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第7話:鉄の侯爵、戦争で儲ける男
しおりを挟む鉄の匂いは、血の匂いに似ている。
王都の空がどれだけ澄んでいても、鍛冶場の近くを通ると鼻の奥がざらつく。熱で焦げた金属の匂い。煤の匂い。汗の匂い。
それらが混ざった空気は、生きているというより“作られている”感じがした。人の手で形にされ、誰かの命を形に変える匂い。
アイゼンシュタイン侯爵家の館は、王都の中でも異質だった。
石壁が分厚く、窓が小さい。庭園の花は整えられているのに、色が沈んでいる。華やかさより、防御の意志が前に出ている。
門をくぐった瞬間、私は背中に硬い視線を感じた。歓迎ではない。査定だ。
「アーデルハイト様、どうかお気をつけて」
ミレーネが小声で言う。
彼女の手が、私の袖の端を握っていた。
怖いなら離れない。離れたら潰される。前世で学んだ。
「大丈夫。噛まれる前に噛み返すだけ」
「……お嬢様」
ミレーネの顔が青くなる。
でも私は笑った。笑いは鎧。笑っている方が強く見える。
館の中は、酒の匂いがした。
昼間だというのに、ワインの甘さではなく、蒸留酒の刺す匂い。
強い酒の匂いは、場を支配する匂いだ。弱い人間を黙らせる。
案内された応接間は暗めで、重いカーテンが光を遮っていた。
壁には武具が飾られ、鹿の角が威張るように突き出ている。
机の上には、まだ飲みかけの琥珀色の酒。グラスの縁が光る。
そして、その奥に――男が座っていた。
グレゴール・フォン・アイゼンシュタイン侯爵。
大きい。
体格だけじゃない。存在感が大きい。
黒に近い濃紺の服は、着飾るためではなく、鎧の代わりみたいに硬く見えた。
髭は短く整えられ、頬は少し赤い。酒のせいか、それとも元から燃えるような気質なのか。
目が笑っていない。黒い瞳が、ただこちらを測っている。肉の重さで測るように。
「……ヴァルツブルクの娘か」
声が、低く重い。
床板が震えるような声。
その声には、相手を敬う成分が一滴もない。
私は膝を折り、礼をした。
礼は必要だ。礼は刃を隠す布だ。
でも深くしすぎない。深くすると、頭を踏まれる。
「お招きいただき、光栄です。グレゴール侯爵」
侯爵は鼻で笑った。
笑ったのに、目が笑わない。
酒の匂いが強くなる。彼が息を吐いたからだ。
「光栄、ね。言葉だけは立派だ」
私は立ち上がり、微笑みを保つ。
「言葉は便利ですから」
「便利なのは算盤だろ」
いきなり来た。
彼は遠回しな言葉を使わない。
使わないのではなく、使えないのかもしれない。力がある側は、回り道をしなくていい。
私は椅子を勧められ、座る。
背もたれが硬い。
座った瞬間、身体が少しだけ緊張する。ここは休む椅子じゃない。戦う椅子だ。
カイが私の後ろに立つ。
沈黙で支える背中。
それがあるだけで、私は少し息ができる。
侯爵はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
喉が鳴る。酒が体内を滑る音が聞こえそうなほど大きい。
「最近、お前の噂がうるさい」
「噂はいつも、うるさいものです」
「王家に期限を突きつけたそうじゃないか」
言い切る。
確認ではなく、断定。
すでに情報は掴んでいる。侯爵の情報網は太い。軍需を握る者は、耳も目も金で買える。
「契約を整えただけです」
「整えた、か」
侯爵は笑わずに言った。
その言い方が、骨に当たる。
「女の算盤で国は守れぬ」
部屋の空気が一段重くなる。
ミレーネが後ろで息を呑む気配がした。
侍女が反応したら負ける。
私は反応しない。反応ではなく、返答を選ぶ。
私は、笑った。
声を出して、軽く。
この笑いは挑発だ。
挑発は危険。でも、ここで怯えたら終わる。
「守るのは剣じゃない。流通と信用よ」
侯爵の眉が、僅かに動いた。
目が細くなる。
獲物を見つけた時の目。
「ほう。流通と信用。口だけは巧いな」
「口だけじゃありません。数字でも言えます」
言った瞬間、カイの気配がわずかに動いた。
止めたいのではない。緊張が増しただけ。
数字を出すと、相手の逃げ道がなくなる。逃げ道がなくなると、人は暴れる。
侯爵は机にグラスを置き、ゆっくり身を乗り出した。
「数字で言うなら、剣の方が早い。戦争が起きれば、余計な問題は全部消える」
その言葉が、さらりと出たことが怖かった。
戦争を天気の話みたいに言う。
戦争が起きれば、金が動く。
金が動けば、彼は勝つ。
「問題は消えません。場所を変えて、血の色を変えるだけ」
私の声が少し冷えた。
冷えた声は、私の本音だ。
前世で、人が潰れるのを見てきた。潰れるのは、戦争だけじゃない。
侯爵は口角だけを上げた。
「お前、面白いな。前のアーデルハイトなら、こんな口はきかなかった」
「人は変わります」
「倒れると変わる、か。……女は弱いからな」
言葉の棘が、さらりと肌を撫でた。
弱い。
前世で何度も言われた。
“女のくせに”
“感情的になるな”
“もっと丸くなれ”
その全部が、今も私の背中に貼りついている。
私は微笑みを崩さずに返す。
「弱いなら、賢くなるしかありません」
「賢い、ねぇ」
侯爵は鼻で笑い、指を鳴らした。
すると侍従が現れ、何かの書類を持ってくる。
羊皮紙の束。軍需の契約だろうか。
侯爵はその束を机の上で軽く叩いた。
「国を守るのは軍だ。軍を支えるのは鉄だ。鉄を握るのは俺だ」
誇りではなく、事実のように言う。
事実だから厄介だ。
「ヴァルツブルクが金を握っても、鉄がなければ何もできん」
私は頷くふりをした。
頷くのは同意ではない。相手の言葉を受け取ったというサイン。
受け取った上で、切り返す準備。
「鉄を握るのは、あなた。そうでしょうね」
「そうだ」
「でも、鉄はどこから来るの?」
侯爵の目が僅かに揺れた。
それだけで十分だった。
揺れた。つまり、そこが弱点になりうる。
「鉱山だ」
「鉱山は地面の下。地面の上を動かすのは流通よ。流通が止まれば、鉄はただの石」
侯爵の鼻息が強くなる。
怒りではない。興奮。
対話を楽しむタイプじゃないのに、私の言葉が彼の神経を刺激している。
「流通? そんなもの、軍が守ればいい」
「軍が守れるのは道の一部。全部じゃない」
私は視線を逸らさずに言った。
逸らさない。逸らしたら負ける。
視線の戦いは、社交界でも戦場でも同じ。
侯爵が笑った。
今度は、少しだけ声が出る笑い。
けれど目は笑っていないまま。
「……ヴァルツブルクは、いつからそんな女を育てた」
「育ててないわ。勝手に育ったの」
口にして、少しだけ自分の胸が痛んだ。
勝手に育った。
そう、勝手に。
誰も助けてくれないから、勝手に強くなるしかなかった。
侯爵は椅子にもたれ、グラスをまた持ち上げた。
「言っておくが、余計なことをするな。王家がどう金を使おうが、俺の知ったことではない。軍が動けばいい」
余計なこと。
私が国の崩壊を止めようとすることが、余計。
私は笑顔を薄くした。
薄くすることで、本気を見せる。
「余計なことをする人間がいないと、国は壊れます」
「壊れたら、新しい国を作ればいい」
その言葉が、背筋を冷やした。
新しい国。
その発想が、戦争で儲ける人間の発想だ。壊れても困らない。むしろ、壊れた方が儲かる。
私は息を吸い、静かに言った。
「壊れた時、最初に死ぬのは民です」
「民は替えが利く」
あまりにも自然に言う。
自然に言えることが恐ろしい。
私は一瞬だけ、言葉が詰まった。
怒りが喉に上がってくる。熱い。
でもここで怒ったら、私の負けだ。感情的な女、というレッテルを貼られる。
私は唇を整え、声の温度を落とした。
「あなたの剣は、鋭いでしょうね」
「当然だ」
「でもその剣は、国を守るためじゃなく、あなたの財布を守るために振られている」
沈黙。
部屋の空気が凍る。
凍るけれど、割れない。割れるのは次だ。
侯爵の目が、初めてはっきりと私に焦点を合わせた。
今までの視線は“見下ろす”視線だった。
今の視線は“敵を見る”視線。
「……言うじゃないか」
「言います」
私は引かない。引いたら終わり。
この男は、引いた相手を踏む。
侯爵はゆっくり立ち上がった。
背が高い。影が私の机まで伸びる。
影が近づくだけで、圧が増す。
私は座ったまま、背筋を伸ばした。
立ち上がると負ける。
座ったまま見上げるのは屈辱に見えるけど、私は違う。
ここは、視線の角度より、心の角度が勝負だ。
「ヴァルツブルクの娘。お前が何を握ろうとしているか、よく分かった」
侯爵の声が低く落ちる。
「だがな。鉄を敵に回すと、痛い目を見る」
脅し。
脅しは、怖いから出る。
怖いなら、効いている証拠。
私は小さく微笑んだ。
「痛い目なら、慣れてます」
侯爵の眉が僅かに上がる。
そして、ふっと鼻で笑った。
「……帰れ。今日は十分だ」
会談は終わり。
勝ったわけじゃない。
でも、負けてもいない。
むしろ、手応えだけが残る。
私は立ち上がり、礼をした。
礼は最後まで崩さない。崩すと、弱みになる。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
侯爵は返礼しない。
それでいい。返礼は敬意。敬意を求めてここに来たわけじゃない。
館を出ると、空が少し曇っていた。
風が冷たい。
鉄の匂いがまだ鼻に残る。
馬車に乗り込んだ瞬間、ミレーネが震える声で言った。
「アーデルハイト様……あの方、怖すぎます……」
「怖いよ」
即答すると、ミレーネがさらに怯える。
「で、でも……どうして、あんなに……」
「怖いから、やるの。怖い相手ほど、放置するともっと怖くなる」
馬車が走り出す。
窓の外に、アイゼンシュタイン家の重い石壁が流れる。
あの壁の中で、戦争を利益として計算している男がいる。
私はカイに視線を向けた。
「準備して」
「何を」
「鉱山権益の買い集め」
ミレーネが目を丸くする。
「こ、鉱山……?」
カイの銀の目が、ほんの僅かに細くなる。理解した合図。
「侯爵家の鉱山ですか」
「直接は無理。気づかれる。だから周辺から」
私は指先で膝の上を軽く叩く。
前世で学んだ感覚が、ここで生きる。
真正面から稟議を通そうとすると、潰される。
だから抜け道を使う。小さな承認。別名義。分割。外注。
“誰も気づかないうちに、実態だけ変える”やり方。
「複数の名義を使う。商会、地方領主、休眠している会社……使える器を洗い出して」
カイが頷く。
「承知しました。ですが、お嬢様。規模が大きくなれば、必ず匂いが出ます」
「匂いは出す。侯爵が気づく頃には、もう遅い匂いにする」
ミレーネが唇を震わせる。
「……お嬢様、怖いです……」
私は少しだけ笑った。
怖いと言われるのは慣れた。
でも、ミレーネに怖がられるのは、胸がちくりと痛む。
「怖くていい。私も怖い」
「え……」
「でも、怖いからこそ、先に動く」
馬車の揺れが、決意を揺らすことはない。
外の街はいつも通りに見える。
けれど私は知っている。
鉄の値段が上がれば、誰かの生活が削れる。
軍需が動けば、誰かが死ぬ。
私は窓の外の曇り空を見上げ、静かに言った。
「戦争で儲ける男に、国の財布を握らせない」
カイが小さく、確かに答えた。
「はい」
その一言が、私の背中を支える。
鉄の匂いは消えない。
だからこそ、私はその匂いの元を握りにいく。
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