【完結】姫神子と王子

桐生千種

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第1章 緋王氷利

第1話 夜ごとの訪れ

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 トクン……トクン……――

 心臓が、早く波打ち始める。
 もうすぐ、陽が沈む。
 高く、遠い窓の向こう側に見える空がオレンジ色に染まる時刻。

 もうすぐ、彼が来る。
 毎晩続いている、彼と過ごす時間。

 ガチャリ――

 静かに響く金属音が、扉が開かれたことを知らせる。

 ――来た……っ。

「桜ノ」

 発せられた声は、彼のもの。
 彼が呼ぶのは、私の名前。

 フワリ――

 なにをするよりも先に、抱きしめられる。
 彼の腕の中。

 それだけで、私の心臓は壊れそうなくらいに激しく波打って、顔は熱く火照りだす。

「やっと会えた。桜ノ」

 耳元で囁かれる、優し気な彼の声。

「……昨日も……会ったよ……?」

 ドキドキと波打つ心臓のせいで、震えてしまいそうになる声をどうにか絞り出してそう告げると、彼は私を抱きしめる力を強めた。

「うん……そうだね……」

 そう呟く、彼の声は幸せを噛みしめているようで、それがなんだか、切なくなる。

「でもね」

 呟いて、少しだけ離れた彼。
 本当に、ほんの少しだけ。
 だから私はまだ、彼の腕の中。

 じっと、間近で見つめてくる彼の紅い瞳。
 燃えるようなその眼差しに、私の顔はさらに熱くなる。

「俺は毎日、桜ノに会えるこの時間が楽しみでたまらない。毎日毎日待ち遠しいんだ」

 彼の優しく柔らかな声。
 けれど、そこには強いなにかが含まれているようで……。

 私を見つめる瞳も、優しくて、柔らかで、けれどなにかを求めるように、燃えるように、熱く光っている。

「……っ」

 彼の熱い視線に耐えられなくなって、恥ずかしくなって、俯くと、右頬に彼の大きな手のひらが差し込まれた。

「ダメだよ、桜ノ」

 クイッ――

 彼の咎めるような言葉と同時に、彼の手によって上向かされた。
 再び、彼の熱い瞳と目が合う。

「……っ」

 再び俯くことは、彼の手が許してくれなくて、思わず、私は両目を閉じた。

「桜ノ」

 彼が私の名前を呼ぶ。

 だけど私は目を開けない。
 開けられない。

 コツン――

 額に、なにかが当たる感触。

 離れることなく、くっついたままの、なにか。

 ――これは彼の、手?

 だけど、彼の手は私の頬に触れるものと、腰に回されているもので、すでに2つ。
 だけど額に当たるこれは、確かに人肌のもの。

 ――なら一体、これはなに……?

「許さないよ、桜ノ」

 考えをめぐらせている間に、彼が話し始めた。

「俺がここにいるのに、俺から目を逸らすなんて」

 そう言う彼の言葉は、怒っているように聞こえるけれど……。

「桜ノの瞳に俺を映さないなんて……。許さない」

 けれど、どこか楽しんでいるようにも聞こえて……。

 恐る恐る、両目を開ける。

「……っ!!」

 し、心臓が、止まる……っ!!

 そこにあったのは、彼の紅い瞳。
 燃えるように熱い彼の紅い瞳が、すぐ目の前にある。

 額に当たっているなにかは、彼の額で……。

 私の視界いっぱいに広がる、彼の綺麗な顔。

「……あ、の……えっ……あ……」

 言葉が言葉にならなくて、口がパクパクする。

 クスッ――

 彼の、小さく笑う、吐息。

 それと同時に、彼の額は私の額から離れていった。

「顔、真っ赤」

 嬉しそうに言う、彼。

 そのひと言で、私の顔はさらに赤くなったと思う。
 ただでさえ熱くなっている顔が、さらにかぁっと熱を持つのがわかる。

「今、俺のこと、考えた?」

 そう言う彼に、私は言葉を発せなくて、コクリと1度頷いた。

 今の私には、それがせいいっぱいの唯一できること。

「その瞳に、俺だけをいっぱいに映して、俺のことだけを考えて、ドキドキした?」

 射すくめるような、けど、優しくてやわらかくて、嬉しそうな眼差しを向けられて……。

 なにも答えられなくて、私は顔を両手で覆った。

 それと同時に、彼の手が私の頬からスルリと離れていって……。
 それが少し残念……。
 なんて思う間もなかった。

 恥ずかしすぎて、もうこれ以上、この心臓がもつ自信がない……。
 耐えられない……。

「そうやって……。桜ノはどうしても俺から目を逸らす……」

 そう言う彼は、残念そうな吐息を吐きながら、けれどやっぱりどこか楽しそうで……。

「だけどいいよ。許してあげる」

 彼はどこまでも嬉しそう。

「きっと今の桜ノの心は俺でいっぱいだろうから」

 そんな彼の言葉に、余計に心臓が波打つ。

「俺のことを考えて、俺のせいで心臓が高鳴って、俺のせいで顔を真っ赤にして……。全部全部、桜ノの身体は俺のために動いてるんだ」

 そう言って、私を抱きしめて……。
 そう言って、私の頭を撫でて……。

 今日も彼は私の心臓にトドメを刺す。

 彼の言葉のひとつひとつに心臓が波打って、彼が行動するたびに、彼がこの肌に触れるたびに、心臓が壊れてしまいそうなくらい暴れ出す。

 こんなことが毎日、毎晩、繰り返されて……。

 私の心臓は毎日限界まで働いて……。
 いつかそのうち、本当に壊れてしまうんじゃないかって、思うけど……。

 彼のせいでこの心臓が止まってしまったのなら……。
 それで私は幸せだ、なんて思ってしまうことがあるなんて……。

 彼には言えない……。
 絶対の、秘密……。
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