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第14話「噂という刃と、孤立」
しおりを挟む噂は、雪より早く積もる。
落ちて、溶けずに、そのまま人の心に張り付いていく。
一度こびりついたら、もう簡単には落ちない。
――少なくとも、この国の宮廷では。
◆
最初の一週間は、まだ「違和感」で済んでいた。
すれ違う令嬢たちのご挨拶が、ほんの少しだけ早く終わる。
視線が、いつもよりほんの少し上を通り過ぎていく。
話しかけようとして、言葉を飲み込む。
扇子の陰で交わされる囁きが、わずかに増える。
(ああ、始まった)
レティシア・ド・ヴァロワは、そんな空気の変化にはもう慣れていた。
王太子の婚約者だった頃から、
「頭が良すぎる女」
「生意気な女」
「殿下の前で平気で口を出す女」
ラベルには事欠かなかったから。
でも――今回は、質が違った。
孤児院の“氷の悪女”事件が広まるにつれ、その違いは、はっきりと形を持ち始める。
「聞いた? 孤児たちの前で、“こんなものでは足りない”って言い放ったんですって」
「王太子殿下とマリエル様が、どれだけ優しく振る舞っていたか、記事に書いてあったわ」
「ヴァロワ嬢って、やっぱり“自分のやり方”しか認めないのよ。
慈善まで政治利用するなんて」
まるで、見てきたように語る人たち。
実際には、ほとんどが新聞の一面と、その要約を聞いただけだ。
でも、人は、「直接見ていないものほど、確信を持って断言できる」生き物だ。
◆
王宮での午後の小茶会。
レティシアが会場に足を踏み入れた瞬間、空気が目に見えるほど変わった。
ざわめきが一瞬止まり、
数秒後、何事もなかったように再開する。
輪になってお喋りをしていた令嬢たちが、距離を詰める。
あからさまに、輪の中に空きがないように見せる。
「ごきげんよう、ヴァロワ嬢」
形式的な挨拶だけが、ぎこちなく飛んでくる。
「ごきげんよう。皆様、寒さはいかが?」
レティシアは、いつも通りの笑みで返した。
その笑みが、逆に皆を怯えさせる。
視線が、すっと彼女の後ろへ通り過ぎていく。
そこに誰もいないことがわかっていても、「見ていないふり」のためだけに。
ほんの数週間前までは、
「ヴァロワ家と繋がっていれば王太子の決定に口出しできるかも」
「頭のいいレティシア様の側にいれば、最新の情報が手に入るかも」
と、利害で近づいてきていた貴族たち。
彼らは、見事なまでの団結力で、一斉に距離を取った。
まるで、同じマニュアルでも配られたみたいに、同じタイミングで。
(……まあ、合理的よね)
レティシアは、内心だけで苦く笑う。
王太子派と王妃派が、「氷の悪女」フレームを作り上げた。
それに逆らってまで、彼女と共に立とうとする貴族は、そう多くない。
「陣営を見誤って巻き込まれるくらいなら、最初から関わらないほうが安全」
彼らの頭の中は、きっとそんな計算でいっぱいだ。
彼女は、テーブルに並んだカップと皿を眺めながら、
「前世の教科書に書かれていた“貴族階級の自己保身”」を思い出していた。
(あのとき、本当にわかってた? 私)
“貴族は、都合が悪くなった瞬間に簡単に誰かを切り捨てる”。
この一行を、前世の自分は、どこか「物語の中の話」のように読んでいた。
今は、その物語のど真ん中にいる。
主語が、“彼らは”ではなく、“私たちは”になっている。
◆
そんな中でも、変わらない顔はあった。
ヴァロワ邸の書斎。
クロエは、相変わらず不器用に淹れたハーブティーを運び、
ギルバートは、いつも通り無表情で報告を並べる。
「王都北地区の倉庫で、また燃料の横流しが見つかりました。
テオ様が数字の矛盾に気づかれたようです」
「テオが、ね」
レティシアは、微かに笑った。
書斎の隅には、テオから届いた手紙が山積みになっている。
『孤児院の帳簿、一部ですが写しを手に入れました。
いくつか“消えているはずのない数字”があります。
詳細は、別紙にて――』
几帳面な字。
淡々とした報告。
行間から、「僕はあなたの味方でいますよ」と言われている気がした。
ルネも変わらない。
貧民街で情報集めを任せている少年は、
ヴァロワ邸の裏口からこっそり忍び込んでは、
「また変な噂が増えてたぞ。
“ヴァロワ様は孤児たちのパンを奪って、自分の馬のエサにしてる”とか」
とんでもないデマを報告してくる。
「馬のエサのほうが、孤児院のパンより豪華なんじゃない?」
レティシアが苦笑すると、ルネは、むっと唇を尖らせた。
「笑い事じゃねぇって。
奴ら、マジでそう信じてる。
でも……俺の家の連中は、誰も信じちゃいねぇよ」
そう言って、彼は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「お前が、誰より先にパンと薬持ってきたこと、忘れてねぇからな」
その言葉に、レティシアの胸の奥がじん、と熱くなった。
味方はいる。
貴族社会では孤立しても、
別の場所で繋がっている人たちがいる。
それでも――。
(守るべきものが、増えていく)
クロエの不器用な笑顔。
ギルバートの寡黙な忠誠。
テオの真面目な文字。
ルネの不器用な信頼。
それは、確かに彼女の支えだ。
同時に、「私が失敗したら、この人たちが一緒に巻き込まれる」という恐怖の種でもある。
◆
シャルルとの距離も、変化していた。
以前は、週に一度か二度はヴァロワ邸に顔を出していた第二王子は、
今では、十日に一度、二十日に一度――というペースに落ちていた。
理由は、わかっている。
王宮では、すでに囁かれているのだ。
『第二王子殿下はヴァロワ嬢に入れ込んでいる』
『王太子に対抗するための駒にしようとしている』
そんな噂が。
シャルルが頻繁に訪ねてくるたびに、その声は大きくなる。
それは、彼の足を引っ張る。
同時に、レティシアの首に縄を増やす。
だからこそ、彼は距離を取った。
――理性的に見れば、正しい判断だ。
頭では理解している。
国全体のことを考えれば、「一度手を引くタイミング」が必要なのもわかる。
でも、心は別だ。
夜。
ヴァロワ邸のバルコニーで、レティシアは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
遠くに王城の影が見える。
あのどこかに、シャルルがいる。
(“一人じゃない”って、あの人は言ってくれたけど)
今の感覚は、かなり「一人」に近い。
「お嬢様、寒くなりますよ」
背後から、クロエの声。
レティシアは、振り返らずに笑った。
「大丈夫。
寒いほうが、頭が冷えていいの」
本当は、寒さよりも、心のほうが凍っている。
でも、それを口にしたら、きっとクロエは泣いてしまう。
だから、言わない。
守るべきものが増えるほど、
自分の言葉に重しが乗る。
簡単に弱音を吐けなくなる。
――それが、こんなにも息苦しいものだと、前世の自分は知らなかった。
◆
前世では、ただ歴史を眺めるだけだった。
図書館の窓際。
ノートパソコンと資料に埋もれながら、「旧体制崩壊と民衆暴動」という卒論を書いていた自分。
教科書の中の“パンの暴動”。
“恐怖政治”。
“処刑台”。
そのどれもを、冷静に、分析的に、
「これは構造の問題であって、個人の善悪の話ではなく――」なんて、もっともらしく語っていた。
(あのときの私を、本気で殴りたい)
今の自分は、構造に殴られている。
噂という刃で。
評価という鎖で。
“悪役”というラベルで。
これは、「そういう構造なんです」で済ませられるほど軽くない。
毎日、息をするたびに、
「あなたは悪女だ」と囁かれているようなものだ。
笑ってやり過ごすのも、段々体力が要るようになってくる。
◆
そんな中で、アルマンは――笑っていた。
王太子の執務室。
側近が、新しい新聞の束を机に置く。
「ご覧ください、殿下。
“氷の悪女ヴァロワ嬢”の記事は、どの新聞でもよく売れているようです。
街の噂も、すっかりそのイメージで固まりつつあります」
「そうか」
アルマンは、紙面をざっと眺めた。
見出し。
挿絵。
「涙ぐむマリエル」と、「冷たく微笑むレティシア」の対比。
自分が演出した構図が、そのまま紙の上にバランスよく配置されている。
(これで、あいつは二度と這い上がれない)
胸の内に、満足感が広がる。
王宮内でも、誰もレティシアの名前を積極的に出さなくなった。
彼女と親しくする貴族は減り、
ヴァロワ公爵でさえ、娘の話をするときは表情を固くしている。
「切り捨てられた駒」。
その構図が、ようやく現実になろうとしている。
それなのに。
胸の奥のどこかで、奇妙なざわめきが消えなかった。
新聞の中のレティシアの挿絵。
誇張された冷たい微笑み。
人形のように整った横顔。
――そこに、“本物の彼女”はいない。
あの日、
自分に向かって平然と「それは愚策です」と言った少女。
自分を真っ直ぐに見て、「あなたは間違っている」と言えた婚約者。
婚約破棄の場で、泣き崩れる代わりに、
どこか呆れたように笑っていた女。
(……本当に、これで“終わり”でいいのか?)
ふいに、そんな考えが頭をよぎる。
もし、本当にレティシアが“役目を終えた駒”なら――
これほどまでに、彼女の動向を気にする必要はないはずだ。
「殿下?」
側近の声に、アルマンは我に返った。
「どうかなさいましたか」
「いや、何でもない」
彼は、新聞を丁寧に重ねて端に置いた。
「次の案件だ。
ヴァロワ家に対する正式な調査の準備を進めろ」
「調査……と申しますと?」
「弾劾裁判だ」
アルマンの声は、静かだった。
「“王太子に楯突き、国庫を私物化し、民衆を扇動しようとした令嬢”として――
レティシア・ド・ヴァロワを、王宮の大広間で裁く」
側近の目が、満足げに光る。
「ついに、ですな」
「このまま噂だけで終わらせるつもりはない」
アルマンは、目を細めた。
「噂は、あくまで“土台”だ。
最後に必要なのは、“公式な断罪”」
彼の中では、すでに絵ができあがっていた。
大広間。
見下ろす貴族たち。
中央に立たされるレティシア。
その姿を想像するだけで、胸のざわめきが、甘い快感と混ざり合う。
(俺の前で、もう一度、“あいつを”跪かせてやる)
それが、彼の執着の形だった。
◆
弾劾裁判の通達は、想像していたよりもずっと簡素に届いた。
白い封筒。
王家の紋章。
ヴァロワ邸の玄関で、それを受け取った執事が、
血相を変えてレティシアの元へ運んできた。
「お嬢様……!」
書斎で帳簿を眺めていたレティシアは、顔を上げる。
「どうしたの?」
「王宮からの、正式な通達です」
封を切る。
羊皮紙の上には、
冷たく整った文字で、こう書かれていた。
『ヴァロワ公爵令嬢、レティシア・ド・ヴァロワ殿。
貴殿のこれまでの行いに関し、
王太子殿下の名のもと、
王宮大広間にて弾劾裁判を行うことを通達する。
期日は――』
日付が、簡潔に記されている。
近い。
思っているよりずっと、近い。
クロエが、紙を覗き込んで青ざめた。
「だ、弾劾裁判……?
お嬢様が、裁かれる……?」
ギルバートの表情も、さすがに固い。
「王宮の大広間での弾劾となれば、貴族だけでなく、各方面に大きな影響が出ます。
ヴァロワ家の立場も――」
彼の言葉は、途中で止まった。
レティシアが、ふっと笑ったからだ。
本当に、ふっと。
肩から力が抜けるような笑いだった。
「……やっと」
思わず、口から小さく漏れる。
「お嬢様?」
「やっと、正面から殴り合えるのね」
紅茶を一口飲むときと同じくらい自然な調子で、レティシアはそう言った。
クロエが、ぽかんと口を開ける。
ギルバートも、珍しく返す言葉を失っていた。
レティシアは、羊皮紙を丁寧に畳み、机の端に置いた。
「今まではずっと、噂みたいな、陰口みたいな、“後ろから刺される”やり方だったから」
その目が、静かに光る。
「ようやく、真正面から。
“あなたは悪女です”って言ってくれる場所ができた」
前世で、歴史の外側から眺めていた「断罪の場」。
今の彼女は、その内側に立つつもりでいる。
噂という刃で何度も切り刻まれて、
心も評判も傷だらけになって。
それでも――。
(どうせ殴られるなら、正面からがいい)
レティシアは、静かに息を吸い込んだ。
「さあ、準備しなきゃ」
机の引き出しから、テオの資料が入った束を取り出す。
帳簿。
証言。
兵糧の記録。
全部を武器に変える。
「“悪役令嬢”の弾劾裁判。
悪役らしく、派手にやってあげないとね」
自分にしか聞こえない声で、彼女は呟いた。
窓の外では、雪がまた降り始めている。
白い世界の中で、
ひとりの女の瞳だけが、静かに、確かに、燃えていた。
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