前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第6話:ヒロイン、慈善というブランド

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 王都の空気は、花の香りより先に煙の匂いがした。

 城の石壁を離れ、馬車で少し走るだけで、道の色が変わる。舗装が粗くなり、靴音が跳ねる。街の端へ近づくにつれて、香水の甘さは薄れ、代わりに煮炊きの匂い、湿った木の匂い、汗の匂いが濃くなる。
 生活の匂い。
 生きるための匂い。

 私は窓のカーテンを指先で少しだけ開け、外を見た。
 市場の入り口に人が集まっている。普段の買い物の列というより、何かを待っている列。目が上を向いている。笑っている。手を叩いている。

「……何があるの」

 呟くと、隣に座るミレーネが身を乗り出した。今日の彼女はいつもより緊張が少ない。城ではなく街だからか、それとも、別の理由か。

「はい。あの……最近話題の慈善活動です。リリアーナ様が、炊き出しを……」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
 リリアーナ。
 社交界で囁かれ始めた名。
 “聖女”。
 誰かがそう呼び始めると、言葉は独り歩きして、本人の意志とは別の形で肥大していく。

 馬車が止まる。
 御者が扉を開けようとした瞬間、ミレーネが慌てて言った。

「アーデルハイト様、こちらは……貴族の方々もいらしているそうです。目立たないように……」

「目立つのは仕方ないわ。金髪碧眼で公爵家だもの」

 自分で言って、少しだけ笑った。笑えた自分が意外だった。
 城の冷たい空気の中では笑う余裕なんてなかったのに、街の匂いは、私の肺を少しだけ柔らかくしてくれる。

 扉が開き、外気が流れ込む。
 風が、香水ではなくパンの匂いを運んだ。焼けた小麦の匂い。温かい。腹が鳴りそうになる。

 私たちは人混みの外側へ回り、護衛に視線で合図して距離を保った。
 群衆の中心には、簡易の台が組まれ、その上に少女が立っていた。

 白に近い生成りのドレス。
 装飾は控えめで、刺繍もない。
 髪は淡い栗色をゆるく結び、肩に柔らかく落ちている。
 貴族令嬢にありがちな“完璧に整えた美しさ”ではなく、少し乱れた自然さがある。

 そして、笑顔。

 その笑顔は、太陽みたいに明るいのに、目が優しくて、押しつけがましくない。
 誰かの上に立つ笑顔じゃない。隣に座ってくれる笑顔。

 群衆が拍手していた。
 拍手は熱を持ち、空気を揺らす。
 城の拍手は礼儀の音だけど、街の拍手は体温の音だ。

「皆さん、本当にありがとうございます」

 少女の声が響く。
 高くも低くもない、素朴で透明な声。
 王城のホールでも通りそうな響きなのに、言葉は街の人に向けている。

「今日は、パンと温かいスープ、それからお薬もお持ちしました。……並ぶのが大変だと思いますが、順番にお渡ししますね」

 群衆から「ありがとう!」と声が上がる。
 それが重なると、空が少し近くなる気がした。
 感謝って、こんなふうに空気の密度を変える。

 私は視線を少し横に滑らせた。
 台の下には大きな鍋があり、湯気が上がっている。パンが積まれた籠。包帯や薬草の束。
 それを手際よく配っているのは、身なりの良い男たちだった。揃いの上着。胸元に小さな紋章――商会の印。
 そして近くには、貧民街の診療所らしき建物。新しい木材の匂いがする。最近建てたばかりだ。

 ――無料では続かない。

 前世の私は、タダ働きがどういう結果を生むかを骨まで知っていた。
 無料は人を救うようで、人を壊す。
 “ありがとう”が増えるほど、誰かの財布か、誰かの体が削れている。

「……資金」

 私の呟きに、カイが隣で答えた。今日も影のように静かに立っている。街の中でも、彼の存在は揺るがない。

「はい」

「この規模、個人の寄付じゃ無理。鍋も薬も建物も。背後に商会がいる」

 カイは視線を群衆の中へ動かし、静かに頷いた。

「すでに調べております」

「早い」

「噂は早いものです」

 その言葉が苦い。噂は早い。
 王城で契約を差し出した夜から、もう私の噂は王都を駆けている。
 そして今、この少女の噂もまた、走っている。

 少女――リリアーナは、台から降り、炊き出しの列に歩み寄った。
 護衛らしき男が一瞬だけ止めようとしたが、彼女は首を横に振って笑う。

「大丈夫。みんな、怖くないよね」

 怖くないよね。
 その言葉だけで、群衆が一段柔らかくなる。
 言葉は、こんなにも簡単に人を包むのか。

 リリアーナは小さな子どもにしゃがみ込み、目線を合わせた。
 子どもの頬には煤がつき、髪はぼさぼさで、靴は片方だけ違う。
 でもリリアーナはそれを見ない。見るのは目だけ。目の中の“生きたい”だけ。

「おなか、すいてる?」

 子どもがこくりと頷く。
 リリアーナはパンを渡し、手を包むように握った。

「ゆっくり食べてね。のどにつまらせないように」

 子どもがパンにかじりつく。
 その瞬間、周囲の大人たちが笑った。泣いた。拍手がまた起きる。
 善意が連鎖していく。

 ――眩しい。

 眩しさは、目を焼く。
 正義の剣が眩しいように、慈善の光も眩しい。
 そして眩しい光は、影を作る。

 私は影を見る。
 パンの籠を運ぶ男たちの手つき。鍋の量。薬草の包みの数。
 段取りが良すぎる。素人の慈善じゃない。これは事業だ。
 継続可能な仕組みにしている。

 それが悪いわけじゃない。むしろ正しい。
 ただ、正しいものほど、強い。
 強いものは、敵になる。

 ミレーネが私の袖を引いた。

「アーデルハイト様……リリアーナ様、こちらに……」

 視線を上げると、リリアーナがこちらへ歩いてきていた。
 群衆の間を、流れる水みたいに自然に抜けてくる。
 彼女の背後には商会の男たち、そして貴族らしき婦人たちも少し距離を置いてついてくる。

 私の周囲の空気が変わる。
 貴族が街に立つと、そこだけ温度が一段下がる。
 私はその温度差の中心にいる。

 リリアーナは私の前で足を止め、丁寧に礼をした。
 礼の角度が美しい。貴族の礼とは違う、少し控えめで、それでいて相手を立てる礼。

「はじめまして。公爵令嬢アーデルハイト様ですよね」

 声が柔らかい。
 名前を呼ばれるだけで、周囲の視線が一斉に集まる。
 “悪役令嬢”と“聖女”。
 物語が勝手に作られる気配がした。

「そうよ。あなたがリリアーナ・エヴァレットね」

「はい。お会いできて光栄です」

 光栄。
 その言葉が、彼女の口から出ると嫌味に聞こえない。
 素直に響く。だから怖い。嘘のない言葉は、刃にもなる。

 私は表情を崩さず、声を整える。

「立派な活動ね。これほどの規模を、よく」

「ありがとうございます。でも、私一人じゃ無理です。皆さんが協力してくれるから」

 彼女は振り返り、商会の男たちに手を振った。
 男たちが一斉に頭を下げる。
 揃いすぎている。訓練されている。

 私は、核心を避けつつ、触れる。

「協力……商会の方々が?」

「はい。エヴァレット商会の皆さんです。私の家族が、できることを、と」

 “家族”。
 平民出身、と聞いていたが、家族は商会。
 平民の中でも、金を持つ側。
 なるほど。聖女に必要な資金源がここにある。

 リリアーナは私の顔をまっすぐ見た。
 視線がまっすぐすぎて、逃げ道がない。
 貴族の視線は曲がっていることが多い。まっすぐな視線は希少で、だからこそ強い。

「公爵令嬢様も、ここに来てくださったんですね」

「たまたま通っただけよ」

「でも、来てくださった。それだけで皆さん、安心すると思います」

 群衆の方から、また拍手が起きた。
 私に向けられた拍手。
 それは褒め言葉ではなく、期待の鎖だ。
 “あなたもやるよね?”と縛る音。

 私は微笑む。
 微笑むしかない。

「そう言われると困るわね」

 軽い冗談のように言うと、リリアーナはふわりと笑った。

「困らせたくて言ったわけじゃないです」

「分かってる」

 分かってる。
 分かってるから、余計に厄介。

 リリアーナは一歩近づき、声を少しだけ落とした。
 周囲に聞かれない距離。けれど視線は集まる距離。

「公爵令嬢様」

「なに」

「民のために、優しくしてくださいね」

 その言葉が、胸に刺さった。

 優しく。
 私が、優しくないと言われたわけじゃない。
 でもこの言葉は、評価の形をしている。
 今の私は、“優しくしていない側”に置かれた。

 リリアーナの表情は本当に穏やかだった。
 善意。純粋なお願い。
 だからこそ、刃に見える。

 善意は拒否しづらい。
 拒否した瞬間、悪になる。
 受け入れた瞬間、縛られる。
 どちらでも、私は物語の“悪役”に固定される。

 私は笑みを保ちながら、言葉を選んだ。
 温度を間違えると、火傷する。

「優しさには、いろんな形があるわ」

 リリアーナが首を傾げる。

「形……?」

「ええ。パンを配るのも優しさ。治療するのも優しさ。……でも、続く仕組みを作るのも優しさよ」

 リリアーナの目が、少しだけ大きくなる。
 理解しようとしている目。
 でも理解が追いつかない目。

「続く仕組み……」

「あなたの活動が続くなら、それは素晴らしい。だけど、続けるにはお金がいる。お金は無限じゃない」

 言いながら、自分の声が少し硬いのを感じた。
 硬さは、城の空気に似る。
 街の人の前でこの硬さは危ない。
 私はすぐに柔らかさを戻す。

「……あなたの家族は立派ね。これだけの支援をできるなんて」

 リリアーナは微笑んだ。

「ありがとうございます。家族も、商会の皆さんも、誇りです」

 誇り。
 その言葉が、彼女の胸の奥で鳴っているのが分かる。
 彼女は慈善を“恥ずかしいこと”と思っていない。
 貴族の慈善は時に、上からの施しに見える。
 でも彼女の慈善は、横からの支えに見える。だから強い。

 私は、彼女の背後をもう一度見る。
 商会の男たちの胸元の印。
 エヴァレット。
 その印が、なぜか私の視界に引っかかった。
 “急成長”。
 この規模を回せるなら、商会は相当強い。

 リリアーナが私に再び礼をする。

「今日はお会いできてよかったです。また、どこかで」

「そうね」

 彼女が群衆へ戻っていく。
 戻り方が自然で、誰も傷つけない。
 私はその背中を見ながら、胸の奥の冷たい部分が静かに固まっていくのを感じた。

 馬車に戻り、屋敷へ。
 カーテンを閉めると、外の拍手が遠ざかる。
 でも耳の奥に残る。体温の音が、まだ残っている。

 屋敷の書斎に入るなり、私はカイを見る。

「調べてるって言ったわね」

「はい」

「エヴァレット商会。どれくらいの規模?」

 カイはすでに用意していたように、小さな帳面を取り出した。
 紙の匂い。インクの匂い。
 また数字の世界に戻る。

「ここ半年で急成長しています。穀物の流通、薬草の買い付け、布の取引。複数の分野に手を伸ばし、いずれも利益を出している」

「半年……」

 短い。短すぎる。
 こんな速度で伸びるのは、運か、仕掛けか。
 運なら危険。仕掛けならもっと危険。

「資金源は」

「表向きは商会の利益と、慈善への寄付。ですが、裏には複数の貴族の支援が見えます。名義を分けて、慎重に」

 私は息を吐いた。
 やっぱり。
 慈善は一人の善意じゃない。勢力だ。

「つまり、社交界が“聖女”を作ってる」

「そうとも言えます」

「……やっかい」

 口にした瞬間、ミレーネが控えめに言った。

「リリアーナ様、とてもお優しい方でした……」

「優しいよ」

 即答すると、ミレーネがほっとした顔になる。
 でも私は続けた。

「優しい人は強い。優しさは人を味方にする。味方が増えると、敵も増える」

 ミレーネの顔が曇る。
 彼女はまだ、世界がそんなふうに動くことを受け入れきれていない。

 カイが静かに言う。

「お嬢様。リリアーナ・エヴァレットは、民衆の支持を得つつあります。貴族社会にも入り口を作り始めている」

「うん。……そして私には、“優しくしろ”と言った」

 その言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ疼く。
 怒りじゃない。悔しさでもない。
 もっと別の感情。
 前世で、成果を出しても「もっと優しく」「もっと柔らかく」と言われ続けた、あの感覚に似ている。

「お嬢様、どうされますか」

 カイの問いは短い。
 でも重い。
 今この瞬間から、私は彼女と同じ市場に立つことになる。

 私は窓の外を見た。
 夕方の光が、庭の葉を赤く染めている。
 綺麗だ。綺麗すぎて、どこか不吉。

「どうもしない」

 私は言った。

「今は、彼女の善意を否定しない。否定した瞬間、私は悪になる」

「では」

「ただ、匂いは覚えた。資金の匂い。仕組みの匂い。……そして、言葉の刃の匂い」

 カイが小さく頷く。
 ミレーネはまだ不安そうに私を見ている。

 私は彼女に微笑んだ。

「ミレーネ、心配しないで」

「でも……」

「優しくするかどうかは、私が決める。誰かに言われて決めることじゃない」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに燃えた。
 蛍光灯の白ではなく、朝日の温度の火。
 冷たい決意ではなく、体温のある決意。

 リリアーナの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
 柔らかいのに、逃げ場のない笑顔。
 あの一言が、ずっと残る。

――公爵令嬢様も、民のために優しくしてくださいね。

 善意は甘い。
 甘いから、噛み砕いた後に苦味が残る。
 私はその苦味を舌の上で確かめながら、静かに目を閉じた。
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