前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第11話:旧貴族の反撃――物流遮断

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 朝の市場は、パンの匂いから始まるはずだった。

 焼きたての小麦の甘い香りが、石畳の隙間まで染み込み、まだ眠い人の腹を起こす。
 それが王都の普通だった。
 けれどその日、匂いが薄かった。

 代わりに濃いのは、人の吐く息と、焦りの匂い。
 脂のない空気。
 飢えの一歩手前の空気。

「今日はこれだけだ!」

 露店のパン屋が叫ぶ。
 木箱の中には、いつもの半分もないパン。小ぶりで、皮がやけに固い。
 並ぶ列は長いのに、箱は浅い。
 浅い箱は、人の不安を深くする。

「ふざけんなよ!」

「昨日はもっとあったぞ!」

 怒鳴り声が飛ぶ。
 怒鳴り声は、すぐに他の怒鳴り声を呼ぶ。
 火に火が移るみたいに、感情が燃え広がる。

 屋敷の馬車からその光景を見た瞬間、私は胃の奥が冷たくなった。
 債務公開の夜から、街の空気は確かに変わった。
 でもこれは、それ以上。
 信用の揺れではない。
 胃袋の揺れだ。

 胃袋が揺れたら、正義も礼儀も簡単に割れる。
 前世で知っている。
 コンビニの棚が空になった時、人は急に“他人”になる。
 今はもっと露骨だ。パンは命だ。

 カイが横で低い声を落とした。

「……物流が詰まっています」

「詰まりじゃない。絞られてる」

 私の声が自然に冷える。
 冷えは怒りの前兆。
 怒りは今、使えない。使えば負ける。
 私は怒りを、判断に変える。

「原因は」

 カイが即答する。

「アイゼンシュタイン侯爵です。鉄鋼の供給停止を始めただけでなく、港湾の荷役組合に圧をかけています。陸路の馬車組合にも。流通が——」

「止まるように揺らされてる」

 私は窓の外の列を見つめた。
 並ぶ人々の顔が硬い。
 抱える籠が軽い。
 軽い籠は、心を重くする。

 遠くで、石が地面を蹴る音がした。
 小さな音。
 けれど、その音の意味が怖い。
 石はまだ投げられていない。
 でも石を手に取る前の空気が、街に溜まっている。

「……お嬢様」

 ミレーネの声が震えていた。
 彼女は屋敷の窓辺に立ち、同じ光景を見ている。
 目が潤んで、唇が白い。

「みんな、怒ってます……」

「怒るよ」

 私は短く答えた。
 怒る権利がある。
 飢える前の人間は、怒りで自分を支える。

 カイが続ける。

「鉄鋼が止まれば、農具の修理も遅れます。馬車の軸も。港の滑車も。……連鎖します」

 鉄は武器だけじゃない。
 鉄は生活の骨だ。
 骨が折れたら、身体が動かない。
 侯爵はそれを知っている。知っているから止める。

「旧貴族の反撃ね」

 私が呟くと、カイが頷いた。

「お嬢様が債務公開を行ったことで、王家は揺れました。揺れた王家に刃を向けるより、民を揺らして王家を燃やす方が早い、と」

 燃やす。
 マティアスの言葉が蘇る。

――民が飢えたら、貴族は燃える。覚えときな。

 覚えてる。
 だから今、動く。

「連絡して」

「誰に」

「マティアス」

 カイの目が僅かに細くなる。
 理解。
 物流の王。
 今、彼の首が動かなければ、街が死ぬ。

 私たちは屋敷に戻り、書斎に籠もった。
 蝋燭を灯す時間でもない。
 昼なのに、窓際の光が薄い。空も曇っている。
 曇り空は人の不安を増幅させる。

 カイがギルドへの連絡を飛ばし、ほどなくして返事が来た。
 そのまま、マティアスが屋敷まで来た。
 早い。
 早いのは、彼も事態の匂いを嗅いでいる証拠だ。

 応接間の扉が開いた瞬間、香辛料の匂いが入ってきた。
 夜の酒場の匂い。
 なのに彼の顔は笑っていなかった。

 マティアス・ローデルは腹を揺らしながら椅子に座り、深く息を吐いた。
 陽気な声はそのまま喉にあるのに、出していない。
 出す余裕がない時の沈黙。

「……やられたな」

 低い声。
 唸るような声。
 鋭い瞳が、私の目を真っ直ぐ刺す。

「侯爵?」

「侯爵だけじゃねぇ。港の連中も、陸の連中も、上からの圧に弱い。握られてんのは金だけじゃねぇんだ。命もだ」

 命。
 脅し。
 旧貴族がいつも使う手段。
 表では礼儀、裏では首。

 私は机に手を置き、言った。

「あなたの約束よ」

 マティアスの眉がぴくりと動く。

「……あ?」

「民が飢えたら燃えるって言った」

 言葉は短い。
 でも重く落とした。
 責めるためじゃない。
 今、責める暇はない。
 これは確認だ。あなたは私の側に立つのか、という確認。

 マティアスは歯を食いしばり、鼻で息を吐いた。

「覚えてるよ。俺が言った。だから今ここにいる」

 彼は前傾姿勢になり、机の上に大きな手を置く。
 その手の甲には小さな傷がいくつもある。
 現場の手。
 金を数えるだけじゃない手。

「迂回させる」

 その一言が、空気を変えた。
 救命具が投げ込まれたみたいに、胸の奥が少しだけ息をした。

「どうやって」

「港を使わねぇ」

 マティアスは即答する。

「港を使わずに物を入れる方法がある。川だ。上流の小さな荷揚げ場を使って、そこから小分けにして入れる。陸路も大通りを使わず、農道と林道を繋ぐ。……だがな」

 彼はそこで言葉を切り、目を細めた。

「金がいる」

 当然だ。
 迂回は効率が落ちる。
 効率が落ちれば、コストが増える。
 コストが増えれば、誰かが払う。

「どれくらい」

 私が問うと、マティアスは指を折った。
 数字を言う前に、空気で“重い”と分かる指の折り方。

「先払いで、莫大だ。船を動かす。人を動かす。口止めもいる。さらに燃料——いや、薪と餌。全部今の相場は跳ねてる」

 相場が跳ねる。
 つまり、もう皆が不安で買い占め始めている。
 不安は値段を上げ、値段は不安を増やす。
 悪循環の始まり。

 カイが静かに言った。

「金額の見積もりを具体的に」

「紙に落とす時間がねぇ。今払えるか、払えねぇかだけ言え」

 マティアスの声が荒い。
 荒いのに、怒鳴ってはいない。
 怒鳴っている暇がない。
 現場の切迫だ。

 私は一瞬も迷わなかった。

「払う」

 即決。
 言葉が空気を切る。

 ミレーネが「えっ」と小さく声を漏らした。
 カイの銀の目が、ほんの少しだけ揺れる。
 驚きではない。
 確認。
 この決断が本気かどうかの確認。

「払う。民を飢えさせない」

 マティアスが、口角を上げた。
 いつもの陽気な笑みじゃない。
 戦う男の笑み。

「はは……そう来るかよ。公爵令嬢」

「理由はそれだけ」

「それだけで動ける奴は、強ぇ」

 彼は立ち上がり、腹が揺れる。
 でも揺れは鈍さじゃない。余裕だ。
 余裕のある者は、揺れても倒れない。

「ただし条件がある」

「言って」

「この金、寄付じゃねぇ。投資だ。回収する。回収できなきゃ、次は動けねぇ」

「回収して」

「回収させろ」

 マティアスは鋭い瞳で言った。

「慈善の真似事は嫌いだ。腹が減ってる奴にパンを渡して終わりじゃ、また腹が減る。流れを戻す。流れが戻れば金も戻る」

 私は頷いた。
 これが現実。
 現実の優しさは、循環だ。

「分かった。条件は受ける」

「もう一つ」

 マティアスは指を立てる。

「これをやれば、旧貴族はもっと汚い手を使う。お前は覚悟できてんのか」

 覚悟。
 その言葉が、胸の奥を撫でる。
 痛い。
 でも痛いのは生きている証拠だ。

 私は答えた。

「できてる」

 嘘じゃない。
 債務公開の瞬間から、私はもう“戻れない側”にいる。
 優しく笑って許される道は、最初からなかった。

 マティアスが短く笑う。

「いいねぇ。……じゃあ動く。今すぐだ」

 彼はカイに視線を向ける。

「金は今日中に動かせるか」

「可能です」

 カイの声が即答になる。
 彼の中でももう、迷いは切り捨てられている。

 マティアスが私に言う。

「覚えとけ。今日からお前は“いい子”じゃいられねぇ」

「最初から、いられない」

「ははっ!」

 笑いが短く弾ける。
 でもその笑いは軽くない。
 重い笑いだ。
 世界が変わる笑い。

 マティアスが去ると、応接間に静けさが戻った。
 静けさの中で、私は自分の手を見た。
 指先が冷たい。
 冷たいのに、震えていない。

 前世の私は、決裁の判を押すとき、いつも少しだけ震えた。
 責任が怖かった。
 誰かに怒鳴られるのが怖かった。
 失敗して晒されるのが怖かった。

 でも今は違う。
 怖さはある。
 でも震えない。

 これは“悪役”の手つきではない。
 誰かをいじめる手つきでも、誰かを落とす手つきでもない。
 支配者の手つきだ。
 流れを握り、流れを戻す手つき。

 ミレーネが小さく言った。

「お嬢様……そんなにお金を……」

「お金は血液よ」

 私は窓の外を見た。
 市場の列はまだ長いだろう。
 でも迂回路が動けば、パンは届く。
 届けば人は少し落ち着く。
 落ち着けば石は投げられない。

「血液が止まったら、身体が死ぬ。国も同じ」

 ミレーネの目が潤む。

「……優しいです」

「優しくない」

 私は即答した。
 優しいと言われると、縛られる。
 私は優しさで縛られたくない。

「これは管理。生存のための管理」

 カイが静かに言う。

「お嬢様。これで侯爵は、さらに動くでしょう」

「動くだけ動けばいい」

 私は椅子から立ち上がった。
 背筋が自然に伸びる。
 怖いのに、足が前へ出る。

「民を飢えさせない。飢えさせたら燃える。燃えたら国が終わる」

 私は言葉を一つずつ噛み締めた。
 噛み締めるほど、現実になる。

 旧貴族の反撃は始まった。
 物流が滞り、パンが減り、価格が跳ねる。
 民の苛立ちが街に溜まる。石が投げられそうな空気が生まれる。

 それでも私は、支払う。
 流れを作り直すために。
 燃える前に、水を回すために。
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