前世ブラックOLの私が転生したら悪役令嬢でした

タマ マコト

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第12話:備蓄穀物の放出――慈善と投資の境界線

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 倉庫の扉を開けた瞬間、穀物の匂いが押し寄せた。

 乾いた麦の匂い。
 粉っぽい甘さと、土の名残り。
 袋の縫い目から漏れた微細な粉が、光の筋の中で舞っている。
 それは雪みたいに静かで、でも触れたら喉がざらつく。
 生きるための粒が、空気の中で形を持っている。

 ギルドの大倉庫。
 マティアスが手配した場所は、王都の外れ、川沿いの低い土地にあった。
 表向きは商会の保管庫。
 実際は、私とマティアスが共同で握る“命綱”の箱。

 扉の前には、番人が二人。
 鍵は二つ。
 ひとつはマティアス側。
 もうひとつはヴァルツブルク側。
 誰か一人の気まぐれで開かない仕組み。

 私は外套の袖から鍵を取り出し、冷たい鉄の感触を指に確かめた。
 鉄は冷たい。
 冷たいから信用できる。
 熱いものは揺れる。冷たいものは重い。

 カイが隣で囁く。

「市場の価格は、昨日からさらに上がっています。パンは三割、粉は四割。……街の空気も、危険です」

「分かってる」

 危険。
 その言葉の裏に、投げられる石がある。
 折られる窓がある。
 燃える屋敷がある。

 私は鍵を差し込み、回した。
 音は小さい。
 でもその小さな音が、街の未来を少しだけ変える。

 次に、マティアス側の鍵。
 番人が回す。
 がちゃり、と重い金具が外れる音がする。
 扉が、ゆっくり開く。

「……放出する」

 私は言った。
 声は落ち着いている。
 でも胸の奥では、心臓が速く打っている。
 失敗したら、火が付く。
 成功しても、別の火が付く。
 それでもやる。

 倉庫の中には、麻袋が積み上がっていた。
 麦、ライ麦、乾燥豆。
 袋の角が揃い、積み方が整然としている。
 整然とした備蓄は、安心の形だ。

 マティアスが腹を揺らしながら入ってくる。
 いつもの陽気さは薄い。
 でも目は生きている。
 こういう時こそ、生きている目をしている。

「おい、公爵令嬢。最後の確認だ」

「なに」

「無償じゃねぇんだな?」

 彼の声は、念押しだ。
 “聖女”の無償配布が街の空気を変え始めている。
 それに引っ張られるな、という念押しでもある。

「無償じゃない」

 私は即答した。

「価格を抑えて、供給する。買える値段で、確実に回す」

「理由は」

 マティアスが聞く。
 分かっているはずなのに聞くのは、私の覚悟をもう一度測るため。

「無料は続かない。無料は市場を殺す」

 私が言うと、マティアスが短く笑った。

「よし。じゃあ、始めるぞ」

 彼が指を鳴らすと、荷運びの男たちが動き出す。
 袋が肩に担がれ、台車に乗り、倉庫の外へ流れていく。
 袋が擦れる音は、波みたいに一定で、妙に落ち着く。
 物流は音で分かる。音が一定なら、流れは生きている。

 私はカイに目配せした。

「価格表、確認」

「はい」

 カイは紙を取り出し、淡々と読み上げる。

「市価の六割に設定。購入上限は一家族あたり二袋まで。転売防止の印を袋に。支払いは現金のみ。……ただし、診療所と孤児院には別枠で卸します」

「卸値は?」

「市価の四割。継続契約を条件に、帳簿を提出させます」

 帳簿。
 そこに、私の線が入る。
 善意を利用するのではない。
 善意を続けるための、現実を整える。

 倉庫の外に出ると、すでに人の列ができていた。
 噂は早い。
 “ヴァルツブルクが穀物を出す”
 その一言だけで、人は集まる。

 列の先頭は、手が荒れた女。頬がこけている。
 その後ろに、子どもを抱いた男。
 さらに、老人。
 全員の目が同じ方向を向いている。
 生きる方向。

 私は高台に設けた簡易の台へ上がった。
 護衛が一瞬、止めようとするが、私は首を振る。
 見せる必要がある。
 ただの施しではない。仕組みだと示す必要がある。

 ざわめきが起きる。
 金髪碧眼の公爵令嬢が、こんな場所に立つ。
 それだけで、物語が始まる。

 私は声を張った。
 叫ばない。
 しかし届く声で。

「穀物を供給します。買える値段で、継続して」

 ざわめきが少し大きくなる。
 “買う”。
 無償ではないことに、不満が混じるのが分かった。

 すぐに、誰かが叫ぶ。

「金を取るのかよ!」

「貴族は結局そうだ!」

 石はまだ飛ばない。
 でも空気が尖る。
 その尖りを、私は正面から受けた。

 私は一呼吸置いて言う。

「無料で配ると、明日から市場にパンが消える。商人が潰れる。職人が潰れる。そうなれば、あなたたちはもっと飢える」

 言葉は冷たい。
 でも冷たい言葉は、現実を支える。

「ここで売るのは、あなたたちを買い物できる状態に戻すため。生活を戻すため。……生きるための仕組みを守るため」

 列の中の女が、唇を噛んだ。
 怒りと、理解と、悔しさが混ざった顔。
 その顔が、人間の顔だ。

「……いくらだ」

 誰かが低い声で聞く。
 私は価格を告げる。
 市価より確かに安い。
 それを聞いた瞬間、列の緊張が少しだけ解けた。

 販売が始まる。

 袋が渡され、銀貨が受け取られる。
 袋の口に印が押される。
 台帳に名前が書かれる。
 家族の人数が記される。
 上限が守られる。
 並ぶ人々の動きが次第に落ち着いていく。

 落ち着きは、胃袋から生まれる。
 胃袋が満たされる見込みが立つと、人は人に戻る。

 子どもが袋に抱きつき、母親が泣いた。
 泣き声は静かで、恥を隠すように袖で拭われる。
 その袖口が汚れている。
 汚れている袖口は、生活の証明だ。

「ありがとう……」

 女が呟く。
 ありがとうは、私にではなく、袋に向けられているように見えた。
 それでいい。
 感謝を集めたいんじゃない。火を消したい。

 昼過ぎ、列はまだ続いていたが、空気は明らかに変わった。
 午前中の尖りが丸くなり、ざわめきが生活の音に戻っている。
 暴動の火は、一旦消えた。

 カイが耳元で囁く。

「投石の兆候は収まりました。市場も、値が落ち始めています」

「よし」

 私は息を吐いた。
 息を吐いた瞬間、肩の奥がじんと痛んだ。
 緊張を支えていた筋肉が、ようやく自分の重さを思い出した痛み。

 ――でも、終わりじゃない。
 むしろ、別の戦場が始まる。

 屋敷に戻る途中、馬車の窓から城下の噂の流れが聞こえた。
 露骨に聞こえなくても、空気で分かる。
 言葉は風に乗る。

「人気取りだってさ」

「偽善よ。金取ってるんでしょ」

「公爵家の売名じゃない?」

 笑い声。
 軽い声。
 貴族の声は、飢えた声より軽い。
 軽いから残酷だ。

 応接間に戻ると、ミレーネが駆け寄ってきた。
 頬が少し赤い。外の空気に当たったのだろう。
 それとも興奮か。

「お嬢様! すごかったです……! みんな、落ち着いて……」

「落ち着かせたのは穀物よ。私じゃない」

「でも……皆、感謝してました」

「感謝は一晩で変わる。胃袋が空いたらまた怒る」

 ミレーネが黙り込む。
 私は言いすぎたかもしれない。
 でも言いすぎるくらいでいい。
 この世界は甘い言葉で壊れる。

 その夜、別の噂も届いた。
 リリアーナの無償配布が続いている。
 孤児院、炊き出し、診療所。
 彼女の周りには拍手がある。
 私の周りには計算がある。

 私は知りたくて、知りたくなくて、結局、見に行った。
 カイに止められそうになったが、首を振った。

「見ておく。敵じゃない。現実」

 夜の街。
 灯り。
 焚き火の匂い。
 人の輪。

 リリアーナはそこにいた。
 素朴なドレスのまま、鍋の前でスープをよそっている。
 無償。
 列の人々は、手を合わせ、涙を浮かべ、彼女の手を握ろうとする。

「ありがとう、聖女様……」

 その呼び方に、リリアーナは少しだけ困ったように笑う。
 でも否定しない。
 否定しない優しさは、肯定と同じ力を持つ。

 彼女は子どもの頭を撫で、老人の背をさすり、疲れた母親に毛布を渡す。
 手が、温かい。
 その温かさが、人の心を掴む。

 私は少し離れた場所から見つめた。
 心臓が、嫌な音を立てる。
 嫉妬ではない。
 焦りとも違う。
 もっと苦いもの。
 “私はこうはできない”という確信。

 リリアーナの目が、ふとこちらを見た。
 人混みの中でも、彼女は私を見つける。
 視線が合う。

 彼女は微笑んだ。
 柔らかい微笑み。
 そしてその微笑みの奥に、ほんの少しの疲れが見えた。
 彼女もまた、無償の重さを背負っている。
 背負っているのに、笑っている。

 リリアーナが鍋を渡し終えた後、私の方へ歩いてきた。
 護衛が動こうとするが、私は目で止めた。
 リリアーナは敵意をまとっていない。
 まとっていないからこそ、危ない。

「公爵令嬢様」

 彼女の声は、夜の火に温められたみたいに柔らかい。

「今日は……穀物を出されたんですよね。街が、少し落ち着いたって聞きました」

「そう」

「よかった」

 その“よかった”は本物だった。
 本物だから、胸が痛い。
 本物の善意は、刃を隠す必要がない。
 だから強い。

「でも……」

 リリアーナが言葉を探す。
 その探し方が、優しい。

「お金を取ったって、みんな言ってます。……誤解されてしまいます」

 誤解。
 違う。誤解じゃない。
 私は金を取った。
 取った理由があるだけ。

「誤解されてもいい」

 私が言うと、リリアーナは眉を下げた。

「嫌われます」

「嫌われてもいい」

 その言葉を口にした瞬間、前世の痛みが胸に触れた。
 頑張っても嫌われる。
 正しくやっても煙たがられる。
 その鈍い痛みが、今日も確かにある。

 リリアーナは私を見つめ、少しだけ唇を噛んだ。
 彼女の目に、迷いが宿る。
 迷いは彼女の弱さじゃない。彼女の人間らしさだ。

「……私は、無料で配ります。今夜も、明日も」

「続けられるなら、続けて」

 私は言った。
 止めるつもりはない。
 ただ、見ている。
 無償がどこまで続くか。
 続いた先に何が残るか。

 リリアーナは小さく息を吸い、胸に手を当てた。

「続けます。だって、今目の前で震えてる人がいるから」

 震えてる人。
 確かにいる。
 私も見た。
 だから穀物を出した。
 ただ私は、“目の前”だけでは戦えない。
 目の前を救っても、明日が崩れたら意味がない。

 リリアーナの声が少しだけ強くなる。

「公爵令嬢様は……冷たいって言われます」

「知ってる」

「冷たいのは……怖いです」

 怖い。
 その言葉が、胸の奥を撫でる。
 前世で何度も言われた。
 冷たい、きつい、怖い。
 それは私の性格ではなく、防具だった。

 私は息を吐き、静かに言った。

「冷たくないと、燃える」

 リリアーナが瞬きをする。

「燃える……?」

「民が飢えたら、貴族は燃える。あなたも、私も」

 リリアーナの目が、ほんの少しだけ震えた。
 彼女は火を見たことがあるのだろうか。
 燃えるのは、焚き火だけじゃない。
 家だ。国だ。

 しばらく沈黙が落ちた。
 鍋の煮える音。人の咳。子どもの笑い。
 生活の音が、その沈黙を埋める。

 リリアーナは、最後に微笑んだ。
 優しいままの微笑み。

「公爵令嬢様。……私は、心を守ります」

 私は頷いた。

「私は、生活を守る」

 その瞬間、胸の奥がすっと整った。
 やっと言語化できた気がした。

 心と生活は、別の戦場だ。

 前世でもそうだった。
 福利厚生の言葉は甘い。
 “働きやすい環境”という標語は綺麗。
 でも現実は給与明細。
 手取りの数字が、生活を決める。
 人の優しさだけでは、家賃は払えない。

 私は生活を守る側に徹する。
 感情戦は捨てる。
 捨てるというより、最初から私の武器じゃない。

 屋敷へ戻る道で、夜風が頬を冷やした。
 冷たい風が、私の決意を固める。

 人気取りと呼ばれてもいい。
 偽善と呼ばれてもいい。
 私は数字で、流通で、信用で守る。

 心は、彼女が守ればいい。
 私は、生活を守る。

 それがこの国の、二つの盾になるなら。
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