前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第10話:債務公開――炎上と崩落

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 噂は、香水みたいに広がる。

 最初は誰かの袖口に付いて、次に隣の席へ移り、気づけば宴会場全体を満たす。
 しかも香水と違って、嫌な噂ほど長持ちする。
 鼻の奥にこびりついて、いくら深呼吸しても抜けない。

 その夜、王都の大広間は、いつもより輝いていた。
 シャンデリアの光は粒が大きく、鏡の柱は客たちの姿を何度も映し返す。
 ワインは甘く、音楽は柔らかい。
 表面だけを見れば、平和そのものだった。

 けれど空気の底に、別の匂いがあった。
 鉄でも酒でもない。
 焦げる手前の紙の匂い。
 信用が燃え始める匂い。

「聞いた?」

 囁きが耳元を掠める。

「……王家が、借りすぎてるって」

「利払いが増えたらしいわ」

「舞踏会の費用も、軍の予算も……もう、限界だって」

 誰かが言葉を落とし、誰かが拾って、誰かが大きくする。
 私はグラスを持ったまま、静かにそれを聞いていた。
 心臓は速い。
 でも表情は動かさない。動かしたら“犯人”だと確定される。

 犯人だ。
 私は知っている。
 噂の起点の一部は、私が用意した。
 袋を分け、話を分け、名義を分け、情報が自然に漏れたように見せた。
 カイの仕事は正確で、冷酷で、静かだった。

 そして今、その静かな仕掛けが、爆発寸前の泡になっている。

 大広間の一角、商人たちが集まっていた。
 貴族の夜会に商人が入るのは珍しくない。貴族が財を誇るなら、商人は財を回す。
 ただ今夜の商人たちの顔は、いつもの“愛想”をしていない。
 目が尖り、口が固い。
 指が落ち着かない。
 数字の匂いがする。

 その一人が、低い声で言うのが聞こえた。

「国債が……売られてる」

 国債。
 その言葉が、場の温度を一段下げた。

 別の男が吐き捨てる。

「誰が最初に売ったんだ。王家の信用が揺れた瞬間に、群がる狼がいる」

「狼なら、ここにもいる」

 視線が動く。
 視線が私に触れた気がした。
 触れた、というより、肌を撫でる針。
 痛いのに血は出ない。

 私はグラスを口に運び、ワインを一口含んだ。
 甘い。
 甘いのに、舌の奥が苦い。
 前世の炎上を思い出す。
 画面の上で“誰かが悪い”と決めつけられ、怒りが増幅し、無関係な人まで焼かれていく。
 ここでは画面がない。
 だからこそ、燃える。

 ホールの扉が開き、冷気が流れ込む。
 そして人が走り込んできた。
 走り込むなんて、夜会で最も“やってはいけない”動作だ。
 それが起きる時点で、ただごとではない。

「殿下——!」

 息を切らした侍従が、王太子の側へ駆け寄る。
 レオポルトはその言葉を聞き、顔色を変えた。

 そして——私の方へ視線を投げた。
 鋭い。冷たい。
 理想の剣が、抜かれた目。

 レオポルトが歩く。
 歩くだけで周囲が割れる。
 割れた人の波の中で、囁きが一気に膨らむ。

「来るわ……」

「公爵令嬢に?」

「だって、王家の財布はヴァルツブルク……」

 私は息を吸い、背筋を整える。
 ここから先は、声と声の戦い。
 逃げる場所はない。
 逃げたら“黒”になる。残っても“黒”だ。
 なら、黒を使う。影を使う。

 レオポルトは私の前で足を止めた。
 近い。
 香水の匂いが混ざり、彼の体温が伝わる距離。
 でもその体温は今、怒りの熱だ。

「アーデルハイト」

 呼び捨てが、刃になっている。

「……殿下」

 私は礼をする。礼は残す。礼を残すことで、私は“敵”ではなく“対話者”に留まれる。

 レオポルトが声を荒げた。

「君は国を壊す気か!」

 怒り狂う、という表現がぴったりだった。
 普段の理知的な仮面が剥がれ、純粋な感情が露出している。
 それは美しい剣が、血に濡れる瞬間みたいだった。

 周囲が静まる。
 音楽が遠のく。
 シャンデリアの光が冷たく見える。
 この場の全員が、私の返事を待っている。

 私は冷静に言った。

「隠して壊れるより、晒して直す」

 言葉は短く。
 短いほど、刃になる。
 私の声が場に落ち、床の石に吸われる。

 レオポルトの瞳が揺れた。
 怒りの中に、理解できない痛みが混じる。

「晒して直す? 君がやったのか。……王家の借金の話を、社交界に流したのか!」

 私は否定しなかった。
 否定すれば嘘になる。嘘は信用を腐らせる。
 この夜に嘘を混ぜたら、本当に国が死ぬ。

「王家の負債は事実です。事実が噂になるのは、時間の問題でした」

「だからといって——!」

 レオポルトの声が一段高くなる。
 怒りは燃料。燃料は炎上を加速させる。

 私は一歩も引かない。
 引くと、彼の正義が私を切る。
 切らせないために、私は先に縛る。

「殿下。今、国債が売られています。商人が走っています。店が閉じます。民が不安になります。……これは、もう始まってる」

 まるで実況するみたいに言った。
 でもこれは実況じゃない。
 現実の描写だ。

 その瞬間、遠くで叫び声が聞こえた気がした。
 ホールの外、街の方から。
 錯覚ではない。
 今この瞬間にも、王都では金が動いている。金が動く時、人は走る。

 レオポルトの呼吸が荒くなる。

「君は、その混乱を“必要な痛み”だと言うのか!」

「そう」

 私は答えた。
 即答は残酷に見える。
 でも即答できないと、揺れる。揺れは恐怖を呼ぶ。

「痛みを見せないと、誰も動かない。隠せば先延ばしになる。先延ばしは破裂する」

 レオポルトの拳が震える。
 彼は今、私を殴りたいのかもしれない。
 でも殴れない。殴った瞬間、王太子は“感情で国を動かす”証明になる。
 彼もそれを知っている。

「……君は、王家の威信を踏みにじった」

「威信があるなら、立て直せます」

 私の言葉に、周囲の貴族がざわめく。
 威信。立て直す。
 貴族は威信を守りたがる。立て直すという言葉は、威信の下に“壊れかけ”があると認める言葉だ。

「殿下」

 私は声を少しだけ柔らかくした。
 ここで硬さを続けると、完全に敵になる。
 敵になれば、断罪が早まる。

「私は壊したいわけじゃない。直したい」

「直すなら、なぜこんなやり方を」

「隠していたから、ここまで膨らんだ」

 沈黙。
 沈黙が長いほど、噂は増える。
 場の空気が張り詰め、誰かの咳払いが響く。

 そして、風が変わった。

 扉の外で、走る足音が増える。
 商人たちの顔が青くなる。
 誰かが小声で言った。

「……取付けが始まる」

 取付け。
 預金を引き出す列。
 信用が崩れた時に起きる群集心理。

 私は、もう時間がないと悟った。
 ここで説得に時間を使えば、その間に街が燃える。
 燃えたら、誰が正しかったかではなく、誰が“責任者”かが問われる。

 私は手元の封筒を取り出した。
 あらかじめ用意していたもの。
 救済策。財政再建案。

 カイが私の背後から一歩進み、封筒を差し出す動作を助ける。
 彼の動きは滑らかで、余計な音がない。
 場を乱さない動作。
 だからこそ、内容の重さが際立つ。

「殿下。これが救済策です」

 レオポルトが目を見開く。

「救済策……?」

「財政再建案。支出の見直し、利払いの整理、軍需契約の監査。穀物流通の安定策。……そして、信用回復のための透明化」

 言葉を並べるたび、周囲が凍っていく。
 凍るのは寒いからじゃない。
 理解したからだ。
 私がただ暴露したのではなく、次の一手まで用意していることを。

 レオポルトが封筒を奪うように受け取り、紙を開く。
 視線が走る。
 彼の眉が寄る。寄るほどに、怒りとは違う表情になる。
 計算の顔。
 初めて彼が、数字に触れている顔。

「……条件がある」

 彼が低く言った。
 視線は紙の上から離れない。

「はい」

 私は頷いた。
 条件がなければ、仕組みは動かない。

「予算決定権の一部を、ヴァルツブルク家へ委譲……?」

 その言葉がホールに落ちた瞬間、空気が一斉に凍りついた。

 ざわめきが、止まる。
 音が消える。
 人の呼吸が聞こえる。
 貴族たちの目が、私に突き刺さる。

「……国の財布を、奪う気だ」

 誰かが囁く。
 囁きは波になりかけるが、波になる前に凍る。
 凍るのは怖いから。
 怖いのは、ここで拒否すれば国が崩れると皆が薄々理解しているから。

 レオポルトが顔を上げた。
 その目は怒りより、痛みが強い。

「君は……王家を追い詰めて、支配するつもりか」

 私は微笑んだ。
 ここでも微笑むのは、仮面。
 でも仮面の奥で、心臓が痛いほど鳴っている。

「支配じゃない。管理よ」

「言葉遊びだ」

「遊びじゃない。命綱」

 レオポルトの喉が動く。
 反論したい。けれど反論の材料がない。
 国債が売られている。街が揺れている。
 それが現実だ。

 そのとき、大広間の外から、さらに大きなざわめきが流れ込んできた。
 客たちの一部が席を立ち始める。
 貴族が夜会の途中で帰るのは異常だ。
 異常が当たり前になる時、崩壊は近い。

 私はレオポルトにだけ聞こえる程度の声で言った。

「殿下。選ぶ時間がありません」

 その言葉が、彼の頬をかすかに引きつらせた。

 そして、別の場所で、もうひとつの熱が燃え始めた。

 ホールの端。
 庶民のための慈善活動で名を上げた少女が、貴族の輪の外側に立っていた。
 素朴なドレス。柔らかな笑顔。
 リリアーナ・エヴァレット。

 彼女は騒ぎを見つめ、少しだけ眉を下げた。
 その表情は、悲しみの形をした“正しさ”だった。

 彼女は私の方へ歩み寄り、周囲に聞こえる程度の穏やかな声で言った。

「公爵令嬢様、やりすぎです」

 穏やか。
 優しい。
 それなのに、火に油を注ぐ言葉。

 周囲の視線が一斉に彼女に向かう。
 聖女の言葉は重い。
 そして彼女は、それを分かって言っているのか、分からずに言っているのかが、分からない。

 私の胸の奥で、鈍い痛みが鳴った。
 優しさで殴られる感覚。
 前世で何度も味わった。
 「頑張ってるのは分かるけど、やり方がきつい」
 「もっと優しくできない?」
 その言葉で、頑張りが悪に変わる。

 私はリリアーナを見た。
 彼女は微笑んでいる。
 微笑みは柔らかい。
 でもその柔らかさが、刃のように鋭い。

「やりすぎでも、やらないと崩れる」

 私は短く返した。
 声の温度を落としすぎないように注意する。
 冷たくすると、私は悪役として完成してしまう。

 リリアーナは小さく首を振る。

「民は、もっと不安になります。今、街の人たちが怯えています」

「怯えてるのは、事実を知らなかったからよ」

「でも、真実は……人を傷つける」

 真実は人を傷つける。
 その言葉は正しい。
 正しいからこそ、毒になる。

 私は息を吸った。
 甘い香水の匂いが鼻に入り、喉が少し痛む。
 喉が痛いのは、叫びたいからだ。
 でも叫ばない。叫んだら負ける。

「傷つけない真実なんてない」

 私は静かに言った。

「傷ついてでも、立たないといけない時がある」

 リリアーナの目が、ほんの少しだけ揺れた。
 理解したのか、拒否したのか。
 どちらにしても、彼女の言葉はもう燃料になっている。

 「やりすぎ」。
 その一言で、場の空気は私を“危険な女”へ固定し始める。
 貴族たちの中に、安堵が混じる。
 悪者がいると、皆が安心する。責任を押しつけられるから。

 レオポルトが、紙を握りしめる。
 握りしめた紙が、皺を作る。
 皺は、彼の葛藤だ。

「……君は、僕にこれを飲めと言うのか」

 声が低い。怒りではない。
 追い詰められた人間の声。

 私は頷く。

「飲まなきゃ、国が死ぬ」

 言い切った瞬間、ホールの奥で何かが割れる音がした。
 グラスか、皿か。
 誰かが動揺して落としたのだろう。
 小さな破片の音が、今夜の象徴みたいに響いた。

 社交界が凍っていく。
 凍った空気の中で、私は立っている。
 足元の床が冷たい。
 でも膝は震えていない。
 震えは胸の奥にしまい込んだ。表に出したら終わるから。

 外では商人が走り、店のシャッターが閉じ、民が不安でざわめいている。
 そのざわめきは、壁を越えてここまで来る。
 夜会の音楽よりも、ざわめきの方が強い夜。

 リリアーナは静かに微笑んでいた。
 救いたい顔。
 でも救いは、時に燃料になる。

 私はその微笑みに、微笑み返さない。
 微笑み返したら、負ける。
 負けたら、国が負ける。

 私はただ、レオポルトを見た。
 理想の剣が、今、数字の海の前で立ち尽くしている。
 そして私が差し出したのは、鞘ではなく、鎖だ。

 鎖は冷たい。
 冷たいから、握れる。
 熱い感情では握れない。

 この夜、炎上は始まった。
 崩落の音はまだしない。
 でも崩れる匂いは、もう王都の空に染みている。
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