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第9話:王家赤字の匂い――数字は嘘をつかない
しおりを挟む夜の屋敷は、紙の音だけが響く。
昼間は侍女の足音や庭師の声が遠くにあって、家は“生きている”感じがする。
でも深夜になると、家はただの器になる。器の中に残るのは、蝋燭の匂いと、インクの匂いと、呼吸の音だけ。
書斎の蝋燭は三本。
炎が揺れるたび、壁の影が伸びたり縮んだりする。
影は生き物みたいに動くくせに、ここにいるのは私だけだ。
孤独は静かで、静かなほど重い。
扉がノックされた。
正確なリズム。迷いのないノック。
カイだ。
「入って」
扉が開くと、冷えた空気が一筋入り込む。
カイはいつも通りの表情で、でもいつもより歩幅が短かった。
それだけで分かる。緊急だ。
「お嬢様」
彼は机の前に立ち、封のされた薄い袋を差し出した。
袋の口には、見慣れない印章。王家の紋ではない。
たぶん、帳簿を扱う部署の紋。つまり、内部の人間の手を経ている。
「……裏ルート?」
私が言うと、カイは短く頷いた。
「王城の会計係からです。正規の手順では、ここまで詳細な数字は出ません」
「出ない方が都合がいいからね」
私の言葉に、カイは肯定も否定もしない。
ただ袋を机に置き、封を切るための小刀を差し出す。
刃が封蝋を割る音は、妙に乾いていた。
ぱき、と。
小さな音なのに、胸の奥まで響く。
これで何かが始まる音だ。
中から出てきたのは、薄い羊皮紙の束。
王家の支出明細。
数字が並んでいるだけなのに、視界が一瞬だけ暗くなる。
数字は光を吸う。読めば読むほど、世界の色が落ちる。
カイが淡々と説明を始める。
「宮廷費が昨年同月比で二割増。宴席と装飾、衣装、贈答品が大きい。さらに——」
彼は紙を一枚めくる。
「軍需予算が三割増。騎士団の装備更新、馬の調達、鉄鋼の追加発注。契約先は主にアイゼンシュタイン侯爵の関連業者です」
私の指先が、机の縁を強く掴む。
やっぱり。
鉄の侯爵が匂わせていた通り、剣が動けば金が流れる。
金が流れれば、彼が太る。
「利払いは?」
私が問うと、カイは少しだけ口を引き結んだ。
珍しい。彼が表情を変えるのは、本当に危険なときだ。
「……増えています。短期の借り入れが増え、その利率が高い。返済のためにまた借りる形になり始めています」
最悪の循環。
借金で借金を払う。
前世で何度も見た。会社の資金繰り。個人のローン。
そして最後は必ず、信用が死ぬ。
「どこから借りてるの」
「小規模の金融商会が複数。名義を分けています。意図的に見えます」
見えないように分ける。
見えなくすることで、危機を先延ばしにする。
そして先延ばしが、破裂の威力を増やす。
私は紙束を広げた。
文字は整然としている。
でも整然とした数字は、時々、叫んでいる。
蝋燭の光が揺れ、数字の影が紙の上で踊る。
踊りが不吉に見えた。
「……カイ」
「はい」
「これ、いつから?」
「昨年末から加速しています。おそらく、殿下もすべては把握していない」
殿下。レオポルト。
理想の剣。
剣は、握る手が財務を知らなければ、誰かの財布のために振られる。
私は息を吐き、椅子に深く腰掛けた。
背もたれの硬さが、背骨を現実に戻す。
「……帳簿、全部持ってきて」
カイが頷き、扉の外へ合図を送る。
すぐに家臣たちが静かに運び込んでくる。分厚い帳簿。革表紙。重い。
机の上に積まれるたび、机が小さく鳴った。
重みが、国の重みみたいだった。
私は袖をまくる。
ドレスではなく室内着。けれど仕草は仕事の仕草。
前世の私は、こうして夜を越えた。
違うのは、蛍光灯の白ではなく、蝋燭の橙であること。
橙は優しい。でも優しさは眠気を呼ぶ。眠気はミスを呼ぶ。
私は紅茶を濃く淹れさせた。
紙をめくる。
数字を追う。
支出の流れを線にする。
膨らむ部分、隠されている部分、繰り返し現れる名義。
見えないものほど、同じ癖を残す。
人間の嘘は、必ずどこかで同じ形になる。
時間が溶ける。
蝋燭が一本、短くなる。
蝋の匂いが濃くなる。
紙の端が指に当たり、少しだけ痛い。
その痛みが、私を眠らせない。
カイが時々、必要な補足を入れる。
「この支出は例年より増えています。舞踏会の回数が——」
「回数じゃない。単価が上がってる」
「……確かに。装飾業者が変わっていますね。王家に近い商会です」
「近い、って便利」
私の声が乾く。
乾くと、前世のオフィスを思い出す。
冷めたコーヒーの苦味。肩甲骨の釘。
そして、頑張っても頑張っても評価されない夜。
帳簿を読み続けるうちに、頭の中でひとつの形が完成していく。
これは単なる浪費じゃない。
浪費に見せかけた、吸い上げ。
軍需を口実に金が動き、いくつもの名義を通って一部の家に流れている。
そして一番怖いのは——利払い。
利払いが増えるということは、すでに借金が借金を呼んでいるということだ。
これは火だ。目に見えない火が、床下で燃えている。
蝋燭が二本目に移る頃、私はついに手を止めた。
指先が痺れている。目が熱い。
でも頭は冴えきっていて、冴えきっているからこそ、結論が冷たく落ちる。
「……三年どころじゃない」
声が、書斎に落ちる。
落ちた音が、やけに重い。
カイが静かに問う。
「期限の件ですか」
「うん。三年期限を作っても、その前に割れる」
「割れる……?」
「信用が」
私は紙の上の数字を指で叩いた。
軽く叩いただけなのに、紙が震える。
国の皮膚が震えたみたいに見えた。
「放置すれば一年で信用が割れる」
言い切った瞬間、喉がひりついた。
一年。
短い。短すぎる。
でも数字は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だけだ。
カイは目を伏せ、短く息を吐いた。
「……殿下にお伝えするべきでしょうか」
「伝えても、信じない。信じたとしても、動けない」
私は即答した。
殿下は理想を信じている。
理想は、数字の痛みを直視しにくい。
「じゃあ、どうなさいます」
カイの問いは冷静。
けれどその冷静さの奥に、焦りがある。
焦りは、時間がない証拠。
私は椅子にもたれ、天井を見上げた。
蝋燭の光が、天井の装飾を揺らす。
揺れが、不安を撫でる。
ここで私ができることは、ひとつしかない。
“見える化”だ。
隠されているから先延ばしされる。
先延ばしされるから膨らむ。
膨らむから割れる。
割れる前に、割れそうだと全員に見せる。
それは残酷だ。
でも残酷さは、時に救命具になる。
私は言った。
「債務公開」
カイの銀の目が、ほんの僅かに見開かれる。
「……公に、するのですか」
「公にする。社交界へ。商会へ。議会へ。全員の目に触れさせる」
「それは……混乱を招きます」
「混乱は招く。でも今のままでも混乱は来る。来る混乱を、制御できる形で起こす」
言葉が冷たい。
冷たいのに、胸の奥が痛い。
痛いのは、私が分かっているからだ。
債務公開は、王家の顔を潰す。貴族社会の“品”を破る。
私が悪役として憎まれるのは確定する。
カイが静かに言う。
「お嬢様は……それをなさると、ご自身が」
「憎まれる」
私は先に言った。
言い切ると、少しだけ楽になる。
避けようとすると、恐怖が膨らむ。
書斎の隅で、時計が小さく鳴った。
深夜の音。
私はその音に、前世の時間を重ねた。
深夜二時。
オフィス。
上司に怒鳴られ、後輩に頼られ、結局全部背負って、誰にも感謝されない。
それでもやった。やらないと現場が死ぬから。
やったのに、陰で「要領が悪い」と言われた。
頑張っても嫌われる。
あの感覚が、胸に戻ってきた。
胸の中心が鈍く痛む。
刺す痛みじゃない。
鈍器でゆっくり殴られる痛み。
呼吸のたびに、痛みが増す。
「お嬢様」
カイの声が、少しだけ柔らかくなる。
彼は私の痛みに気づいたのかもしれない。
でも気づいたとしても、慰めはしない。慰めは甘やかしになるから。
「……やるしかない」
私が呟くと、カイが頷く。
「準備を進めます。どの範囲まで公開を」
「段階的に。最初は、宮廷費と利払い。軍需は最後。軍需を先に出すと、侯爵が暴れる」
カイが理解の速さで頷く。
彼はもう“戦場”の空気を読んでいる。
「情報の出どころは」
「複数。ひとつの穴から漏れたことにしない。噂の形にして、自然に広がるように」
私は指先で紙の角を撫でた。
羊皮紙の硬さ。
ここまで硬いのに、濡れれば柔らかくなる。
社会も同じだ。硬い秩序も、不安で濡れれば崩れる。
「……お嬢様」
カイがもう一度呼ぶ。
今度は声が少し低い。
「この道は、戻れません」
「戻らない」
私は即答した。
戻れると思うと、人は甘える。
甘えた結果が、この数字だ。
蝋燭の炎がふっと揺れ、影が壁に大きく跳ねた。
その影が、一瞬だけ“悪役令嬢”の影に見えた。
大きくて、尖っていて、誰かを刺しそうな影。
私は影を見つめ、静かに笑った。
「悪役でもいい」
声は小さい。
でも心の奥に落ちる音は大きい。
「国が割れるより、ずっといい」
カイが深く頭を下げた。
それは忠誠ではなく、同意の礼だった。
「承知しました。債務公開の準備に入ります」
彼が扉へ向かう。
扉が閉まる直前、私は背中に言った。
「カイ」
「はい」
「……ありがとう」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が出た。
前世では、ありがとうを言う余裕がなかった。
言う前に、次の締切が来たから。
カイはほんの一瞬だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「お嬢様の決断です」
そして扉が閉まる。
私は一人になる。
机の上の帳簿は山のようで、数字は海のようだ。
蝋燭の匂いが濃い。
目の奥が熱い。
胸の痛みが消えない。
それでも、私は紙を閉じない。
閉じたら、数字が見えなくなる。
見えなくなれば、楽になる。
楽になると、また壊れる。
私はもう一度、帳簿を開いた。
指先が震える。
震えは恐怖と疲労と決意の混ざったもの。
数字は嘘をつかない。
嘘をつかない数字の前で、私は嫌われる役を引き受ける。
それが、私の生き残り方だ。
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