悪役令嬢扱いで国外追放?なら辺境で自由に生きます

タマ マコト

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第9話 小さな市場、最初の笑い声

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 雪が緩んだ朝は、匂いがする。
 冷たさの奥に、土の匂い。
 湿った木の匂い。
 そして――人の匂い。

 砦の前の雪原に、見慣れない足跡が増えていった。
 昨日まで、風と獣しか通らなかった白い道に、荷車の轍が刻まれ、靴底の跡が交差する。
 その模様が、セラフィナには絵みたいに見えた。
 「ここに人が集まる」っていう、未来の下書き。

「……来た」

 アイリスが窓から顔を出し、声を弾ませた。
 吐く息が白いのに、その白さが嬉しそうに揺れる。

「誰が?」

「村の人たちです! それと……あ、パン! パンの匂いします!」

 その言葉に、セラフィナは思わず窓へ寄った。
 確かに、焼けた小麦の匂いが風に乗ってくる。
 王都の焼き菓子みたいな甘さじゃない。
 生きるための、素朴な香り。

 砦の門を開けると、そこには小さな市が立っていた。
 市、と言っても、王都の市場みたいな華やかさはない。
 木の板を渡して作った簡易の台。
 布をかけただけの屋根。
 それでも、そこに並ぶものは眩しかった。

 乾燥穀物。
 塩の小袋。
 木彫りのスプーン。
 粗い布。
 蜜蝋の小さな塊。
 そして――焼きたてのパン。

「領主さま」

 村の男が帽子を取り、一礼した。
 前に交渉した村長のところの者だろう。
 表情は硬いが、目は昨日より少しだけ柔らかい。

「約束の分だ。塩と麦。あと、余りの野菜も少し」

「ありがとう」

 セラフィナが言うと、男は照れたように頬を掻いた。

「礼はいらねえ。道、ほんとに直してくれたからな」

 道。
 昨日まで雪に埋もれていた道が、今朝は踏み固められ、轍が残っている。
 ノアとカイルが中心になって、倒木を片付け、目印を立てた。
 セラフィナは指示を出し、計算をし、できる範囲で手も動かした。
 アイリスは炊き出しをしながら、村の女たちと話した。

 小さな積み重ねが、今日の市を呼んだ。

 パン屋の女が、湯気の立つ籠を見せた。

「焼き立てだよ。持ってくかい?」

 その声は、王都の商人みたいに媚びていない。
 ただ、生活の声。

 アイリスが目を輝かせる。

「お嬢様、買っていいですか!」

「……買うって、お金は」

「交換です! ほら、昨日集めた蜂蜜の欠片と……あと、布の端切れ!」

 アイリスはもう、この土地のルールを覚えている。
 王都の礼儀より、よほど早い。

 女は笑った。

「いいよ。端切れ助かる。針仕事に使えるから」

 交換。
 その瞬間、セラフィナの胸の奥で、何かが温かくなる。

 紙の上の契約が、現実の手のひらに落ちた音。
 数字が、パンの匂いになった。

 砦の前に、人が集まり始める。
 村の男たちが木槌で板を打ち、簡易の柵を作る。
 カン、カン、と木槌の音が響く。
 その音は、建設の音であり、生活の音だ。

 エリナが外へ出てきて、雪の上で立ち尽くした。
 まだ顔の腫れが残っている。
 でも目は昨日より強い。
 ノアの背に隠れるようにして、周囲を見回す。

「……人、多い」

 エリナが小さく呟く。
 その声が怯えに傾きそうになる。

「大丈夫」

 アイリスがすぐ横で言った。

「ここでは、誰もエリナのこと殴らない。ね?」

 アイリスは笑いながら言う。
 笑いながら言うけど、目は真剣だ。
 その真剣さが、エリナを支える。

 ノアが小さく頷いた。

「……ここ、変だ」

「変でいいの」

 セラフィナが言った。
 その言葉が、自分自身にも向けられている気がして、少しだけ胸が軽くなる。

 市の片隅で、子どもが走り回っていた。
 村からついてきたのだろう。
 小さな足が雪を蹴り、転びそうになって笑う。
 笑い声が風に乗って砦の壁にぶつかり、跳ね返って広がる。

 笑い声。
 それは王都の夜会でも聞いた。
 でもあれは、誰かを刺す笑いだった。
 ここは違う。
 生きていることが、ただ嬉しい笑い。

 セラフィナは、胸の奥がじんとするのを感じた。
 熱い。
 痛い。
 でも、この痛みは嫌じゃない。

 ――私、暮らしを作ってる。

 初めてそう思った。
 王都で“正しさ”を守っていたとき、誰の暮らしが守られた?
 守られたのは体面だけだった。
 今は違う。
 パンを焼く人がいる。
 木槌を鳴らす人がいる。
 笑う子どもがいる。

 それが、自分の決断の結果としてここにある。

「領主さま、これ」

 村の少年が、手のひらに小さな木彫りの鳥を乗せて差し出した。
 粗い彫りだけど、羽の形がちゃんと分かる。
 目がついている。

「もらっていいの?」

 セラフィナが聞くと、少年は頷いた。

「道、通れるようになったから。父ちゃん喜んでた」

 ありがとう、と言うと少年は照れて走り去った。
 その背中に、セラフィナは小さく息を吐いた。
 胸がいっぱいで、言葉が追いつかない。

 だが、温かさと同時に――冷たい影も生まれる。

 人が集まる。
 物が集まる。
 匂いが立つ。
 それは、獣を呼ぶ。

 カイルが砦の高い位置に立ち、周囲を見渡していた。
 視線が鋭い。
 剣に手をかける癖が出ている。
 その姿を見て、セラフィナの胸の奥が冷える。

 夕方、市が少し落ち着いた頃。
 カイルがセラフィナを手招きした。

「来い」

 短い。
 でも、今は苛立たない。
 この男の短さは、危険の匂いだ。

 砦の影に入ると、カイルは低い声で言った。

「見られてる」

「誰に」

「盗賊か、流れ者か。……どっちでも面倒だ」

 セラフィナは唇を噛んだ。
 予感はあった。
 人が集まれば、狙われる。

「どこで」

「南の森の縁。煙が上がった」

「村の人じゃない?」

「違う。村の人はあんな場所で火を焚かない。目立つから」

 カイルは言い切る。
 経験だ。
 生き延びてきた者の、嗅覚。

「今夜、来る?」

「可能性は高い」

 可能性。
 その言葉が重い。
 重いのは、守るものが増えたから。

 砦の前には市がある。
 人がいる。
 村の商人も、子どもも、エリナもノアも、アイリスも。
 守るべきものが、昨日より多い。

「……判断を」

 カイルが言う。
 珍しく、命令じゃない。
 突きつけられたのは選択だ。

「村の人を帰すか、ここに泊めるか。守るなら、配置を変える」

 セラフィナの喉が乾く。
 逃がせば安全かもしれない。
 でも帰路で襲われれば、取り返しがつかない。
 泊めれば守りやすい。
 でも砦が落ちたら、全員が死ぬ。

 決断。
 決断はいつも、何かを切る。

 セラフィナは市の方を見た。
 パンを売っていた女が、子どもにパンの端を渡している。
 子どもが頬張り、笑う。
 その笑い声が、胸を刺した。

 守りたい。
 この笑い声を守りたい。
 それは王都で抱いたことのない、具体的な願いだった。

 そのとき、アイリスが近づいてきた。
 顔色が悪いのに気づいたのだろう。

「お嬢様、どうしました」

 セラフィナは一瞬だけ迷い、正直に言った。

「……襲撃の気配がある」

 アイリスの目が大きくなる。
 唇が震える。
 でも彼女は逃げなかった。

「……襲撃、ですか」

 震えながら言う。
 それでも、目は真っ直ぐ。

「どうする」

 セラフィナが問うと、アイリスは一呼吸置いてから言った。

「お嬢様」

 声が震えている。
 でもその震えは、逃げたい震えじゃない。
 踏ん張っている震え。

「ここはもう、“捨て場所”じゃないです」

 アイリスは言った。
 言葉が、雪の冷たさを裂く。

「家です」

 家。
 その単語が、セラフィナの胸に落ちた。
 王都の屋敷を家と呼べたことはない。
 家族がいる場所を家と思えたことはない。
 でも今、ここを家と言われると、胸が痛いほど温かい。

 セラフィナは、その言葉を胸の奥に沈めた。
 沈めて、重しにする。
 決断の重し。

「……村の人たちは、砦に入れて泊める」

 セラフィナは言った。
 声は硬い。
 でも硬いから、揺れない。

「守る」

 カイルが短く頷いた。
 剣を握る手が、さらに強くなる。

「配置を変える。門前は柵を二重。火は消さないが、灯りは抑える。見張りは三交代」

「三交代って、人数が」

 セラフィナが言うと、カイルは市の方を見た。

「男手を借りる。条件は同じだ。働くなら、守る権利がある」

 その言葉に、セラフィナは息を吸った。
 条件が、人を繋ぐ。
 守るための条件。

 セラフィナは村の男のところへ向かった。
 胸の鼓動が速い。
 でも足は止まらない。

「今夜、砦に泊まってほしい」

 セラフィナが言うと、男は眉をひそめた。

「なんでだ」

「危険がある」

 言葉を飾らない。
 飾る時間はない。

「……盗賊か」

 男の顔が引き締まる。
 村の男たちが周囲に集まり、空気が一気に固くなる。

「守る。だから協力して」

 セラフィナが言うと、男は短く頷いた。

「分かった。あんたがそう言うなら、信じる」

 信じる。
 その言葉が、喉の奥を熱くする。
 王都で聞いたことのない種類の信頼。

 日が沈み、夜が来る。
 砦の中に人々が入り、火が小さく揺れる。
 子どもたちは毛布に包まれ、怯えながらも眠りにつく。
 パンの匂いがまだ残っている。
 木槌の音は止まり、代わりに剣の擦れる音がする。

 セラフィナは砦の壁際に立ち、外の闇を見た。
 闇は深い。
 でも闇の中で、確かに自分は息をしている。

 守るべきものが増えるほど、決断は重くなる。
 その重さは、王都の“役目”の重さと違う。
 この重さは、自分が選んだ重さだ。

 そしてセラフィナは、胸の中でアイリスの言葉を反芻する。

 ここはもう捨て場所じゃない。
 家だ。

 その言葉が、剣より強い盾になる気がした。
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