俄の顔が顰められる。
「おまえは、俺のことだけを考えていればいい」
興俄はしゃがみ込み掌で冬華の口を塞いだ。呼吸を制限され、身体中の痛みと息苦しさがいっそう彼女の恐怖を煽る。倒れた体制のまま、冬華の意識は薄れていった。
その時、玄関のチャイムが鳴った。興俄は舌打ちをして立ち上がり、玄関に向かい渋々ドアを開けた。
訪ねてきた鷲は目を見開いてたじろいだ。ドアを開けたのは、冬華でも彼女の母でもなくあの人。嫌な予感がする。
「どうして貴方が……ここで何をしているんだ」
「お前こそ、こんな時間に何の用だ」
鷲は、冷たく言い放つ興俄を無視して家の中に押入った。かすかに血の匂いがする。視線の先、和室では冬華と母親が倒れていた。
「冬華!」
名を呼んで彼女に駆け寄った。息はある。気を失っているようだ。ふと視線を動かすと彼女の母親は血を流して倒れていた。そばに血の付いた包丁が転がっていた。
「これはどういうことだ。彼女に何をした」
鷲は立ち上がり、低く冷たい声で目の前の男を睨んだ。
「邪魔をするな、九郎。この女は俺のものだぞ」
興俄は不敵な笑みを浮かべ、横たわる冬華を見遣る。その顔を見て鷲の表情は険しさを増した。
「俺のもの? ああ、やはりそうか。そうだったのか」
「何の話だ」
興俄が怪訝な顔で言うと、鷲は彼に一歩近づいた。
「貴方の和歌はいくつも入集して、後世にも残っている。慈円と詠み交わしていたくらいだ。それなりの歌人だったのでしょう。僕は最近、あるパンフレットにあった句を見つけたんです。『この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝』これは貴方が詠んだ句ですよね。仮託だとも言われていますが」
「それがどうした」
「僕はこれを見た時に違和感を感じた。おだまきは布を織る道具。麻糸を巻いたもの。あの時代、珍しいものではなかったかもしれない。しかし、この句を詠んだ七年前、彼女は貴方の前でこう歌いました。『しづやしづ しづのを(お)だまきくりかえし 昔を今になすよしもかな』と。もちろん知っていますよね。敵である僕を慕う歌など聞かされて、たいそう気分が悪かったでしょう。おまけに貴方への皮肉も込められている。本来なら二度と思い出したくもないはずだ。先の句を詠んだ富士の巻狩りの時、折角妻に送った使者を追い返されたそうですね。使者に事の顛末を聞かされて、妻を無粋な東女だと言ったとか言わないとか。貴方は強い女が嫌いではない。貴方の心には七年前に出逢った、凛として美しい日の本一の白拍子、静の姿がずっと残っていたのではないですか。富士の巻狩りの途中、美しい滝を見てふと情緒纏綿とした気分になり、彼女の姿が浮かんだ。だから、あの忌々しい歌にあった『おだまき』を持ち出した。貴方は冷酷な人間だ。冷酷でありながら、情緒的な一面もある。一度出逢った聡明で美しい彼女を忘れるはずがない。貴方は昔、彼女を我が物にしようと傷つけ苦しめた。そうですよね」
「だったらどうなんだ。だいたい、お前が彼女を手放したのだろう」
「手放してはいない。また逢おうと誓い合っていたんだ」
「言いたいことはそれだけか。くだらんな。だいたい彼女の力は、お前のような人間では扱いきれん。さっさと帰れ」
突き放すように言った興俄を睨み、鷲は黙って背負っていた長細い鞄を肩から降ろした。鞄を開け、中から長さ80センチほどの刀を取りだす。鯉口を切り、鞘から一気に引き抜きいた。
「僕は今ここで貴方を討つ」
「その刀……なぜそのようなものがお前の手元にある」
訝し気に聞くと、刀を手にしたまま鷲がゆっくりと口を開いた。
「僕の父親は骨董品の収集家なんです。その中にこの日本刀があったんですよ。コレは本物です。ちゃんと許可も取っている。腰元で深く反っているところなど薄緑によく似ているでしょう? 勿論、別物ですけどね。本当は今夜、これを彼女に見せようと思っていた。誰かさんが夜討ちを指示した時、彼女が支度を手伝ってくれました。昔話でもできればと思ったんです。でも近いうちにこんな日が来るとも思っていた。あの頃は貴方に遠慮して刀を奉納した。けれど、今なら戦える。少なくとも負ける気はしない」
「ここで俺を殺すとでも言うのか? お前と戦うほど俺は愚かではない。良いことを教えてやろう。もうすぐこの国には次々と災害が起きる。その時、彼女は俺の傍らにいるだろう。お前の出る幕なんて、最初からないんだよ」
「何ふざけたことを言っているんだ。冬華が貴方の傍にいるわけないだろう。ここで僕と戦え。決着をつけてやる」
鷲が刀を構えたその時、
「夢野さん、大声が聞こえたけど……」
同じ公営住宅に住む老人が、開け放たれた玄関から顔を覗かせた。彼は畳に横たわる冬華と血まみれで倒れている母親を見て、ひっと息を飲んだ。
「お、おい。あ、あんたら何をやってる。大変だ、警察に電話を……」
老人は慌てて部屋を飛び出した。
「あの調子では、すぐに警察が駆け付けるだろう。早く行かねば、そんな物騒なものを持ったお前は真っ先に殺人犯にされるな。クラスの女子に一方的に好意を持ったお前が家にあった刀を持ち出し、母と同級生を脅した挙句、台所の包丁で母親を刺したと言うところか。この女は俺の恋人。彼女から相談を受けていたと言えば、俺が居合わせても不思議はあるまい」
鷲は気を失っている冬華に視線を移し、そして開け放れたままの玄関を見た。
「くそっ」
鷲は忌々しそうに吐き捨てると刀をしまい、冬華を抱きかかえる。興俄が手を伸ばすが、それよりも早く鷲は部屋を飛び出した。
「おい、静は置いていけ。お前がどこへ行こうが、俺は必ず奪い返すぞ。手段は選ばない」
鷲の背中にかけた声はそのまま暗闇へと消えて行った。
「全く逃げ足の速い奴だ。追うか。いや、老人を捜す方が先だな」
興俄は先ほど現われた老人の記憶を消そうと、部屋を後にした。
ややあって、北川麻沙美が血に染まった部屋と、横たわる母の遺体を見て盛大な溜息をついた。
「厄介ごとを増やすわね。どうするのよ、これ」
「目撃者の記憶は消した。コレは貴女に任せます。俺は他にやることがある」
「それにしても、見事に逃げられたようね」
「どうせまた北にでも逃げるのだろう。すぐに見つけてやるさ」
興俄は空を見上げる。漆黒の夜空に浮かぶ満月は雲をまとい霞んでいた。彼はそのまま姿を消した。
興俄は逃げようとする彼女の腕を掴み、己の方へ引き寄せた。
「無駄だ、逃げようとしても」
「やめ……」
必死で身を捩ろうとするが、しっかりと押さえつけられて身動きが出来ない。
「やっと逢えたのだ。逃がしはせぬぞ」
低い声で囁かれ、冬華の背中がぞくりとする。拘束される痛み。彼女の五感で感じる全てが絶望の淵へと落としていく。必死に抵抗を試みるものの思うように力が入らず、とても彼の力には敵わない。誰か気がついてと心の中で祈るが、助けは来ない。その間にも横たわる母の身体からはおびただしい量の血が流れていた。
こうなったら力を使うしかない。人を傷つけるために力を使った事は一度もなかった。しかし今、目の前の男を倒さなければ母を助けられない。冬華は目を瞑り全身に力を籠める。
『お願い、この人を倒したい。彼を傷つけて。彼の動きを止めて』
必死にそう願った。すると身体がバラバラになる感覚がやって来た。これは行けると思った次の瞬間、自分自身だけが吹っ飛んだ。身体が壁と床に叩きつけられる。何が起こったのか彼女には理解できない。腕が、足が、背中が痛む。倒れたまま目を開け視線を動かすと、興俄は無傷で立っていた。彼はゆっくりと仰向けに倒れている冬華に近づいた。
「ほう、その力で俺を殺そうとしたのか。だが、お前の力は他人を傷つけることはできないようだな。諦めろ、お前は俺に従うしかないんだ」
倒れたままの彼女の唇が微かに動く。呼吸と共に吐き出した声は彼の名前を呼んだ。
「……鷲く…ん」
その名を聞いた興俄の顔が顰められる。
「おまえは、俺のことだけを考えていればいい」
興俄はしゃがみ込み掌で冬華の口を塞いだ。呼吸を制限され、身体中の痛みと息苦しさがいっそう彼女の恐怖を煽る。倒れた体制のまま、冬華の意識は薄れていった。
その時、玄関のチャイムが鳴った。興俄は舌打ちをして立ち上がり、玄関に向かい渋々ドアを開けた。
訪ねてきた鷲は目を見開いてたじろいだ。ドアを開けたのは、冬華でも彼女の母でもなくあの人。嫌な予感がする。
「どうして貴方が……ここで何をしているんだ」
「お前こそ、こんな時間に何の用だ」
鷲は、冷たく言い放つ興俄を無視して家の中に押入った。かすかに血の匂いがする。視線の先、和室では冬華と母親が倒れていた。
「冬華!」
名を呼んで彼女に駆け寄った。息はある。気を失っているようだ。ふと視線を動かすと彼女の母親は血を流して倒れていた。そばに血の付いた包丁が転がっていた。
「これはどういうことだ。彼女に何をした」
鷲は立ち上がり、低く冷たい声で目の前の男を睨んだ。
「邪魔をするな、九郎。この女は俺のものだぞ」
興俄は不敵な笑みを浮かべ、横たわる冬華を見遣る。その顔を見て鷲の表情は険しさを増した。
「俺のもの? ああ、やはりそうか。そうだったのか」
「何の話だ」
興俄が怪訝な顔で言うと、鷲は彼に一歩近づいた。
「貴方の和歌はいくつも入集して、後世にも残っている。慈円と詠み交わしていたくらいだ。それなりの歌人だったのでしょう。僕は最近、あるパンフレットにあった句を見つけたんです。『この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝』これは貴方が詠んだ句ですよね。仮託だとも言われていますが」
「それがどうした」
「僕はこれを見た時に違和感を感じた。おだまきは布を織る道具。麻糸を巻いたもの。あの時代、珍しいものではなかったかもしれない。しかし、この句を詠んだ七年前、彼女は貴方の前でこう歌いました。『しづやしづ しづのを(お)だまきくりかえし 昔を今になすよしもかな』と。もちろん知っていますよね。敵である僕を慕う歌など聞かされて、たいそう気分が悪かったでしょう。おまけに貴方への皮肉も込められている。本来なら二度と思い出したくもないはずだ。先の句を詠んだ富士の巻狩りの時、折角妻に送った使者を追い返されたそうですね。使者に事の顛末を聞かされて、妻を無粋な東女だと言ったとか言わないとか。貴方は強い女が嫌いではない。貴方の心には七年前に出逢った、凛として美しい日の本一の白拍子、静の姿がずっと残っていたのではないですか。富士の巻狩りの途中、美しい滝を見てふと情緒纏綿とした気分になり、彼女の姿が浮かんだ。だから、あの忌々しい歌にあった『おだまき』を持ち出した。貴方は冷酷な人間だ。冷酷でありながら、情緒的な一面もある。一度出逢った聡明で美しい彼女を忘れるはずがない。貴方は昔、彼女を我が物にしようと傷つけ苦しめた。そうですよね」
「だったらどうなんだ。だいたい、お前が彼女を手放したのだろう」
「手放してはいない。また逢おうと誓い合っていたんだ」
「言いたいことはそれだけか。くだらんな。だいたい彼女の力は、お前のような人間では扱いきれん。さっさと帰れ」
突き放すように言った興俄を睨み、鷲は黙って背負っていた長細い鞄を肩から降ろした。鞄を開け、中から長さ80センチほどの刀を取りだす。鯉口を切り、鞘から一気に引き抜きいた。
「僕は今ここで貴方を討つ」
「その刀……なぜそのようなものがお前の手元にある」
訝し気に聞くと、刀を手にしたまま鷲がゆっくりと口を開いた。
「僕の父親は骨董品の収集家なんです。その中にこの日本刀があったんですよ。コレは本物です。ちゃんと許可も取っている。腰元で深く反っているところなど薄緑によく似ているでしょう? 勿論、別物ですけどね。本当は今夜、これを彼女に見せようと思っていた。誰かさんが夜討ちを指示した時、彼女が支度を手伝ってくれました。昔話でもできればと思ったんです。でも近いうちにこんな日が来るとも思っていた。あの頃は貴方に遠慮して刀を奉納した。けれど、今なら戦える。少なくとも負ける気はしない」
「ここで俺を殺すとでも言うのか? お前と戦うほど俺は愚かではない。良いことを教えてやろう。もうすぐこの国には次々と災害が起きる。その時、彼女は俺の傍らにいるだろう。お前の出る幕なんて、最初からないんだよ」
「何ふざけたことを言っているんだ。冬華が貴方の傍にいるわけないだろう。ここで僕と戦え。決着をつけてやる」
鷲が刀を構えたその時、
「夢野さん、大声が聞こえたけど……」
同じ公営住宅に住む老人が、開け放たれた玄関から顔を覗かせた。彼は畳に横たわる冬華と血まみれで倒れている母親を見て、ひっと息を飲んだ。
「お、おい。あ、あんたら何をやってる。大変だ、警察に電話を……」
老人は慌てて部屋を飛び出した。
「あの調子では、すぐに警察が駆け付けるだろう。早く行かねば、そんな物騒なものを持ったお前は真っ先に殺人犯にされるな。クラスの女子に一方的に好意を持ったお前が家にあった刀を持ち出し、母と同級生を脅した挙句、台所の包丁で母親を刺したと言うところか。この女は俺の恋人。彼女から相談を受けていたと言えば、俺が居合わせても不思議はあるまい」
鷲は気を失っている冬華に視線を移し、そして開け放れたままの玄関を見た。
「くそっ」
鷲は忌々しそうに吐き捨てると刀をしまい、冬華を抱きかかえる。興俄が手を伸ばすが、それよりも早く鷲は部屋を飛び出した。
「おい、静は置いていけ。お前がどこへ行こうが、俺は必ず奪い返すぞ。手段は選ばない」
鷲の背中にかけた声はそのまま暗闇へと消えて行った。
「全く逃げ足の速い奴だ。追うか。いや、老人を捜す方が先だな」
興俄は先ほど現われた老人の記憶を消そうと、部屋を後にした。
ややあって、北川麻沙美が血に染まった部屋と、横たわる母の遺体を見て盛大な溜息をついた。
「厄介ごとを増やすわね。どうするのよ、これ」
「目撃者の記憶は消した。コレは貴女に任せます。俺は他にやることがある」
「それにしても、見事に逃げられたようね」
「どうせまた北にでも逃げるのだろう。すぐに見つけてやるさ」
興俄は空を見上げる。漆黒の夜空に浮かぶ満月は雲をまとい霞んでいた。彼はそのまま姿を消した。
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