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第8話 亜人の兄妹、名前を思い出した夜
しおりを挟む夜の吹雪は、音がないのにうるさい。
雪が舞うたび、闇がかすかに白く揺れて、風が砦の壁を撫でるたび、どこかで獣が低く唸っているみたいに聞こえる。
火のある部屋にいても、外の冷たさは骨の裏側にまで染みてきた。
セラフィナは帳簿を閉じ、指先を揉んだ。
交易の話は少しだけ進んだ。
塩と穀物が入った小さな袋が倉庫の隅に置かれている。
たったそれだけで、心は少し軽くなる。
でも軽くなると同時に、恐怖も鮮明になる。
増やさなきゃ。
守らなきゃ。
生き残らなきゃ。
「お嬢様、無理しないでくださいね」
アイリスが言う。
鍋の中の湯が小さく揺れ、湯気がほのかに薬草の匂いを立てる。
それは王都の香水よりずっと地味で、ずっと本物だ。
「無理してるつもりはないわ」
セラフィナが答えると、アイリスは頬を膨らませた。
「無理してる人って、だいたいそう言うんです」
「……そうね」
素直に認めると、アイリスが一瞬だけきょとんとして、それから小さく笑った。
その笑いが、火より温かい。
カイルは部屋の隅で刃物を研いでいた。
シュッ、シュッ、と一定の音。
吹雪の音に紛れないくらい、硬い音。
あの音は安心と恐怖の両方を連れてくる。
守れる武器があるという安心と、守らなければならない現実という恐怖。
「……外、見回ってくる」
カイルが言い、外套を掴んだ。
「この吹雪で?」
アイリスが目を丸くする。
「こういう夜ほど、来る」
カイルの声は短い。
来る。
何が。
盗賊か、獣か、飢えた人か。
セラフィナは頷いた。
「気をつけて」
「気をつけるのはお前らだ」
カイルはそう言って、扉を開け、夜へ溶けていった。
冷気が一瞬だけ部屋に流れ込み、火がふわりと揺れる。
扉が閉まると、また静けさが戻った。
セラフィナは息を吸った。
胸の奥で心臓が鳴る。
王都では聞こえなかった音。
ここでは、はっきりと聞こえる。
そのとき。
――ゴン。
砦の外。
何かが門を叩いたような、鈍い音がした。
アイリスの肩が跳ねる。
セラフィナは椅子から立ち上がる。
「今の、聞こえた?」
「聞こえました……」
アイリスの声が震える。
火の揺れが大きくなる。
風が強まっただけかもしれない。
それでも、胸がざわつく。
――ゴン。
もう一度。
今度ははっきりと、人の手で叩いた音だった。
セラフィナはカイルが置いていった短剣を手に取る。
握り慣れていない。
でも握らないよりマシだ。
「アイリス、後ろに」
「お嬢様が前に出ないでください!」
「領主よ」
「領主でも死んだら終わりです!」
アイリスの言葉が刺さる。
でも、ここで逃げれば、砦は“誰も守らない場所”になる。
守らない場所には、人は集まらない。
人が集まらない場所は、死ぬ。
セラフィナは、扉を開けた。
吹雪が顔を打ち、まつ毛が一瞬で濡れる。
視界が白い。
それでも、門の方へ目を凝らす。
そこに――影が二つ、倒れていた。
「……人?」
アイリスが息を呑む。
セラフィナは雪を踏み、門の前へ近づく。
影は小さい。
子ども――いや、子どもに見える体格だ。
雪に半分埋もれ、肩で息をしている。
近づいた瞬間、鼻を刺す匂いがした。
血の匂い。
汗の匂い。
そして、恐怖の匂い。
彼らは、亜人だった。
耳が少し尖っている。
肌の色が人間より深い。
手の甲には薄い毛があり、指先が冷え切って紫になっている。
男の子――兄らしき方が、妹を抱えるようにして倒れていた。
妹の頬は腫れ、唇が切れている。
セラフィナが足を止めた瞬間、兄の方がぎゅっと目を閉じた。
まるで、次に来るのは刃だと知っているみたいに。
「……どうせ、殺される」
かすれた声。
雪に溶けそうな声。
セラフィナの胸が、痛いほど締め付けられた。
この言葉は、経験からしか出てこない。
一度や二度、嫌な目にあった程度では出ない。
何度も。何度も。
追われ、殴られ、奪われた者だけが持つ諦めの音。
「お嬢様……」
アイリスが後ろで小さく言う。
怖い、ではない。
怒りが混じった声だ。
彼女は差別が嫌いだ。
自分が平民として見下された過去があるから。
セラフィナは短剣を下ろした。
その仕草に、兄がびくりと肩を震わせる。
それでも目は開かない。
開けば、絶望を直視することになるから。
「ここでは」
セラフィナは、冷たい空気の中で言葉を選んだ。
慈悲の言葉は言わない。
可哀想だとは言わない。
そんな言葉は、彼らをさらに惨めにする。
「ここでは、働くなら食べる権利がある」
風が吹き、雪が舞う。
その言葉は空に散りそうなのに、兄の耳にちゃんと届いた。
「……は?」
兄が、片目だけ開いた。
疑いの目。
期待しない目。
期待すると傷つくと知っている目。
「差別もしない。けど、ただで養う余裕もない」
セラフィナは続ける。
「あなたたちが働けるなら、ここで生きていい」
兄の目が揺れる。
揺れて、また閉じる。
信じたいのに信じられない。
「……条件、ってこと?」
かすれた声で、妹が言った。
意識がある。
でも限界に近い。
「そう。条件」
セラフィナは頷いた。
「その条件、飲める?」
兄は、唇を震わせた。
その震えは寒さだけじゃない。
心が揺れている震え。
「……飲む」
声が小さい。
でも、確かに言った。
アイリスがすぐに動いた。
毛布を持ってきて、兄妹にかける。
それは王都の上質な毛布じゃない。
でも今は、それが世界で一番温かい布に見えた。
「大丈夫、大丈夫……」
アイリスの声は、子どもをあやすみたいに柔らかい。
兄はその声にびくりとする。
優しさに慣れていない反応。
「触るな」
兄が小さく唸る。
「触らないと凍えます!」
アイリスが強く言い返した。
強いのに優しい。
その矛盾が、彼女らしい。
カイルが戻ってきたのは、その直後だった。
扉が開き、吹雪と一緒に彼が入ってくる。
外套に雪が積もり、眉には霜がついている。
「……何だ」
カイルが目を細める。
一瞬で状況を把握し、腰の剣に手をかける。
「亜人の子たち。倒れてた」
セラフィナが言うと、カイルの視線が鋭くなる。
警戒。
当然だ。
こういう夜に来るのは、助けを求める者だけじゃない。
罠の場合もある。
兄がカイルの剣を見て、また目を閉じた。
「……やっぱり、殺される」
「殺さない」
カイルが言った。
驚くほど短く、驚くほど断定的に。
「ただし嘘をついたら叩き出す」
その言葉に、兄は目を開いた。
条件。
その言葉が、彼らにとって“公平”の形なのだ。
「……分かった」
兄が絞り出すように言う。
カイルは兄妹の傷を確認し、手当てを始めた。
手つきが慣れている。
布を裂き、血を拭き、薬草を当てる。
その間も、視線は常に周囲を警戒している。
優しさの押し付けじゃない。
必要な処置としての行動。
セラフィナは、その姿を見て思った。
この男もまた、傷ついた側だ。
だからこそ、余計な感情を挟まない。
感情を挟めば、壊れると知っている。
夜は長かった。
吹雪は続き、砦は軋み、火は揺れた。
兄妹は毛布に包まれ、熱に浮かされながら眠った。
眠りの中で何度も小さくうなされ、びくりと体を震わせる。
悪夢が、彼らの中に住んでいる。
アイリスは寝ずに付き添った。
セラフィナも椅子に座ったまま、火を見つめていた。
火の向こうに、王都の大広間がちらつく。
断罪の光。
観客の沈黙。
あの冷たさと、この吹雪の冷たさは、どこか似ている。
でもここには火がある。
火は自分たちで起こした火だ。
翌朝。
吹雪は弱まり、空は薄い灰色になっていた。
兄妹は目を覚ましたが、すぐには起き上がれない。
体が痛む。心が警戒で固まっている。
セラフィナは、彼らの前にしゃがみ込んだ。
視線の高さを合わせる。
王都の貴族がやらないことを、ここでは自然にやれる。
上から見下ろすと、相手は怯える。
怯えたままでは、働けない。
「話せる?」
セラフィナが聞くと、兄が頷いた。
「……俺たち、追われてた」
「誰に」
「街のやつら。亜人は盗むって決めつけて……殴って、荷物奪って……」
言葉が途切れ、兄は歯を食いしばる。
悔しさが、喉の奥で詰まっている。
妹が小さく言った。
「私たち、何もしてないのに」
何もしてないのに。
その言葉は重い。
何もしていないのに罪を背負わされる感覚は、セラフィナにも分かる。
“悪役令嬢”という罪。
存在そのものが罪になる理不尽。
セラフィナは一度だけ息を吸い、問いを変えた。
「あなたの名前は?」
兄が固まった。
妹も固まった。
まるで予想外の攻撃を受けたみたいに。
「……名前?」
兄が呟く。
その声が、なぜか少し震えている。
「そう。名前。あなたたちはここで働く。なら、呼ぶ必要がある」
当たり前のことを言っただけ。
なのに、兄妹の顔が揺れる。
揺れて、揺れて、言葉が出ない。
名を呼ばれるのが久しぶりすぎるのだ。
呼ばれるのは「亜人」「汚い」「盗人」ばかりだったのだろう。
名前を呼ぶことは、相手を人として扱うことだ。
それを彼らは忘れかけていた。
「……ノア」
兄が、やっと言った。
声がかすれていて、でも確かに自分の名前を取り戻す音だった。
セラフィナは頷く。
「ノア」
その名を、もう一度口にする。
言葉は火種みたいだ。
口にすると、温度が生まれる。
妹が、唇を噛んでから小さく言った。
「……エリナ」
まるで秘密を打ち明けるみたいに。
でもその瞬間、エリナの目の奥に光が戻った。
薄い光。
消えそうで、でも確かにそこにある光。
「エリナ」
セラフィナが呼ぶと、エリナは瞬きをして、涙を溜めた。
泣きたくないのに泣けてしまう顔。
嬉しさが痛みに変わる瞬間の顔。
アイリスがそっと毛布を直し、笑った。
「ノア、エリナ。ここでは、ちゃんと名前で呼びます。ね?」
ノアは戸惑うように眉を寄せ、それから小さく頷いた。
エリナは涙をこぼしながら、必死に頷く。
カイルが壁際で腕を組み、静かに言った。
「条件は覚えてるな」
ノアが頷く。
「働くなら食べられる」
「そう」
カイルはそれ以上何も言わない。
でも、その距離感が彼らを安心させる。
甘い言葉を信じられない人間ほど、条件の方が信用できる。
セラフィナは立ち上がり、淡々と言った。
「まずは休んで。傷が治ったら、できることから始める。薪運びでも、水汲みでもいい」
ノアが、恐る恐る聞く。
「……俺たち、ここにいていいのか」
セラフィナは頷いた。
「条件を守るなら、いていい」
それは慈悲じゃない。
差別でもない。
ただ、ここに必要な仕組み。
でもその仕組みが、彼らにとっては世界で初めての“居場所”になる。
火がぱちりと音を立てる。
その音の中で、ノアとエリナの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
居場所は、言葉から始まる。
名前を呼ぶことから、始まる。
セラフィナは思った。
この砦は、捨てられた者たちの終着点じゃない。
始まりにできる。
始まりにしなければならない。
そして彼女は、ノアとエリナの名前を胸の中でそっと繰り返した。
それは、未来へ繋ぐ小さな契約みたいだった。
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