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第10話 初陣、領主の手が血を知る
しおりを挟む夜は、音が薄い。
雪が積もる夜は特にそうで、足音も、息も、世界に吸い込まれていく。
だからこそ、微かな違和感が――刃みたいに目立つ。
砦の外。
闇の向こうで、雪が擦れる音がした。
風とは違う。
規則的で、重い。
見張り台の上で、カイルが手を上げた。
それは合図だった。
喋るな、灯りを抑えろ、息を殺せ。
砦の中には、人がいた。
市の人々。
村の男たち。
毛布に包まれた子どもたち。
火のそばで眠るエリナ。
壁際で弓を抱えるノア。
そして、アイリス。
守るべきものが、息をしている。
セラフィナは、冷たい石壁に背をつけ、耳を澄ませた。
胸の奥で心臓が鳴る。
どく、どく。
音が自分の体の中で暴れている。
王都の断罪の場で鳴った心臓より、ずっと生々しい。
ここでは、鳴るたびに死が近づく。
カイルが階段を駆け下り、セラフィナの前に現れた。
目が鋭い。
剣を握る指が白い。
「来る」
短い言葉。
でも、十分すぎるほど意味が詰まっている。
「数は」
「多い。十以上。たぶん二十」
セラフィナの喉が、きゅっと縮む。
二十。
この砦にいるのは、戦える男が村の男たちを含めても十数人。
そのうち武器をまともに扱えるのは半分もいない。
「……でも、逃げ道はない」
セラフィナが言うと、カイルは頷いた。
「だから守る。領主、指示を出せ」
指示。
王都での指示は、礼儀の言い換えだった。
ここでの指示は、生死の分配だ。
セラフィナは唇を噛み、声を出した。
大声ではない。
必要な人に届く声。
「全員、集まって」
村の男たちが集まる。
顔がこわばっている。
でも逃げない。
家族が砦の中にいるからだ。
ノアが弓を背負い、こちらに来た。
エリナは火のそばで目を覚まし、薬草の束を握っている。
小さな手が震えている。
でも、その震えは役に立とうとする震えだ。
アイリスがセラフィナの横に立ち、囁いた。
「お嬢様、手……冷たい」
「今はいい」
冷たいのは手だけじゃない。
胃が冷たい。
背中が冷たい。
恐怖が体温を奪っていく。
セラフィナは、村長の男を見た。
「あなたたち、武器は?」
「鍬と斧くらいだ」
「それで十分。門に配置して」
命令じゃない。
役割を割り振る。
ここでの言葉は、上下ではなく、線を引くためにある。
「ノア」
セラフィナが名前を呼ぶと、ノアの目がこちらを見た。
怯えの残る目。
でも、昨日より確実に光がある。
「弓、撃てる?」
「……撃てる。森で獲ってた」
「なら、上。見張り台。狙えるところから撃って」
ノアが頷く。
唇を結び、弓を握り直す。
「エリナ」
セラフィナが呼ぶ。
エリナは肩をすくめるように震えた。
それでも目は逸らさない。
「薬草、使える?」
「……使える。母が……教えてくれた」
母。
その言葉に、セラフィナの胸が一瞬だけ痛む。
でも痛んでいる暇はない。
「負傷者を見て。アイリスと一緒に。火のそばから離れないで」
火。
火は生命線。
火が消えれば、夜の寒さで死ぬ。
それだけじゃない。
火が消えれば、人の心も折れる。
「火は絶やさない」
セラフィナは、最後に言った。
自分自身に言い聞かせるように。
カイルが前に出る。
剣を抜く音が、闇を裂く。
「俺が門の外に出る。できるだけ引きつける。門は開けるな」
「一人で?」
アイリスが息を呑む。
「一人じゃない。矢が飛ぶ」
カイルは見上げ、見張り台のノアを見た。
ノアが頷いた。
それだけで、互いの契約が成立する。
セラフィナはカイルの背中を見つめた。
怖い。
怖いのに、止められない。
止めたら、守れない。
「行って」
セラフィナが言うと、カイルは一瞬だけ振り返った。
目が合う。
その目が、言葉の代わりに言う。
――守る。
――生き残れ。
次の瞬間、砦の門の外で叫び声が上がった。
野太い声。
笑い声。
獣みたいな興奮。
「おい! 灯りがあるぞ!」
「物資を隠してる! 奪え!」
盗賊。
やっぱり。
息が止まる。
カイルが門の隙間から飛び出し、雪の中へ消える。
直後、金属がぶつかる音。
剣と斧の音。
鈍い肉の音。
セラフィナは胃が浮く。
吐き気がする。
恐怖は甘くない。
吐き気がするほど現実的だ。
王都で味わった恐怖は、心の中だけで完結する痛みだった。
ここは違う。
肉体が反応する。
体が「死ぬ」と言っている。
「矢!」
ノアの声が上から響く。
次の瞬間、矢が飛ぶ音がした。
ヒュン、と空気が裂ける。
壁が震える。
誰かが呻く。
セラフィナの心臓が跳ねた。
矢一本が壁を震わせるたび、自分の体も震える。
震えるのに、足は動く。
動かないと、全員が死ぬ。
「門を守って!」
セラフィナは叫んだ。
村の男たちが門の内側に盾代わりの板を立て、斧を構える。
「開けるな! 何があっても!」
何があっても。
その言葉が、重い。
門を開ければ、砦に流れ込む。
開けなければ、門の外の誰かが死ぬ。
その誰かがカイルだったら?
思考がぐらつく。
でも、決断は揺らがせない。
雪に紛れる影が、門に体当たりしてきた。
ドン! と鈍い衝撃。
木が悲鳴を上げる。
「もう一回!」
外の声。
ドン!
ドン!
門が揺れる。
釘がきしむ音がする。
セラフィナは歯を食いしばった。
釘一本の価値。
今、それが命だ。
「補強して!」
セラフィナが言うと、男たちが板を当て、縄で縛る。
縄が足りない。
アイリスが走って、布を裂いて持ってくる。
「これで!」
「助かる!」
アイリスは震えながらも動く。
泣かない。
ここでは泣く暇がない。
火のそばで、エリナが負傷者の腕を押さえていた。
男が呻き、血が布に染みる。
血の匂いが、部屋に広がる。
鉄の匂い。
それは吸うだけで胃が反転しそうになる。
「エリナ!」
セラフィナが叫ぶ。
「大丈夫! 止まる……止める!」
エリナの声も震えている。
でも、手は止まらない。
小さな指で、血を押さえる。
薬草を当てる。
「アイリス! 湯!」
「はい!」
アイリスが鍋を抱え、湯を運ぶ。
湯気が立ち、血の匂いと混ざってむせる。
セラフィナは、全体を見回す。
門。
火。
見張り。
負傷者。
子どもたち。
すべてが同時に崩れそうで、頭が割れそうになる。
そのとき、外からカイルの声がした。
「今だ! 引け!」
何かが倒れる音。
盗賊たちの罵声。
そして、雪を踏む足音が門へ向かってくる。
「カイル!」
セラフィナの声が裏返りそうになる。
門を開けたい衝動が胸を突く。
でも開けたら終わりだ。
「……合図を」
カイルが門の外で低く言った。
セラフィナは息を飲み、門番の男に目配せした。
「隙間だけ。鎖は外さない」
「分かった!」
男が門の閂を少しだけずらし、隙間を作る。
そこから、血まみれの腕が伸びる。
カイルの腕だ。
引き込む。
門をすぐ閉める。
鎖は外さない。
カイルが中へ転がり込む。
息が荒く、外套が裂けている。
肩から血が滲み、頬に新しい傷。
「……生きてる?」
セラフィナが聞くと、カイルは短く答えた。
「生きてる」
その一言で、セラフィナの膝が少し笑った。
安心が、体を抜く。
でも戦いはまだ終わっていない。
盗賊は門の外で怒鳴り、もう一度体当たりをしてきた。
ドン!
門が悲鳴を上げる。
ノアが上から叫ぶ。
「人数、減った! でもまだいる!」
矢が飛ぶ。
悲鳴。
雪に何かが倒れる音。
時間が伸びる。
一秒が長い。
心臓が暴れる。
吐き気がまたこみ上げる。
でも、セラフィナは倒れない。
倒れたら、指揮が崩れる。
「火を守って! 火だけは絶対に!」
セラフィナは何度も言う。
自分に言い聞かせるように。
火があれば、朝まで耐えられる。
火があれば、心が折れない。
やがて。
外の声が、少しずつ遠ざかっていった。
罵声が薄れる。
足音が散る。
風の音だけが残る。
ノアが上から、かすれた声で言った。
「……引いた。逃げた」
その言葉が落ちた瞬間、砦の中の空気が一気にほどけた。
誰かが泣き声を漏らし、誰かが座り込み、誰かが祈り始める。
子どもが目を覚まし、怖くて泣く。
その泣き声が、今は生きている証に聞こえる。
カイルが立ち上がり、剣についた血を布で拭った。
その動作が、あまりにも冷静で、セラフィナは現実に引き戻される。
戦いは終わった。
でも――終わった後が、もっと怖い。
門の外。
夜明け前の薄い青の中、雪の上に黒い染みが広がっていた。
血だ。
血と雪が混ざって、汚いピンク色になっている。
それは、二度と王都のシャンデリアでは見えない色。
セラフィナは、その色を見た瞬間、手が震えた。
震えが止まらない。
指先が勝手に震え、短剣がカタカタと音を立てる。
――私が、決めた。
守ると決めた。
その結果が、この血。
吐き気がこみ上げ、喉が熱くなる。
でも吐かない。
吐いたら、今度こそ崩れる気がした。
「お嬢様」
アイリスが、そっと近づく。
震える手を、両手で包んだ。
温かい。
その温かさが、痛いほど嬉しい。
「大丈夫です。大丈夫……生きてます」
アイリスの声も震えている。
でも、その震えは一緒に震えてくれる震えだ。
一人で耐えろという震えじゃない。
カイルが、セラフィナの横に立った。
血の匂いをまとったまま、短く言う。
「生き残った」
一拍置いて、続ける。
「……それで十分だ」
十分。
その言葉が、胸に落ちた瞬間、セラフィナの瞼が熱くなった。
耐えてきたものが、堰を切ったみたいに溢れる。
涙が、落ちた。
一粒。
次に、もう一粒。
泣きたくなかった。
泣いたら弱いと思っていた。
でもここでは、弱さが許される。
許されるから、泣ける。
泣けるから、また立てる。
「……怖かった」
セラフィナは、初めて口にした。
王都では言えなかった言葉。
アイリスが頷き、手を握る力を強くする。
「私もです。でも……お嬢様がいたから、動けました」
カイルは何も言わない。
ただ、外の闇を見張るように立っている。
それだけで、ここに壁ができる。
セラフィナは涙を拭い、血と雪の混ざった地面をもう一度見た。
恐怖は消えない。
でも、恐怖があるからこそ守る価値が分かる。
この砦は、もう捨て場所じゃない。
家だ。
そして領主の手は、今日、血を知った。
その重さを知った手で、これから先も決断をしなければならない。
でも――今は。
生き残った。
それで十分だ。
そう思える夜が、確かにここにあった。
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